91 幕間 マリウス家②
「屋敷で抱えている医者を呼んだ。セレス姉様。だが、話が先だ」
「んっ」
セレスティアは赤ん坊だけをベッドに乗せて、病床の筈なのに床にうずくまっていた。
「……何をしているんだ? 病気なんだろ」
「雨で濡れてるからベッドはちょっと……コホッ、コホッ」
「ああ……」
ヒルディナ夫人に話を付け、医者を呼びはしたが、セレスティアの看病は遅れた。
「急に来たんだ。対応が遅れて悪いな」
「いいのよ。コホッ、……本当に急だったし。ブルームは何も悪くないわ……コホッ」
「……タオルぐらい勝手に取って使えば良いだろう。ほら」
「ありがとう……。いやー、私が勝手に使ったらブルームに怒られちゃうかなって」
「……娘はベッドに寝かせているみたいだが?」
「子供に罪はないでしょう……?」
罪。セレスティアは何を罪だと思って自分に気を遣っているのか。
「……かつての社交界の華が随分とみすぼらしい様だ」
「ふふ。そうよねぇ……。私もまさかこうなるとは……コホッ」
渡したタオルで服を脱がずに身体を拭きながら身支度を整える惨めな姿の姉。
「……その子供は、誰との子供だ。セレス姉様」
「…………ごめん。言えないわ」
「言えないだと?」
ブルームは、その言葉に苛立った。
「どこの誰とも分からない男の子供を産んだのか。……あの従者との子供じゃあないのか?」
「コホッ……。やだ、ブルームったら。あの駆け落ちの話、信じてくれたの? コホッ……」
「……やはり嘘か」
「そうよ……コホッ。私の家出に付き合わせただけ。でもね。ごめんなさい……彼も死んじゃった……」
「死んだ? 病でか?」
「ううん……コホッ、コホッ」
先は長くないと言っていたが、本当に酷い状態らしい。
「……この10年、どこに居た」
「13年よ……コホッ、私が家を出てから……。コホッ、何処、ね。色んな所へ行ったのよ。楽しかったわ……ふふ。辺境の方にも行ったのよ? コホッ、コホッ……」
「楽しかった、ね。自分が継ぐべき爵位も領地も放り出して」
「コホッ……。領主は貴方が相応しかったわ。コホッ、現に今だってマリウス家は安泰じゃない……コホッ、コホッ」
「……よくもそんな事が言えるな」
ブルームは病でやつれた姉を睨みつけた。
「……何故いなくなった」
「コホッ……、……そうねぇ」
セレスティアは遠い目をしながら続けた。
「あの時は、それが正しいと思ったの。コホッ……、だってそうでしょう? コホッ、貴方だって、たしかにお父様やお母様に愛されていたのに……コホッ、コホッ……。きっと私のせいなのでしょう?」
「……相変わらずのお人好しだ。あの父親も母親も、俺の事を愛してはいないよ」
「そんな事……コホッ、コホッ!」
「……セレス姉様が居なくなってから、ほとんどすぐに爵位をお譲りになったよ。俺も大人だからと隠居を決めたよ。ハッ……。血の繋がった家族だからと、当然に愛し、愛される関係のワケもない事を……姉様だけが知らなかったんだな」
「……そんな」
本当に信じていたのだろうか。
ああ、或いはそう信じられるのは本当に愛情を受けて育ったからか。
「……両親の話はいい。子供の話だ。何故、父親を教えられない。……誰の子か分からないような真似をしてきたからか」
「コホッ、……失礼ね。ちゃんと……コホッ、愛し合って生まれてきた子よ……コホッ」
「ほう。では何故、言えない。……誰かの男を寝取ったか」
「また失礼……コホッ。そういうんじゃないの。……知られない方がいい方なのよ……」
「何だと?」
それはつまり、高貴な男が相手という事か。
「恥知らずな……。どういう意味か分かっているのか。どこの貴族の愛人に落ちぶれた? 正室ならばマリウス家に話が通っていた筈。なんという家門の面汚しだ!」
「……うーん……コホッ。そういうのでもないのだけど……コホッ」
能天気に、何も悪びれずにセレスティアは困った顔をした。
「コホッ、コホッ。ねぇ、ブルーム……。私ね。クリスティナには自由に生きて欲しいの。……私とあの人の子供だから……コホッ。きっと家に縛られたままじゃ……生きていけないわ……」
「…………相手の男は、セレス姉様の同類か。どこぞの貴族の家出者だと?」
「ふふっ、そういう事ね……コホッ」
「はぁ……」
本当に最悪だとブルームは思った。
「自由に生きさせたいなら孤児院にでも連れていけ。平民として自由に生きられるだろうさ」
「そうね……。でも、そうしたら……」
そこでセレスティアは、ずっと自身の近くで佇む銀髪の少年に目を向けた。
「……ねぇ、ブルーム。クリスティナと、この子……リンディスを養って欲しいの。私が…………死んだ後で」
「……! セレスティア様……!」
