6:名前
少女がゆっくりとまばたきをして、俺は一気に緊張が抜けた。
「シャールヴィ、《ガブリエルのおみやげ》は目がいいのね」
「はい」
シャールヴィが肯定し右手を胸に当てて礼をする。拝礼。慌てて真似をすると少女はくすりと笑った。
「教養があるわ、どこの児童所?」
「南部の端、メンヒルの立つ丘です」
「ふぅん」
カツ、コツ。靴音を立てて少女が近づく。
「なるほど、分かったわ」
前にいた男が少女に道を開け、俺の真正面が完全にガラ空きになる。
いまは暑くもないのに汗が頬を伝う。
胸に当てた手を思わず握りしめる。
コツ、カツ。1人分の距離にまで少女は近づいた。
「そうよ、そのまま立ちなさい」
喉が渇く。
「私はゴーシュトラスの君の第三子ミレイア。あなたの名前は?」
喉が細くなり息が入らない。
口を開け、唇をひきつらせ、やっと声を出す。
「あ、ありません」
「ないの? じゃあ番号は?」
「に、26の5489……」
「26の5489。覚えたわ、ありがとう。名前をあげるわね」
「えっ?」
少女、ミレイアは微笑んだ。
「あら、意見するの?」
しまった、と思う間もなく。
少女が俺の額を指で小突くと両足が浮き、瞬きした時には丸絨毯の上に身体を投げ出していた。後から気づいた背中の痛みで《今倒されたのだ》と理解して。
「っ!?」
ようやく息ができる。
「お言葉ですが、殿下」
「なに、シャールヴィ」
「彼はまだ調整前です。もろいのでご注意を」
「ああ、そうね。そうだったわ」
少女が数歩下がり、男が間に入って俺に手を差し伸べる。笑うでもなく、怒るでもなく、淡々としているこの男は助けてくれた、のだろうか。
男の手を取ろうと腕を上げた瞬間、自分の手が汗で濡れている気がして腹あたりの布で拭くと少女はまた、ふぅん、と言った。
「良いわね」
立ち上がるとまた見下ろす形になるが少女、ミレイアは満足そうにしていた。
「どんな名前がいいかしらね。こういう時はパッと思いついたのがいいわ、考えていたらお姉様がまた独り占めしてしまうもの」
そう言うとミレイアは右手の指先をくるりくるりと回す。
円を描く。首をひねる。円を描く。首をひねる。愛らしい仕草でほんの数秒思考を巡らせて。
「イルニオ」
「はい」
少女がきょとんとした顔で俺を見た。
俺も目を丸くした。
あれ?
返事をしたのは俺だ。
なんで?
ミレイアは、ふは、と息をついた。
「そう。イルニオ。あなたの名前はイルニオね。シャールヴィ、聞いた? 覚えたわね、シャールヴィ」
「はい」
何も変わらず淡々とシャールヴィは肯定する。俺は、《イルニオと名のついた少年》はどういう表情をしたらいいのか分からないまま、ミレイアを見た。
少女が両手を広げ、ドレスの裾がふわりと広がる。
「やったわ、お姉様より先に名前をつけちゃった!」
やったわ、やったわ、とくるくる楽しそうにミレイアは回る。愛らしく華やかに。2度、3度。4度目を回り切る前に俺の方を向いて止まった。
「きっとあなたは私のものになってちょうだいね」
はい、と俺が口をついて言おうとしたのをシャールヴィが片手で物理的にふさいだ。目線だけ向けると男は首を振り、少女に顔を向けた。
「おそれながら、殿下」
「なに」多少の苛立ちが滲んでいる。
「調整前の人間には殿下の影響力は強すぎます」
「あぁ、そうね」我に帰ったように緊張感がフッと消えた。
「でもいいじゃない。お姉様だって最初の人間はそうやって従わせたわ。すぐに死んでしまったけど」
「《もったいない》でしょう」
シャールヴィの言葉にミレイアの後ろに控えていた年配の男が息を呑んだ。さらに向こう側にいた使用人らしき女の顔からも血の気が引いた。
この男はとても恐ろしいことを口にしたのだと嫌でも分かる。俺は視線を泳がせながらシャールヴィの方を見た。
だが男の様子は変わらなかった。
ミレイアはため息をついた。
「お姉様と同じことを言うのね、シャールヴィ。あなたは染まらないと思ったのに」
男は俺から手を離し、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「あえて口にしたまでのことです」
「そう、まあいいわ」
じゃあ、とミレイアはくるりと外へ向きを変えた。ドレスの裾がひらりと舞った。また雷の光が扉の向こうから入り、しばらくして、雷鳴は遠くで鳴る。
怖くはない。
むしろ美しさに目を奪われている。自覚していながら、否定する気になれない。否定するものがいるのだろうか?
瞬きをして正気に戻る。数秒と経っていなかった。
「まあいいわ、まあいいわ、お姉様のものになっても、いいわ」
軽やかな鈴のような声音に雷鳴が遠く喉を鳴らして答えたかに聞こえた。
「祝福を」
年配の男が言う。
「祝福を」
使用人らしき女が言う。
祝福を。女竜の加護あらんことを。この国で広く使われる言い回し。今まで適当に口にしていた言葉のはずなのに、重さが違う。
本当に、女竜に言葉を捧げている。
《吐き気がしそうなほどに甘ったるい。》
男も、女も、上辺だけ。
《甘いだけで、美味さなどない。》
当の女竜はどういう味に感じるのだろうか。
「楽しみにしているわ」
少女は振り返らず言った。
風が吹き込み、少女の美しい髪がたなびき、再度舞おうとしたところで扉が閉まり、俺は足の力が抜けてその場に座り込んだ。