3:親切な壁画
ポツ。
ポツ。
ピチャッ。
「ウワッ」
額に水滴が落ちて飛び起きた。暗い。かろうじてここが石壁に囲まれ、簡素な木の扉があるのが見える。節々が痛いが動かせないわけではない。申し訳程度に敷かれた藁が冷たい。
ポタッ、と水滴の音に顔を上げる。
「やあ」
不意に降ってきた声に驚いて飛び退こうとして滑って後頭部をゴンッ!と床に打ちつけた。
「〜〜っ」
「大丈夫? すんごい音したけど」
少年とも少女ともつかないやけに通る声は天井からしている。怖い。たぶん人間じゃない。
ゆっくりと視線を上げ、あごを上に上げてようやくそれと目が合った、気がした。大きなふたつの目、裂けるように大きな、白い牙の並んだ口。
ただし、すべて平面。
「え?」
俺は思わず間抜けな声を出した。
骨でできた獣のような《天井画》があった。
「そうだよー絵だよー」
「っ!?あ、あっあ」
「あー、壁の獣は初めてかな。僕はヘス、陽気な壁のヘスだよ」
「ええ…?」
「ヘス」
「へ……」
「ヘス。はい息をちゃんと吸って吐く〜」
言われるがまま、呼吸を整える。天井の壁画は相変わらず壁画のままだが笑っているようにも見える。
「君、自分が誰だか、なんで来たか思い出せるかい。ゆっくり、ひとつずつでいいから言葉に出してみるといい」
「は…?」
なぜ、という疑問が浮かぶ。急に何を言い出すんだろう。そう口に出すよりも早く壁画の方がため息をついた。
「はぁー、そうだよね。急に君のことを喋ってって言っても困っちゃうよねー。というわけで僕の持っている情報から伝えよう」
「はぁ」
「まずここはお城の倉庫。君は女竜ガブリエルの王女様へのお土産として拾われここにぶち込まれました。かわいそ。そして僕は見張りと状況説明係として起きるまで待ってなさいと言われました。かわいそ。暇じゃないけどガブリエルの方が暇じゃないから仕方ないね。というわけで君は連れてこられました。何か質問は?」
「はぁ」
俺は頭を抱えた。理解が追いつかなかったわけではない。逆だ。女竜という単語が全てを物語っている。女竜によって連れ去られるということ。この国に住む人間ならば誰でも知っている事を俺は思い出させられていた。
「武闘士になれっていうのかよ…!」
「よく分かったねー!」
壁画はそれはとても嬉しそうに声を響かせた。
赤の国ゴーシュトラスには2つの名物がある。
1つは鋼鉄産業。農具にはじまり、鎧兜や武器といった金属の加工と販売。
そしてもうひとつは、鋼鉄武具のお披露目会に端を発した《飼い人による殺し合いの勝敗を予想する賭博》通称「武闘会」である。
「勝てばいいんじゃんねえ」
「無理無理無理無理」
呑気に言う天井画に俺は首を振るしかない。
《親なし》でも、《親なし》だからこそ、女竜と武闘会の話は嫌というほど知っている。
女竜はこの国の頂点。いわゆる貴族さまだ。名前の通り、人間ではない。ひと息で人を窒息させ、軽く払った手で人をやすやすと潰してしまう力を持つ禍々しい竜。ひとたび人の形をとれば恐ろしく美しい姿の女となる尊大なる存在。それが女竜だ。
女竜を象徴することのひとつが《人を飼うこと》。本来は雄の産まれにくい女竜が卵を産むために人間の男と交わるようになったとかいうが、今はその意味はだいぶ薄い、と思う。
なにせ今の女竜は武闘会で《人を飼って闘わせ、勝敗を賭ける》なんてことをしている。飼った人間を競わせて傷つけ合わせる。強者が弱者の争うさまを消費する娯楽。女だ男だという話とはほど遠い。見たことはないが。確か女の武闘士もいるとかいう話もある。
武闘士になる人間には2種類ある。ひとつは、志願した者。よほど戦いに狂ったか、あるいは犯罪を犯したか、住処を追われたためにまともに生きられないもの。もうひとつは、拾われた《親なし》だ。俺のような。
俺はただ石を拾っていただけなのに。
「なんで俺が……」
「聞くところによるとガブリエルに声をかけたらしいじゃないか」
「声……?あ、あー…」
俺は頭を抱えた。
確かに声をかけた。どこに行くんだと、聞いてしまっていたのを思い出した。今更だがなぜそんなことを言ったのか分からない。
別に弟分であるリムが特別だったわけでもない。事故で死んだ親なし、病気で死んだ親なしの方がよっぽど俺にとって大事だった。
女竜に他の親なしが連れて行かれるのを見るのも初めてではなかった。なのに、なぜ?
