92 幕間 マリウス家③
セレスティア・マリウス・リュミエットは病に伏せり、死の際にあって。
「あら、薔薇なんて……」
ベッドに横たわるセレスティアの横には、いつの間にか一輪の薔薇が置かれていた。
触れれば傷つくだろうに、と思ってすぐ、その考えを改める。
「棘のない……薔薇? まぁ……リンディスが持ってきたのかしら……」
「あー……」
少し横の子供用のベッドに居たクリスティナが目を開いている。
まだまだ幼い赤ん坊。きっと大きくなっても親の顔すら覚えていないでしょう。
「クリスティナ……」
「あー……うー……」
セレスティアはすぐ横に置かれた薔薇に弱々しく手を伸ばした。
「あ……何かしら……」
途端、それまで苦しくなった身体が嘘のように軽くなったと感じる。
「……立ち上がれるかしら」
しばらく立つ事すら出来なかったセレスティアだったが、その一輪の薔薇が力を貸してくれたのか……自らの足で立ち上がり、クリスティナの元へ歩み寄った。
「ああ、クリスティナ」
「あー……!」
グズる事もせず、嬉しそうに母に寄りそう愛しい娘。
「愛してる。……愛してるわ。あの人も貴方の事を愛していたの、クリスティナ。……これから大きくなっていく貴方に……、貴方の姿を傍で見ていてあげられないのが……寂しいけれど。リンディスがきっと傍に居てくれるわ。……ああ、クリスティナ。愛してる……愛してる……どうか、幸せに……」
◇◆◇
セレスティアの葬式は身内だけで行われた。
すべてが終わり、死んだ後で初めてセレスティアの死をブルームは両親に告げる。
しばらくの間、セレスティアを家で養い、匿っていた事は何一つ伝えなかった。
クリスティナはヒルディナ夫人が生んだ第二子と伝えられ、こうしてクリスティナはマリウス家の長女になった。
「さて、リンディス」
「……はい」
「お前はこれからどうする?」
ブルームは、見た目だけは幼い少年と話をしていた。
「…………この家を出て行けばいいのでしょうか、侯爵様」
「……ほう? セレスティアにクリスティナの世話を頼まれたのではなかったか?」
「……はい。ですが、セレスティア様亡き今、すべては侯爵様次第だと考えています」
ほぼ喋る事のない子供かと思ったが存外に口が達者らしいとブルームはリンディスの評価を改める。
「……自分はセレスティア様に救われた身です。赦されるならばクリスティナ様の為に尽くしたいとは思いますが……。侯爵様が、自身の子としてクリスティナ様を育てるつもりなのだと聞きました。貴族の子として育てるおつもりならば……私は、ただの邪魔者でしょう。今日までセレスティア様と侯爵様の温情で過ごさせて頂いた事、感謝しています」
リンディスの言葉にブルームは思慮を巡らせる。
「一つ、勘違いをしているな」
「……勘違い、ですか?」
「お前は魔族だ、リンディス。お前には価値がある。貴族としての価値ではないが、それでもだ。俺が既に受け入れる必要のないセレスティア達を屋敷に受け入れたのは肉親の情ではない。セレスティアがお前の今後の人生を俺に売ったからだ」
「…………では、私に何をお望みですか?」
リンディスの瞳は冷えていた。セレスティナの死に嘆き悲しむでもなく。
淡々と、冷たいまま。これこそが魔族なのだとブルームは思った。
「マリウス家の為に働け。その力を活かしてな。……それ以外の時間ならば、クリスティナの為に使う事を許してやろう」
「……本当に?」
リンディスが驚いて目を見開く。
それが赦されると彼は思っていなかったのだ。
「ああ。本当だとも。リンディス。逆恨みをされる前に言っておく。……俺の子供はリカルドだ。そして、これから生まれてくるヒルディナの腹の中に居る子供だけだ。……俺が『親』としてクリスティナに愛情を注ぐ事は断じてない。だが養ってはやる。そしてセレスティアとの約束通り、表向きは俺の子供として扱おう。……それだけだがな」
「…………、……十分、だと思います。たしかに貴方の子供ではないのですから……」
「そうだな。話の分かる奴だ。だが、クリスティナにこの事を告げる事は許さない。結局、最後までセレスティアは父親が誰かを明かさなかった。……クリスティナの出生を怪しまれるだけで、我がマリウス家にとっては醜聞なのだ。これも分かるな? 恩を仇で返すような真似だけはするな。……セレスティアに医者をつけ、ベッドで寝かせ、最期の時までたしかに面倒は見た。お前もクリスティナも追い出すような事はしていない。そんな義理などないのにだ」
「…………はい」
