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頭がぐらぐらする。寒気が止まらない。身体の中に籠る熱が逃げる場所を失って暴れている。瞼は重いし口は勝手に開いて荒い息と呻き声を吐き出す。肌に触れている服も薄い毛布も邪魔だけど、脱げるほどの力もない。
どうしてこんなつらい思いをしてまで生きなければならないのか、いっそここで死んでしまえたら――。心配し看病してくれている家族には決して聞かせられないことを考えたときだった。
不意に、痛みがなくなり思考が晴れた。呆気に取られたのも束の間、同時に流れ込んできた膨大な記憶で目を回す。眠っているはずなのに眩暈がした。
それは、自分ではない男の記憶だ。三十も後半にさしかかっているというのに、彼女ができる気配がない、仕事に明け暮れている枯れたサラリーマン。冴えない顔には慢性的な隈が残っている。正直恋愛よりも仕事の方が、いや、金を稼ぐ方が楽しいと考えている悲しい男。
「だ……誰が、枯れた、だ。冴えない、悲しい、だぁ……?」
思わず漏れた声は、酷く掠れて聞き取りづらい。そして、聞き慣れた自分の声のはずなのに、あまりにも高く聞こえた。いや、この聞こえている子供の声が自分の声だと分かっているのに、自分の声ではないと思い込んでしまうというか。大きな違和感を覚えて更に目が回った。
意味分かんねぇ、と声に出す前に、再び身体に痛みが襲い掛かる。不意打ちのように戻ってきた痛みは、子供の体には耐えられなかったのだろう。そのまま気絶するように意識を手放さざるを得なかった。
***
「はい、まずは食べて元気だすのよ」
そう言った母親が持ってきたもの。それは、具がひとつも入っていないスープと硬そうな黒いパンだった。一応笑顔を浮かべて受け取ったはいいものの、俺――キースは内心困惑してしまう。
決して、不衛生ではないと思う。とはいえ、衛生的と言えるかどうかも怪しい。盆に載せられたパンとスープ皿を見下ろしながら、キースは口腔内に溜まった唾液を飲み込んだ。
「ごめんね。お母さん、働いてくるから……何かあったら、隣の部屋で繕い物をしてるお姉ちゃんに声をかけてね。熱が下がったとはいえ、お客さんに熱が移ったら大変だから」
「うん、わかった」
母親の言うことに素直に頷いておく。安心したように微笑んで、彼女は部屋を出て行った。それを笑顔で見送って、すん、と真顔になる。
テンプレだが言わせてもらおう。異世界転生だ、コレ。
キースは未だにズキズキと痛む頭を軽く押さえた。視界の端に映る手は、まだ柔らかさを残す小さい手だ。キースは思い出した記憶を整理しつつ、ひとまずは食事を摂ることにした。
スプーンを手にして、スープを掬う。洗練されたシンプルだがコクのあるスープ……なはずはなく、見た目通りの味の薄いスープだ。これは何が入ってるんだろうか。キャベツやピーマンの青臭さを丁寧に残しつつ薄い塩で味付けしました、としか言えないスープは、病人でなくても食べたくない。
スプーンを静かに置き、盆の上に直接載せられたパンを手に取った。持つ前から分かっていたが、硬い。二つに割ろうにも指がパンに食い込みもしない。そのまま齧り付いてみると、奥歯でやっと嚙み千切れた。しかし、尋常ではない勢いで口の中の水分が奪われ、キースは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまう。
熱病で倒れる以前から、ずっと食べていたものだというのに、スープもパンも最悪としか思えない。罰ゲームでも受けている気分だ。いや、罰ゲームでもここまで酷いのはなかなかお目にかかれない。
キースはパンをスープ皿の中に入れる。しばらくは、このパンがふやけるまで食事にありつくこともできなさそうだ。黒いパンが水分を吸って更に黒く変色していくところを見つめながら、キースは思い出した男の記憶と今の自分の記憶を擦り合わせ、整理することにした。
現在、この身体は『キース・シモンズ』という十歳の少年のものだ。少し人見知りでマイペース。困っている人を放っておけないタチで、ついついお世話を焼いてしまう。身体を動かすのが好きで、両親が経営している宿屋で力仕事を中心にクルクルとよく働いている。
