開かずの扉
第一中学校の美術室には、開かずの扉がある。
美術室は廊下の角にあり、廊下とは反対側にひとつの扉があった。扉の前には、描き上げた絵を乾燥させる棚があり、大きな棚が扉を塞ぐように置かれている。授業の前後に作品を出し入れする際、扉の向こうに何があるのか気にする生徒もいた。
授業の終わりが近づき、修は絵の具が染み付いた流し台で絵筆を洗っていた。水に溶けて流れる絵の具をぼんやり眺めていると、背後で女子のグループが賑やかに話す声が聞こえてきた。
「あの扉の向こうって何があるんだろう」
「わからないけど、おばけが出ないように封印してたりして」
「変なこと言わないで!」
冗談交じりの悲鳴が耳につく。
「あゆみん、うるさいよ。ビビりすぎだって」
「心霊とかほんと無理だから、あんまり怖がらせないで」
「はいはい。早く筆洗いなよ」
筆を洗い終えた修は、女子に順番を譲ってから、扉のほうに目をやった。
ただの古びた木の扉だ、と思う。
彼は美術部の部長で、放課後は鉛筆でデッサンをするか、絵の具で風景を描いて過ごしていた。3年生の唯一の部員が転校してしまい、2年生の彼が部長を引き継いで今に至る。
周りの生徒と比べて美術室で過ごす時間が長く、棚をよく使うので、その奥の扉を目にする機会も多い。
見慣れたものはかえって意識に上りにくいものだ。女子たちの噂を聞いて、そういえば扉があったなと思い出す程度だった。
オカルトにたいして興味はなく、彼の意識は昼からの体育のことに移った。今日は50m走の測定がある。根っからの文化系で背が低く、足も遅いほうなので、体育がある日は気が重い。測定が終わったら部室で絵の続きを描こう、と考えて気を紛らわせた。
*
その日の放課後。美術室に向かい、石膏のデッサンのために鉛筆を削っていると、顧問の宮脇が現れた。
宮脇は学校で一人だけの美術教師だった。背が高くて顔立ちが整っており、優男のような雰囲気から、女子の間でファンクラブがつくられているという。
「今日はおまえ一人か」
「もうすぐ一年が来ると思います」
宮脇は描きかけのデッサンを眺めて、いくつか助言をして、修の作品が上達しているといって褒めた。多少気分がよくなったところで、棚に向かう顧問の後ろ姿が目についた。
「先生。そういえば、あの扉の奥ってなにがあるんですか」
「急にどうした?」
「いえ。クラスの女子が、おばけを封印してるとか噂してたので」
宮脇は修に背を向けたまま、ふだんより硬い声で「開けなくていいぞ」と返して、棚の上のほうに手を伸ばした。しばらく棚を漁った後、彼は「帰るときは戸締まりをよろしく」と言い残して出ていってしまった。
宮脇は美術部の顧問だが、幽霊のようなもので、あまり部室に顔を出さない。気が向いたときに現れて助言をするぐらいの存在だった。市が主催する中学生の美術展に参加するときは、修が宮脇に「申請書はもう出しましたか」と急かす羽目になった。
扉の話を嫌がるようなそぶりが少し引っ掛かったものの、先生も忙しいんだろうと思い直して、デッサンの続きに取り掛かった。
*
夏休みが近づいた頃。修のデッサンはおおかた出来上がり、今度の文化祭に出す絵を考え始めていた。
体育が終わって更衣室で着替えていると、運動部の生徒がわいわいと騒ぎ始めた。運動部の生徒……とはいっても、男子生徒の8割以上は運動部に入っているのだが。
そこで、バスケ部の眞人が妙なことを言い始めた。江口眞人、通称はエロ魔人。親が聞いたら泣きそうなあだ名だが、そのあだ名の通り、口を開けば下ネタが飛び出すのだ。
彼いわく。美術室の「開かずの扉」の向こうには、大量のエロ漫画が置いてある。顧問が見に来ないのをいいことに、美術部の連中が放課後に読み漁っている、と。
「嘘つけ」
「多分マジ。3年から聴いた話だぞ」
笑い声が上がる中、修は話に割って入り、そんなことはない、と否定した。心霊の噂は放っておけばいいのだが、今回の噂を広められるのは放ってはおけない。上級生が話していたというのは大ごとだ。
修が話に入ってくると、眞人は不意をつかれたような顔をしたが、すぐに質問を向けてきた。
