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[ ズルツァー ]の影響

[ ズルツァー ]の影響は各所にある。



 特に電子機器関係は顕著であった。

 PPIスコープは陸軍にも提供され軍産学共同で国産化し成果を上げつつある。


 他にも時限信管が急速に曳火式から機械式に変わっていく機会にもなった。レーダー管制射撃照準装置でより正確に砲弾を炸裂させようと思えば曳火式から機械式になるのは必然だった。

 真空管付き信管が電波を発振しその反射条件で炸裂する恐るべき信管であることはわかった。しかし、直ぐには作れない。次善の策で正確に炸裂する信管となった。

 しかし、日本の工業力では戦線に行き渡るほどの量産は無理だった。一部を除き終戦時まで曳火式時限信管を使い続けることとなる。


 砲弾の機械式信管化により2000発撃って1発命中するかどうかという状態が、電探管制射撃装置の導入もあり1000発撃ってくらいには計算上なった。計算上である。水の上でどんぶらこして常に動揺している状態が標準の艦艇搭載高角砲ではもっと悪いだろう。転蛇などすればどこに弾が飛ぶのやら。

 

 命中率が劇的に上がるのは優秀なソフトウェアが動くコンピューターで制御される砲スタビライザーと射撃管制装置などシステム全体の高度化が出来てからであった。その頃には機械式信管もかなり精度が上がっている。



 苦労して実用化された本命とも言える近接信管が戦場に現れたのは昭和19年冬だった。空母と秋月級に重点配備され他の艦には生産量の関係もあり少数艦に渡された。現物があり理屈はわかっていても工業力が追いつかないのだった。

 近接信管付き砲弾は反応しなければ炸裂しないので「弾幕薄いぞ!何やってる!」と言われることもあったという。言ったとされる艦長は「そんなことは言っていない「焦るな、焦ると当たるもんも当たらんぞ」とは言った」そうだ。

 昭和20年2月のマリアナ沖海戦では威力を発揮したようである。

 ただし、戦後の解析ではボフォース40ミリ機銃の射程外で高角砲の砲弾が敵機を撃墜するのに1機辺り800発程度を要しており、どの砲から発射された砲弾か判らないだけにどれがけ効果が有ったかは不明である。

 戦後に行われた米軍近接信管との比較試験では7割程度の能力だったようである。


 他にもレーダー波探知装置[ 逆探 ]や短波方向探知機[ ○(まる)探 ]が国産化され、かなりの成果を上げている。

 上記二機種は艦艇のみならず一部の対潜哨戒機にも搭載された。探知され撃破・撃沈された潜水艦も多い。










 昭和17年11月13日夜 サボ島沖


「電探に反応。距離2万5000。方位**」

「司令官。砲弾を徹甲に変えます」

「・わかった」

「砲術。敵艦隊が現れた。徹甲に切り替えだ」

「艦長。降ろすのに10分以上かかります。装填済みは時間がありません」


 比叡と霧島は飛行場砲撃のためにあらかじめ榴弾を砲塔内に揚げて、もう装填もしていた。慌てることは無いのに規定違反である。司令官が命令したのだ。


「砲術。降ろせるだけで良い。残りは撃ってしまえ」


 その夜は日米とも散々だった。ただ巡洋艦が最大の米艦隊に対して元はユトランド前に設計された弱装甲のイギリス型巡洋戦艦と言えども戦艦2隻が戦力の日本が終始優位に戦闘を進めた。比叡の電探は威力を発揮した。しかし、本来の作戦目的であるガダルカナル島飛行場砲撃は時間が無くなり実行できず失敗した。

 ガダルカナル島から撤退をするには、ガダルカナル島飛行場と米軍歩兵部隊が邪魔なのだ。

 翌日、再度決行されたが霧島が戦艦同士の砲戦で沈むという事態になっている。サウスダコタを大破まで追い込み、目標をワシントンへ切り替えている最中にワシントンから一方的に撃ちまくられた結果だった。飛行場砲撃はやはり失敗していた。