リンディスが目に涙を溜めながらも見た目よりも大人びた態度でセレスティアを気遣う。
「魔族のガキをか?」
「……そう。この子は魔族だから。コホッ、孤児院に預けたら……きっと、良くない目に遭う。でも貴族の家で仕えさせたなら……いつか王城に雇われるかもしれないわ、コホッ……。そうしたらマリウス家にとっても……悪くない筈……」
魔族の子供。裏では高値で取引されるという。
魔術という特異な力を操る故に貴重な種族だが……この国では奴隷か、それ以下の存在。
しかし、その能力を買われて王城で働く者も居るという。
上手く使えれば貴重な財産だ。それがタダ同然で手に入る。
リンディスという代価を受け取って、クリスティナの面倒を見ろと。
「はぁ……コホッ、コホッ……。クリスティナの世話もリンディスに任せれば……コホッ、いいわ。コホッ……! それでも貴方への負担は大きいかもしれない、けれど……ブルーム……どうかお願い……」
「はぁ……」
姉に対する劣等感、そして憎悪。歪んだ思惑。
そして目先に垂らされた安い代価。
コンプレックスの対象は今、自分に頭を下げている。
「……何故、俺に言わなかった」
「コホッ……コホッ、何を……?」
「家を出ていくことを。俺に家督を継がせたいという事を。……何故、何も告げずに出ていく。セレス姉様。貴方はさっき自由にしか生きられないと言ったな? 結局、理由はそちらじゃないか。家督を継ぐのが嫌で俺に押し付けたのを随分と恩着せがましく、俺が両親の愛を知らないのが哀れだとのたまって。何様のつもりなんだ?」
「コホッ……コホッ……それは」
自分勝手な女だった。
あの両親の元に育ったのだから、結局、自分はそんなものは得られなかったが。
さも自分は味方なのだという態度にブルームは腹が立った。
「……血の義理だけは果たしてやる。この赤ん坊が物心つく前に貴方が死んだなら……俺の子として育ててやろう。父親が誰かすら話せない相手なのだろう? 10年以上も家を出ていた長女の子などと知られれば醜聞も甚だしい。文句はないな?」
「コホッ……ええ。分かったわ。……私がこの子に……何も残せずに死んだなら……そうしてちょうだい」
セレスティアは、そのままリンディスに顔を向けた。
「リンディス。貴方も。クリスティナには……私の事も、父親の事も……隠しておくのよ」
「……は、い……セレスティア様……」
「うん。いい子ね、リン……。血は繋がってなくても……貴方も私の子供だわ……」
「……っ!」
セレスティアは、屈み込んでいたリンディスを抱き締める。
こうしてセレスティアは、マリウスの屋敷に舞い戻り、しばらく療養する事になった。
ブルーム侯爵とヒルディナ夫人の間でも話し合いが続き、セレスティアの容態を見ながら、場合によっては親が誰かを隠したまま育てるのだという話になった。
医者に診せてもセレスティアは快復する事はなく、日に日に弱っていく。
「……セレスティア様」
リンディスは幼いクリスティナの世話をしながら、セレスティアの看病もし続けた。
辻褄を合わせる目的もあり、ヒルディナ夫人もこの頃は屋敷の中で過ごすようにした。
そして、ある日。
セレスティアが眠る部屋に小さな来訪者が訪れた。
「……誰だ?」
それは赤髪の小さな少年。ブルームの息子のリカルドだった。
「誰だと聞いているんだ」
「コホッ……こら、リンディス。言葉使遣いは丁寧にしなさい……」
「俺はリカルドだ。あんたは……誰だ?」
「うん? 私?」
「そうだ……いや、そうです……」
リカルド少年は、何か眩しいものを見るようにセレスティアを見つめていた。
その瞳の意味を知っている……かつての自分と同じものだと思ったリンディスは、リカルドの前に立ち塞がった。
「おい、邪魔だぞ」
「……セレスティア様に近付くな」
「セレスティアと言うのか」
「ぐっ……!?」
「コホッ、もう、リンディスったら……言葉遣いもだけど、迂闊なところは直さないと……コホッ、コホッ」
リカルドは無遠慮にセレスティアのベッドに近付いていった。
「具合が悪いなら医者を呼ぶ」
「コホッ……ふふ。いいのよ。お医者様にはもうかかっているから……」
セレスティアとリンディス、そしてリカルドはしばらくして打ち解け、微笑ましい関係になった。
……そう思っているのはセレスティアだけだったかもしれないが。
「ぁああ……、んん……!」
「ああ、クリスティナ。私の可愛い子……」
「…………」
セレスティアの腕に抱かれる幼い子供。
その光景に覚えた感情をリカルドは誰にも話さなかった。
彼自身にすら理解できていなかったのかもしれない。
ただ……セレスティアが屋敷のベッドで亡くなって。
その後で残されたクリスティナに向けられた感情は……リンディスが彼女に抱くものとは違っていた。




