90 幕間 マリウス家①
マリウス侯爵家には、姉と弟が居た。
この侯爵位は世襲制であり、また女であっても世襲する事が出来る。
マリウスの領地には鉱山が豊富で、一族は『宝石の貴族』とまで言われる程だった。
「セレスティアは優秀ね」
「そうだ。自慢の娘だよ」
「ふふ。ありがとう、お父様、お母様!」
「…………」
姉の名前はセレスティア・マリウス・リュミエット。
弟の名前はブルーム・マリウス・リュミエット。
セレスティアは一族の後継を期待された女だった。
深紅の髪と瞳は人の目を引き、また彼女はとても美しかった。
社交界にデビューした後は、その見目もあって有力な貴族からの婚約の申し入れが多くあった。
王家との縁談すらも出て来ており、弟のブルームは姉に問いかけた。
「セレス姉様。王家に嫁げばいいじゃないか」
「んー……。それって私が決める事じゃないからねぇ」
「……セレス姉様が王子と結婚したいって言えば、お父様やお母様だって認めてくれるさ! だってお父様とお母様は、優秀なセレス姉様を愛しているからね!」
「……ブルーム。貴方。お父様とお母様の愛を疑っているの?」
「……は? 何を言ってるんだ」
姉と弟の仲は良くなかった。
優秀な姉にひたすら比べられる弟。
姉が侯爵家を継ぐとしたら、自分は小さな領地を貰って家を出るか、或いはどこかへ婿入りするか。
たしかに女が領主になる事は可能だ。
しかし、そうする貴族は多くはない。
大体の家が、弟だろうと長男に家を継がせている。
だが、マリウス家だけはセレスティアを後継ぎにするつもりだと分かっていた。
あの両親はブルームの事は見ていない。
だから姉を王家になど嫁がせたくなかったのだろう。
「ブルーム。貴方だってお父様とお母様の息子なのよ?」
「……そう思っているのは、セレス姉様だけだろう!」
「ブルーム……」
時が経つにつれ、姉と弟の確執は大きくなっていった。
ただし、変化はそれだけではなかった。
「セレス。またパーティーの招待状が来ているよ」
「……行かないわ。お父様」
「セレス……どうしてなんだい?」
「しばらく考えたいの。自分がこの先どうするべきか。マリウス家にとってどうするのが一番か。ごめんなさい、お父様。領主についての勉強はブルームにもさせておいて」
「……社交界で何かあったのかい?」
「まぁ、そんな所よ! あとね、お父様」
「ああ」
「私って綺麗じゃない?」
「うん?」
「……だから社交界に出過ぎると……王子様の目に付いてしまうじゃない? そうすると王家との婚約待ったなし。必然的にブルームが侯爵家を継ぐ事になるわよね」
「ははは。王子に見初められる自信があるとは、さすがセレスだね」
「そうね! だから……そう。王子の婚約者が決まるまでは大人しくしておきたいのよ」
「いくら王家にそう言われたとしても、こちらにだって断るぐらいは出来るぞ、セレス」
「それはそれで問題でしょう? 王家との確執だなんてない方が良いもの」
「そうかもしれないね……」
セレスティアは、社交界に顔を出すのを止め、そしてブルームに領地の経営を学ばせる道を選び始める。
時が進み、セレスティアが令嬢達の噂にすらならなくなった頃。
──彼女は家を出て行った。
「……セレス姉様が居なくなった?」
ブルームは、すべてが起きた後で初めてそれを聞かされた。
「ああ……。駆け落ちだそうだ」
「駆け落ちって」
馬鹿な事を。すべて持っていた癖に。
両親の愛も。優秀な頭脳も。人に愛される容姿も。
侯爵の地位すらも約束されいた癖に。
「ブルーム……。口には出さなかったが……この家出はお前の為だろう」
「……は?」
誰が誰の為だって?
「セレスティアは、お前にマリウス家を継がせたかったのだ。既にセレスティアの噂は広まっていたが……ここ数年、社交界にすら出ず、噂になるような真似を控えていたからな。アレが大人しくしていたのは、この為だろう。駆け落ちと言っているが……連れて行った従者とそのような関係でない事は分かっている」
「……それが俺の為だと?」
「そうだ。……数年すれば、家に帰って来るだろうが……その時は、もうマリウス家はお前のものになっているだろうとな」
「…………」
ブルームは、姉の真意を聞いて……歯を軋ませた。
「ブルーム?」
簡単に。
セレスティアにとっては、そこまで簡単に捨てられるものだったのだ。
両親の愛。家督。社交界での評価。優秀さ。何もかも。
それらは誰しもが簡単に得られるモノではない。
すべてを持っていながら……セレスティアはあっさりとそれらを捨て去った。
自分が欲しいと思っていたすべてを。まるでゴミのように。
『自分に要らないモノを譲ってやる』と言うように、上からすべてを自分に押し付けて。
弟を思う姉の愛のつもりだったのだろう。
あの姉は、そういうお人好しな部分があった。
だが……こんな事をされるぐらいなら、堂々とすべてを手にされた方がマシだった。
圧倒的な実力で。圧倒的な存在感で。完膚なきまでに奪われた方がまだマシだった。
「…………どうされるのですか、お父様は」
「どう、とは?」
「マリウスの後継です。セレス姉様が帰るのを待ち続けますか? 貴方が健在ならば、今すぐ俺に領主を譲る意味もないでしょう。……姉の帰りを待てば良いだけです」
「そうかもしれないな。だが……」
セレスティアとブルームの父は、あっさりとブルームに爵位を譲る事を告げた。