「そういやおまえ美術部だったよな。あの向こうに何があるのか知ってるか?」
仲間のひとりが「漫画」と茶化してきて、修は内心で顔をしかめた。確かに、自分も成人向けの漫画を隠れて読むことはあったが、それを部室に持ち込むことはない。噂がでたらめなのはよく知っていた。
「いや。漫画を学校で読んだりはしないし、美術部の誰もそんなことはしない」
実は自分も扉を開けたことがないんだ、と付け加えると、彼らは「開けてみるか」と言い合って、着替えを済ませて更衣室を出て行った。
*
その日の放課後。
美術室は蒸し暑く、修は一人で扇風機のスイッチを入れて、風を浴びながら机に向かった。ふだん過ごす教室にはエアコンが設置されているが、公立中学校の予算は限られていて、美術室は対象から外れていた。
古い扇風機のモーターの音を聞きながら、次に描く絵の案をスケッチブックにメモしていたところ。
廊下から足音が近づいてきて、ノックもなしに廊下側のドアが開いた。開かずの扉を確かめるために、眞人が友人たちを連れてきたのだ。眞人はその場で「暑い」と言って、ポロシャツのボタンを外した。
「今日って誰も来ないよな」
「わからない。……顧問は来ないと思う」
修がそう答えると、彼らは「さっさと開けよう」と扉のほうに向かった。こっちに来るようにと視線で合図を受けて、修はスケッチブックを閉じて席を立つ。
数人で棚を動かすと、古びた扉が姿を現した。一瞬の沈黙の後、修が棚と扉の隙間に入って、金属の丸いドアノブに手をかけた。鍵はかかっていないらしく、扉が動き始める。
──エロ漫画があるとは思っていないが、正直、何があるのか気にはなっていた。
扉を開けると、甘く重たい異臭が鼻をついた。見た目から予想される通り、あまり広くはない空間だった。一度に入れるのは2、3人だろう。さまざまなものが乱雑に積み重なって足の踏み場がない。
足元の段ボール箱から、数本の腕が虚空に向かって突き出ていた。入口から覗き込んだ眞人が、息を呑んで「腕」と呟く。先頭にいた修は、部屋に足を踏み入れて、壁際を探って蛍光灯のスイッチを入れる。
のっぺりとした腕が蛍光灯に照らされた。柔らかい素材の腕は均一な肌色で、薄汚れた指が何かを掴むように曲がっている──。
「本物じゃない。絵のモデルに使うやつ」
半ば自分を落ち着かせるように、修はそう口に出した。
扉の向こうで待ち受けているのは、心霊でも卑猥な漫画でもなく、おびただしい量のごみだった。
固まった刷毛や絵の具のチューブ。錆びた缶詰。謎の液体で満たされたペットボトル。顔が欠けた石膏像は、数週間前に生徒がうっかり床に落としたものだ。シンナーの一斗缶まで置かれていた。
液体の入った瓶がいくつもあり、ひびの入った瓶から何かが漏れ出して床に染みている。瓶のラベルには、炎のマークと、赤地に黒いバツマークが入っていた。可燃性と有害性を示す表記が危機感を呼び起こす。異臭の源はこれだろう。
「臭っ!」
「これヤバくないか?」
生徒たちは絶句し、みんなで扉を閉めて棚を元に戻した。
*
次の日の放課後。
部室の机に向かっていた修は、棚のほうに目をやった。棚の向こうの「開かずの扉」を開けてから、脳内にごみの山と異臭がちらつくのだ。どうしたらあれだけのごみが溜まるのか。
数週間前に壊れた石膏像があるということは、美術が絡むようなごみを、宮脇が捨てに行かずに扉の向こうに運び入れるのかもしれない。ここ数か月じゃなく、かなりの年月にわたって続いているはずだ。おそらく自分が入学する前からだろう。分別して捨てるのが大変だとしても、ここまで放っておくのは常軌を逸している。
考え事をしていると、顧問の宮脇が部室に入ってきて、棚のほうに目をやった。
「なんか棚が動いてないか?」
宮脇はそう言って、扉の前に置かれた棚をじっと見つめた。知らないふりをして「そうでしょうか」と答えると、宮脇は振り返って修を見下ろし、もっともらしい口調で忠告をした。
「あの部屋はいわくつきだからな。入るとめまいと吐き気がする。開けないほうがいい」
誰のせいだ、と修はひどく閉口した。