 この海戦後、電探装備に反対や消極的だった関係者が掌を返したように電探電探とうるさくなった。



 ガダルカナル島撤収作戦は1942年12月に行われた。連合艦隊主力まで投入して2万を超える人員の撤収に成功した。

 この時、大和・長門・陸奥・伊勢・日向の5隻とワシントン・インディアナ・ノースカロライナの3隻、敵味方8隻の戦艦が参加するユトランド以降では最大規模な戦艦同士の砲戦が発生した。結果は日本側が、大和中破、長門中破、陸奥爆沈、伊勢小破。であったのに対してアメリカ側は3隻沈没である。

 この時、大和の初弾命中があまりに遅いため「大和はまだか」と言った士官がいるという。


 作戦時、択捉級海防艦4隻が対潜警戒部隊としてサボ島沖まで艦隊先頭に立ち艦隊の安全に寄与した。










 二式対潜投射砲は言わずと知れたヘッジホッグそのものである。大湊に現れた[ズルツァー]に搭載されていたもののデッドコピー。

 その対潜攻撃力は当たりさえすれば高い。当たりさえすれば。ヘッジホッグも爆雷も当たれば潜水艦は終わりなのは同じだ。ただヘッジホッグは当たらないと何の効果も無い。爆雷は当たらなくても爆圧でダメージを与えることができる。その点爆雷は面制圧兵器とも言えよう。

 ヘッジホッグの場合は当たらなければ爆発しないので海水を擾乱することは無い。聴音も探信も攪乱されないので、投射後すぐに聴音と探信が行える。しばらく使い物にならない爆雷の爆発とは違う。

 この対潜兵器は海防艦だけでなく駆逐艦にも急速に配備が進むと思われた。

 ただ、配備される途中に大きな問題が立ち塞がった。従来艦に取り付ける場所が無い場合がある。初春級を除く吹雪級以降の駆逐艦は1番砲塔防楯が邪魔で射界内に入ってしまうことだった。砲塔式の防楯がデカすぎるのだった。

 そこで戦線拡大が止まったことから、取り付ける場所が有る峯風級と神風級の旧式駆逐艦を海防艦籍へ移動。艦名を新たに島から取り旧艦名は夕雲級や秋月級へと回されることとなった。各艦関係者はこれに難色をしめしたが、旧艦名の銘板を残し新艦名はその下に取り付けることで納得させられた。

 睦月級は61センチ発射管を備えることから反対の声が強く海防艦籍への移動はなかった。53センチ魚雷装備艦の大幅な減少で水上艦用53センチ魚雷は在庫のみとされ、新規生産は無しとなるが残りの搭載艦が少なく問題にはならなかった。

 インド洋で活動する予定の仮装巡洋艦の装備品としてと言う声もあったが、仮装巡洋艦そのものの話が消えたのでそれさえも無くなり、資源としてリサイクルされた。

 仮装巡洋艦の船名は小王丸(ギリシャ語でバシリスクの意味)となる予定だった。



 峯風級と神風級の取り付け場所とは前部発射管が装備されている場所だった。前部発射管のみならずすべての発射管が撤去され、他の発射管跡には対空機銃座が設置された。対潜投射砲の予備弾は搭載する場所が狭く6回分であった。

 爆雷設備は旧式だったため新式に交換された。爆雷搭載数は変わらない。

 主砲は1番4番はそのまま残された。2番と3番は撤去され25ミリ連装機銃が設置される。25ミリ機銃だけで連装8基を装備した。高角砲搭載が無理だったこともある。ボフォース40ミリ機銃の量産が進むと、1番4番主砲を撤去してボフォース40ミリ4連装機銃を三三号機銃管制電探と共に装備する。

 海防艦化は短時間で行われることとなり機関のうちタービン主機はそのままになっている。燃費のために缶を半分撤去さていた。それにより航続距離が14ノットで4000海里ほどまで伸びた。最大速力は23ノットまでの低下で済んだ。