「……アレの気持ちは分かっていた。ブルーム、だからこそお前にも領主としての教育を受けさせ続けていたのだ。……私も妻も、隠居させて貰うよ。もうお前達は十分に大人になった」
「…………そうですか」
まるで子育てがすべて終わったように。
満足した、或いは興味を失くしたように。
両親にとって、やはりセレスティアがすべてなのだと感じた。
そして、これから先の人生で、自分はずっとセレスティアがゴミのように捨てた身分にしがみついて生きていかなければならない事をブルームは悟った。
……こうなるのだったら、あの姉から奪い取れば良かったとブルームは思う。
もっと貪欲に。姉を貶め、領主になりたがるセレスティアから、その地位を奪い取ってやれば、自分の人生は、もっと明るいものだったろうと。
幼い頃から比較され、劣っていると言い続けられ、ただでさえ姉のモノだと内外に言われていたその爵位。
自分の力で奪い取っていれば誇りに思えた。
だが、そうはならなかった。
すべてを手にしていたセレスティアは、ブルームにとって価値のあるものすらゴミのように捨て去り、恩着せがましく押し付けた。
『こんなものを貴方は大事にしているのね』と嘲笑され、侮辱されたのだ。
……マリウス家の正式な後継となり、フィル伯爵家からはヒルディナを妻に迎え入れたブルームは、姉に対する憎悪を抱えたまま、侯爵となった。
ヒルディナ夫人との間には、リカルドという男子を授かり、田舎に隠居した両親からも解き放たれ、ブルームは多くのものを手に入れた。
過去の確執は失くなっていないが……それでも、自分は幸福を得られると思い始めた頃。
ブルームにとっての最悪が戻ってきた。
「ブルーム……。私、セレスティア。覚えてるかな……」
「……セレス姉様」
大雨が幾日も降り続いていた日。
マリウスの屋敷を訪ねてきたのは……10年以上も姿を見せなかった姉だった。
その腕には、忌々しい深紅の、姉と同じ色の髪をした赤ん坊。
そして銀色の髪と瞳をした少年。
反抗的な目をしている。一目で彼を気に食わないと理解できた。
「ごめんなさい。戻ってきちゃ……いけないと思ったんだけど。でも、もうここしか頼りに出来なくて。コホ、コホッ」
「…………病ですか? セレス姉様」
「…………うん。もう、長くないわ」
セレスティアの服装は無様なものだった。かつての社交界の華と謳われた女の、末路。
だが、そのみすぼらしい姿を見ても、ブルームには同情の心は湧かなかった。
「…………」
今すぐ追い出し、まだ生きている両親の元へでも行かせようかと思う。
どうせ歓迎されるだろう。数年で帰ってくると思っていた姉は、10年以上も帰って来なかった。
病に侵され、この大雨をまた移動すれば……きっと赤子もろとも姉は死ぬだろう。
……そうされて当然と思う。
だが、もしも両親の元へ辿り着いてしまったら?
……ブルームには、それは赦せない事だと思った。
「……家に入って。もう姉さんの部屋はないけど。客室ぐらいは空いているよ」
「コホッ、コホッ……。ありがとう、ブルーム。ごめん、ごめんね」
姉はひどく弱っていた。あの頃の姉の輝きは見る影もない。
何があったのか。興味はある。
どうせ死ぬのなら、この十年、何をしていたのかを聞いておくのも良いだろう。
「その子供は? そいつも姉さんの子供か?」
「…………」
「コホッ……、違うわ、この子は……リンディス、私について来てくれた子で、」
「じゃあ、そいつは外に出ろ」
「ま、待って! お願い、ブルーム……! この子も一緒に!」
ブルームは舌打ちをした。
「急に帰ってきて。子連れで、病気で。その癖、どこの馬の骨とも分からないガキの面倒まで見ろっていうのか? 相変わらず身勝手だな、セレス姉様は」
「で、でも……」
でも? この姉はいつまで自分の人生を暗いものにするのだろう。
どうせ弱っているのなら、どこかで死んでいてくれれば良かったのに。
今からでも外に追い出してやろうか。
「…………」
反抗的な目付きをした銀髪の少年が自分を見上げていた。
「…………その子供、魔族だな? 島国出身の怪しい術を使う一族だ」
「……ええ、そうよ」
「ふぅん」
たしか王城でも、そういう輩が雇われていると聞く。
利用価値だけはありそうだと、ブルームは思った。
「……で。セレス姉様は、魔族との間に子をもうけたのか」
「…………いいえ。それは違うわ……コホッ。この子は、本当に私について来てくれただけ……」
なんだ。じゃあ駆け落ちしたと言う従者との子供?
と考えてから、10年以上前に駆け落ちした相手との子供が、こんなに幼い筈がない。
この有様からして、どうせ平民との間にでも出来た子供だったのだろう。
薬すら買えず、泣きついてきたに違いない。
すべてを持っていながら、貴族としての責務を捨てて逃げだした姉。
……これは当然の末路だと、ブルームは確信した。
「じゃあ、客室のベッドを勝手に使うといい。俺はヒルディナ……妻に話をつけてくる」
「ありがとう、ありがとう、ブルーム……。ああ、クリスティナ。温かい部屋よ。ごめんね、こんな想いをさせて……」
クリスティナ、と。姉は赤ん坊に囁きかけた。
姉と響きの似た名前……それは姉の子なのは間違いない。
「…………」
もう長くはないだろう、落ちぶれた姉の姿。
息子であるリカルドと、そう変わらない歳の姉の子。
「…………ふっ」
ブルームは、幼い頃から燻り続けた憎悪を晴らす機会が舞い込んできたと、そう思うのだった。