「ふむ。分かればいい。クリスティナはマリウス家の長女として家に居させる。だが、必要以上の物は与えない。リンディス。お前があの子の面倒を見たければ見るがいい。止めはしない。咎めもしない。だが、ただ屋敷に住まわせる気もない。身を粉して働くがいい。セレスティアに恩を感じるのであれば、クリスティナの傍に居たいというのであれば。お前のすべてをマリウス家に捧げろ」
「……承知致しました。……侯爵様のご配慮、誠に感謝いたします」
それからブルームはリンディスに言ったようにした。
屋敷で住まう事は許したが、愛情を注ぐような真似はせず、何もかもを最低限しか与えなかった。
それでもマリウス家の長女としての外聞があるからと、おそらく平民よりは多くのものを与えたのかもしれない。
セレスティアを匿い、クリスティナを養女にするにあって、ヒルディナ夫人もまた屋敷に籠るようになった。
屋敷に居たヒルディナとの間に、本来であれば長女となる筈だったミリシャを授かる。
「この子が俺の妹……」
リカルドは、生まれたばかりの妹、ミリシャを見て目を輝かせた。
家族にとっては初めての娘だ。両親もリカルドも、ミリシャに沢山の愛情を注いだ。
「…………」
明かされる事はないけれど、それは正しく家族だけの幸せな空間だった。
リンディスは、その光景を見てもどうしようとも思わなかった。
……この家族にとって邪魔者なのは、たしかにクリスティナなのだろうと、そう思ったのだ。
侯爵にとって実の子ではなく、夫人にとっては赤の他人。
セレスティアが仮令頼る場所が他になかったのだとしても、そんな事はこの家族には無関係だろう。
……クリスティナを連れて家を出た方が良いんじゃないか。
そう頭に浮かべながら、そんな事は出来ないとリンディスは弁えていた。
魔族の自分が、この国で幼い彼女を養っていけるワケがない。
たしかに侯爵はこの屋敷で住まわせ、クリスティナを守っていたのだ。
親としての愛情が注がれないのは仕方がない。
たとえ実の親でなくとも、自分にとってのセレスティアのような存在になって欲しいというのは欲張りだ。
「お嬢、こっちですよ」
「んー……」
クリスティナがようやく5歳になった頃。
彼が面倒を見ている姿が、侍女を連れたリカルドの目に留まった。
「…………」
「……はぁ」
「おい?」
「え、はい。何でしょうか、リカルドお坊ちゃま」
その姿を見て、頬を染めた侍女が居た。
……魔族。おかしな力、魔術を使い、その容姿は……美しい。
彼の成長の仕方はおかしい。
かつてはリカルドとそう変わらなかった筈の容姿が、いつの間にか青年のそれになっている。
魔族と呼ばれる所以なのか、薄気味悪いと感じられた。
「…………」
リカルドはその足でブルームに会いに行った。
そして、しばらく後にリンディスは呼び出される。
「侯爵様。私をお呼びと聞きました」
「うむ。…………」
「……何か?」
リンディスを呼び出した侯爵は、まじまじとその姿を見据える。
「お前、その姿は何なのだ?」
「はい?」
リンディスは侯爵の質問の意味が分からず、首を傾げた。
「お前はリカルドとそう変わらない歳だと思っていたが……リカルドよりも早く成長しているように見える。……早死にでもするのか?」
「……ああ。成長、ですか。……環境のせいでしょうか。年相応に成長しているだけかと思います。その、環境の、侯爵様の温情のお陰で」
「…………お前にそこまで贅沢させた覚えはないが?」
「……侯爵家のご基準でしたらそうかもしれません。ですが、私はご存じのように奴隷か、それ以下の身分でしたので。セレスティア様も困窮していましたし」
「……必要最低限のつもりが、お前にとっては十分以上だったという事か」
「…………」
食事でも減らされるのだろうか、とリンディスは思う。
それでもクリスティナさえ飢えなければ良いかと冷えた目で侯爵を見ていた。
「安心しろ。お前には働いて貰わねばならないからな。食べるべき物を食べるな、などと言わん。だが、別の制限を付けさせて貰おう」
「制限?」
リンディスは首を傾げる。
「ああ。……お前の魔術についてな。王城で働く魔族は特殊な契約を結ぶという」
「契約、ですか?」
「そうだ。これを手に入れるのに随分と手を回した。魔族の所有と運用は、存外に面倒だな……。そうでもしなければ恐ろしくて手が出せないものだとさ」
「……侯爵様に害を為したつもりは一度もないのですが」
「そうだろうとも。だが、重要なのはお前の感情ではない。……姿を隠して動ける生き物だ。分かる者には分かるというが……信用がなければ、余計な疑いを持たれる」
「…………そうかもしれませんね」
それ故の契約。魔術的な契約だ。
そんな契約を作れるのも魔族だけだと思うが……王城に抱え込まれている者がそんな物を作ったのか。
或いは自分達の信用の為に?