 当然、新造海防艦と同じように各部に防振ゴムを噛ませてある。

 缶が撤去された跡地は冷蔵庫を含む各種倉庫や冷房付きの電測室や音探室に使われた他、風呂!に使われる等、長距離航海での居住性向上に買っている。

 冷房が装備されたのは缶室並みの室温を真空管機器からの発熱がもたらしたためである。要員のみならず機器の保守にもの室温低下措置は必要だった。



 吹雪級以降への装備は、結局、発射架台を高くして装備することになる。18年春から順次改装を開始している。架台と発射機に1回目の弾薬だけならいいが、次発装填を考えると結構な広さの甲板とも言える広さが必要になる。重心上昇が懸念されたが、平時ならともかく戦時にこの程度なら許容するという考えだった。後年判明したことだが、アメリカ海軍艦艇に較べると安定性を重視しすぎて武装が少ないことがわかった。アメリカ海軍艦艇は逆にトップヘビーが酷く減らすということも有ったほどだ。

 そして艦橋前に機銃台をと思ったらこいつがいた。日本駆逐艦の前方対空火力が19年春まで無いのはこいつのせいである。

 19年春になると前部主砲の射界を大きく減らすのと引き換えに艦橋周辺にスポンソンを設け前方へも撃てるようになった艦が出てきた。後部主砲も射界を減らして対空火器増設スペースを捻出した。そして各種対空兵装の増加と共に重心上昇を避けるため各艦予備魚雷を降ろした。島風などは5連装発射管3基の内1番連管を降ろしてしまったほどである。

 予備魚雷を降ろした艦の中には予備魚雷庫も降ろし、機銃弾でも即応弾を少数置く弾薬庫にしたり救命装備を置く場所にした艦もある。



 二式対潜投射砲は戦時中、有効な対潜兵器として潜水艦29隻撃沈(爆雷も含めると43隻)の戦果を上げたが、通算で一番潜水艦を撃沈したのは対水上電探や磁気探知機、さらに逆探や○探を備えた九六陸攻や東海など専門の対潜哨戒機であった。

 連合軍は対日戦で潜水艦108隻喪失となっている。一時期あまりの未帰還の多さに出撃拒否騒動まで起こった。











 どこかの海軍工廠


「また詰まった」

「連射性能を上げるにはベルトリンクにするしかないと思うが」

「それは正しいと思いますが、元にした機銃がダメダメという評価ですよね」

「毘式40ミリ機銃か。考えは良いんだよな」

「ベルトに固執しなくてもドラムではダメですか。どのみち発射速度は毎分100発程度です」


 四発クリップによる給弾が気に入らずに連射性能を上げようと試みた一団がいる。都合良く40ミリ機銃で連射できるベルト給弾の毘式40ミリ機銃が手元にあった。改造である。余分なことに布ベルトによる給弾から金属リンクへの変更をしてみたのだった。革ベルトだったら上手くいったのかもしれない。


「詰まらない」

「リンクを飛ばす機構が原因だったか」

「しかし、40発入りドラムが重いぞ」

「4人掛かりでも持ち上げるのがようやくでは」

「艦上では交換もできないな」

「揺れるし特に交戦時は不可能だろう」


 中止となった。

 この装填機構を改良して80発入りとし機関部と銃身を水冷化し70口径にしたものが後年無人リモート砲台として実用化される。

 ただし撃ち尽くすと弾倉交換に6人掛かりで最短30分というのが問題にされ少数採用されたに留まった。



大戦中の対空砲命中率なんてこんなものだったらしいです。直撃ではなくて破片で墜とすから、有効射程内なら撃墜率はもう少し上がるんだと思います。

開戦時、高角砲や高射砲の信管は長10センチ高角砲砲弾用以外陸軍海軍とも曳火式だったようです。

VTヒューズは米軍と言えども戦時中に全艦へ行き渡らなかったようです。


比叡は帰還しましたが損傷が激しくドック入りのため内地行き。

毘式40ミリ機銃がダメダメだった原因?知りません。英国面でしょうと無責任に言ってみる。

本家ではメタルリンク式の改良型が整備された物は上手く作動していたようです。

日本ではエリコンFFをベルト給弾にしたのだからボフォース40ミリ機関砲もと。

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― 新着の感想 ―
まぁVT信管が活躍したと言われるマリアナ沖海戦で威力を発揮したのはレーダーで管制された戦闘機でさほどVT信管は威力を発揮出来なかった、
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