「わかるかよ……わかるわけねえだろ…」
ため息が出る。とてつもなく逃げ出したい。武闘士になれ? 冗談じゃない。戦いなんてやりたくもない。石ころを集めていた方がマシだ。俺はそうやって目立たないように生きてきたんだ。
頭をかきむしると天井画が、ははぁんと分かったような声を出した。
「声をかけるなんてよっぽどガブリエルが綺麗だったんだねえ」
「はぁ!?」
「あはぁでっかい声。図星?」
「誰が!」
「女竜の本質のひとつは男を魅了することだよ?」
骨の獣の天井画が笑い声を出す。
「君もわりと大人っぽいしー、ねぇ、認めちゃったら?」
「……ありえない」
魅了されたとは思えない。空から突然やってきた女竜に息もできなくなっていた。
「あ、そう。まあ、そんな感じはした」
つまらなさそうに言った天井画を見上げる。相変わらず形は変わらない。今更ながら恐怖を感じてきた。よく分からないものに対する恐怖。女竜を目の前にした時の恐ろしさとは比べ物にならないから無意識に考えないようにしていた疑問が浮かぶ。
「なんで」
「うん?」
「なんで絵が、喋る?」
チッ。明らかに天井画は舌打ちした音を出した。
「いるものはいるんだから、そう深く考えなくていいんだよ。君だってなんで生きてるんだなんて聞かれたら答えに困るだろう?」
「……う、まぁ……」
「だからそんなことは置いておいて、これからのことを考えなくちゃ割に合わない。さあそろそろだ。君の先輩が君をここから出してくれるぞ」
「先輩?」
ドンドン。天井画が何か言うより先に木扉を誰かが叩いた。
「おい」
低く落ち着いた男の声がした。
「出ろ。出なければ入って出す」
「いってらっしゃ〜い。頑張ってねぇ〜」
「え、あ」
次の言葉が出なかった。まばたきする前にはあった天井画が消えていた。
どこに?どこに行ったんだ?
「おい、出ないのか、開けるぞ」
返事をする間もなく木扉が開く。光が差し込み眩しさで目を細める。何度かまばたきをして立っている男の顔が見えた。
大人。俺よりかは年上だがそんなに離れていない若者。ゆったりとした服だが首や腕を見るにかなり鍛えられているかつ栄養が足りている体格。俺が立っても一回りは大きいだろう背丈。黒髪の短髪。
「おい」
思わず尻もちをついた状態のまま後ずさった。声は硬い。優しくはないが棘もない。表情さえない。
「聞こえているなら返事をしろ」
「は、あ、はい」
「ヘスとは話したな」
一瞬なんのことか分からなかったが天井画の名前だったと思い出す。夢だったような、そうでないような。
「たぶん」
「……聞いてもないことをベラベラと喋りかけてきただろう」
「あー、はい」
夢ではなかったらしい。男は不思議なものを見るように片眉を上げると、俺に手を差し伸べた。
「生きたければ俺に従って行動しろ」