「単純なものだ。契約の内容を主人となる者と奴隷となる者の間で交わし、それを破れば罰が下る。お前のセレスティアへの忠義心が確かなものだろうと、それが私や、私の家族、家に向けられるとは限らないからな」
「……なるほど」
リンディスは納得する。だが、慎重に考えて、この話を飲み込まなければいけない。
自分が居なくなればクリスティナが今後どうなるか分からない。
今でこそ最低限の生活が送れてはいるが……侯爵の愛がクリスティナに向けられる事はないのだと、この数年で理解している。
自分が彼女の傍にいなければいけない……。
「……は?」
契約内容は、そこまで一方的なものではなかった。
侯爵が約束通りにクリスティナを屋敷で住まわせていたように、リンディスの魔術というものを踏まえた上での彼らの家の不利益を潰す為のもの。
ただ、1つだけ納得できない契約があった。
「……お嬢様の前に姿を現してはならないとは?」
今まで彼女の身の周りの世話はリンディスがしてきた。
最低限の世話だからとメイドが来る事も稀で。
しかし姿を現すな、などと言われては、これまでのように接する事が出来なくなる。
「どういう意味ですか、これは」
「……はぁ。自分を知らない者というのは厄介だな。お前が姿を現してはならないのは、クリスティナだけではない。屋敷の女、すべてだ。ヒルディナの前にも、ミリシャの前にも、侍女達の前にも姿を現すな」
「……何故?」
「……お前が女を惑わすような貌をしているからだろう」
「は?」
それは、まさか……侯爵が自分の容姿を誉めたのか。
いや、彼に限ってそんな事はありえないが。
「リカルドがお前の危険性を訴えてきた。屋敷の侍女がお前を見て頬を染めていたとな。……セレスティアは、真実がどうであれ従者と駆け落ちをして家を出て行った。その醜聞はまだ貴族の間に残っている。……クリスティナが同じような真似をしては堪ったものではないからな。また同じように出戻ってきたとしても……今度はセレスティアと同じようには扱わん。俺が言っている意味は分かるかな?」
「…………まさか、お嬢様が私に見惚れる事がないように、ですか?」
「そうだ。所詮、アレはどこの誰とも知らない相手と交わったセレスティアの娘だからな……。貴族の立場も考えず、安易にそんな事を考えるだろう。その可能性が一番高いのがお前という事だ」
「……ご懸念は分かるのですが、流石にお嬢様が私にそのような感情を抱くとは思えません」
「リカルドはそう考えていない。あの子はミリシャの事を大事にしているからな。お前を見てミリシャが惚れこむような事態は我慢ならないのだろうさ」
「リカルド様がですか?」
「そうだ。この契約の件はリカルドが強く主張した事だ」
「はぁ……? しかし、それならばミリシャ様やヒルディナ様、侍女達の前でだけ姿を見せないようにも出来ますが」
「クリスティナの前でも、だ」
「…………分かりました」
姿を見せなければいいだけ。
条件としては軽いもののように感じる。
触れるなとも言われていない。
……ただお嬢様を育てるのに、余計に苦労するようになるなとリンディスは考えた。