鏡なんてものはないが、三歳年上の姉曰く「あんたの髪の毛はお父さんそっくり。あんたの目はお母さんそっくりよ」と言っていたので、灰色の髪色で焦茶色の目をしているんだろう。白髪ができても気づかれなさそうな髪色なのは助かる。
この世界は階級社会らしく、その中でもキースたち家族は庶民。自分の店を持って経営できているから、庶民のピラミッドの中でも底辺ではなさそうだ。それは不幸中の幸い、と言っていいだろう。
ただし、あくまでも、最悪の人生にはならないだろうという意味だ。現状、すぐにでも泥水を啜って雨ざらしの床で寝る必要がなさそうだ、それは幸いだ……という大変後ろ向きな幸運に胸を撫で下ろしているだけにすぎない。
そう、キースは気づいてしまったのだ。実家である、この宿屋の現状に。
「このままだと、そのうち潰れるっ……!」
思わず拳を握って、軽くベッドの上を叩いた。ズキズキ、と頭痛が酷くなる。それでも、キースは実家の経営を憂い考えることを止められなかった。
この宿屋は、亡くなった祖父の代から引き継いでキースの両親が経営している。宿泊できる部屋は四部屋のみと決して大きい宿屋ではないが、宿屋と食事処――とは言ってもほとんど居酒屋みたいなもの――が並列されていて、疲れ切っている宿泊客には「飯のためにわざわざ外に出る必要がなくてありがたい」と評判だった。
ただし、これは祖母が生きているまでの話だ。
祖母が作る料理はすこぶる美味かった。それはもう、朝夕と祖母のご飯を食べたいがために、たまの贅沢として宿に泊まる客もいたくらいに、絶品だったらしい。一度も食べた記憶がないので、母親から聞いた話でしかないが。
確かにそれくらいの名物がなければ、こんな国境近くの寂れた田舎町の隅にある宿屋に誰が泊まりたいと思うだろうか。少ない娯楽のうちのひとつ、美味しい料理を堪能できていたはずのこの宿屋は、今となっては『質より量』の食事しか提供されない寂れた場所になってしまった。
質より量、と言ったのも、嘘ではないが正しくもない。質が落ちたから、量と価格でなんとか客足を留めておいている、というのが正しい。つまりは、不味いが腹は満たされるし安いからここに飯を食べに来ている、という客だらけなのだ。
そして、肝心の宿。木造建築だからだろうか、かなり老朽化が進んでいる。雨漏りはまだしていないが、廊下を歩くだけで耳鳴りかと錯覚するほど軋む。夜中に誰かがトイレに行くために廊下に出ようものなら、宿泊客全員が起こされることになる。
廊下だけではない。階段も似たようなものだ。誰かが行き来するたびに悲鳴を上げる階段は、早急に修理をした方がいいだろう。分かってはいる、分かってはいるのだが、如何せんお金がないのだ。帳簿を見ないとなんとも言えないが、あと十年経営できるとは思えない。
「……頭痛ぇ」
この頭痛は熱病の名残か、実家の現状を憂いているのか。それはキースにも定かではないが、これ以上は何も考えたくない。前世のことももっと思い出したかったが、所詮は前世だ。変えられないものを憂うより、今どうにかしないといけない問題に頭を悩ませた方がいいだろう。
キースはひとまずスープに浸していたパンに手を伸ばした。持ち上げても崩れることはないパンを見下ろしつつ、いつもやっているようにスープが染み込んだパンに齧り付く。パン自体は硬いが、決して不味くはない。しかしやはりスープは残念なままで、キースは眉根を寄せつつ嚥下した。
よし。何よりも先に、まずは飯をどうにかしなければ。キースの身体の記憶には残っていないだろうが、前世の自分の記憶には美味しい飯の味が残っている。流石に高級レストランの味を再現しようとは思えないが、美味しい家庭料理くらいは再現してやろうじゃないか。
極力味覚から意識を逸らしつつ、まずはどういう料理がいいかを考える。今いる客層に受けるのは『質より量』だと考えると、量を減らすのはやめておいた方がいいだろう。量を変えず、質をよくして……いや、味を濃い目にして、酒をしこたま飲みたくなるようにしよう。
そんなことを思いながら、キースは底意地悪く口角を上げた。十歳の少年が浮かべるとは思えない笑みだが、鏡がない部屋ではキースは気づけない。この日から、キースの実家改革が始まった。