203 邪神ロビクトゥス
「あれが邪神……!」
異教徒達の神。
禍々しい触手が幾重にも蠢き、その触手すべてが蛇のように動いて、意思を持っているように感じました。
ビリビリとした気配。
私、ルーナ・ラトビア・リュミエットの天与、『聖守護』の結界が押されているのを感じます。
「ルーディナ様……! お力をお貸しください!」
私は左手で彼女の手を握り締めたまま、力を強めた。
女神の巫女である私達は、傍に居れば互いの力を強めるようです。
人との繋がり、愛情、絆。
そういったものが力になる。
「ルーナ……!」
「レヴァン様! アレは……私達を狙います!」
クリスティナ様ほどではありませんが、私にも巫女の勘がありました。
空から落ちてくるのは異形の邪神。
身体から無数の触手を蠢かせて、ゆっくりと降りてくる。
触手に包まれたその身体は闇の呪いがそのまま肉体を持ってしまったかのよう。
呪いが受肉した生命体……。
見ているだけで生理的な嫌悪感を掻き立てました。
長く伸ばされた触手の先にはミリシャ様が。
既に意識は失われ、闇に溶け込むように邪神の触手に彼女は取り込まれていきます。
「止めっ……、でも!」
近付く手段がありません!
私はレヴァン様を始め、集まってくれた人々を守らないといけないから動けない。
自分を中心にした球体状の光の幕を張るのが私の『聖守護』の天与です。
怪我や病気を治す際は、手をかざして光を当てる必要があります。
守る力はありますが突破力、攻撃力のない天与。それが私に与えられた力、役割。
邪神の下に駆けつけ、ミリシャ様を救うには騎士様達の力を借りなければいけません。
「レヴァン様! ミリシャ様が……!」
「くっ、分かっているけど!」
レヴァン様もいずれは自身の妃に据える予定だった女性が相手です。
意識は向けられていますが、今あそこまで踏み込むには、どうしても戦力が足りませんでした。
「エルト達の報告ではアレに飲み込まれた女性は丸ごと……らしい。
まだ、諦める必要はない。アレを倒せさえすれば、彼女はまだ……」
それはそうかもしれませんが。
目の前で飲み込まれていく知己の女性。
それを見ている事しか出来ないなんて。
レヴァン様が一団の指揮を執り、体勢を整えさせています。
ベルグシュタット卿と比べれば防衛に重きを置いた布陣。
彼の性格や、性質が反映されているのでしょう。
祭壇に降りてきた邪神。
空に開いた大地の傷……いえ、異界の穴。
穴からは天使と悪魔の翼を片方ずつ携えた異形の人型達が無数に落ちてきます。
「早くあの穴を封じないと、数で押し負けるわね」
「ですが皆さんを守りつつ、あそこまでは!」
異形の……天使達との戦闘も激しくなってきました。
私の結界を軸に騎士様達が連携し、対抗していますが……。
「貴方は耐えるのよ、ルーナ様。焦って前に出てはいけないわ」
「ルーディナ様……」
「人には向き不向きがあるの。貴方や、レヴァン殿下がこうしてこの場に踏み止まるだけで、この戦闘には意味があるわ。
……王妃になるのでしょう?
人々の前に立つ『救国の乙女』ではなく、後ろから彼らを見据え、守る女に」
「は、はい……」
私にも前に出る力があれば。
クリスティナ様のように……。
でも、これが私の役割だから。
誰も死なせず、この戦闘を耐え切る。
邪神の圧力に負けず、彼らを守ってみせないと。
「──ハッ。やはり紛い物の生贄では出力が足りないなぁ、闇の神ロビクトゥス」
「……お兄様」
目と鼻の先に見える邪神の祭壇から、ルーディナ様の兄・ユリアン公子が言葉を掛けてきました。
「聖女を生贄に出来れば完璧に仕上がっていたんだろう。
あの女がコレに侵され、内側から堕落する様も見たかったがな」
聖女の生贄。
アマネ様? ……いいえ、おそらくクリスティナ様のこと。
ユリアン公子にとっては、異教徒達にとっては、クリスティナ様は聖女?
きっと彼女が奪われていれば、この戦いは取り返しがつかなくなっていたのでしょう。
それを考えれば、やはりクリスティナ様が暴走してまで彼らの拘束から逃れたのは正しい判断でした。
「巫女の一人でも呑み込んでからにしたかったが。はぁ、ルーディナ。お前は結局、そちら側に付くので良いんだな?」
「……選択の余地のない事です、ユリアン兄様」
「愚かな……。お前だけは生かしてやっても良かったのに」
「……ご冗談を」
「今からでも遅くないぞ? 見たところ、そちらの巫女はお前が傍に居る事でようやくロビクトゥスの圧力に抵抗できている程度だ。
ルーディナ。お前が俺の下に帰ってくれば、それだけで決着がつく」
「……ならば、なおのこと。
私、こう見えてもやはり女神の巫女の一人であるようですわ、ユリアン兄様。
どうにもルーナ様や、クリスティナ様の事が好きになってしまいましたの。
ですので、お兄様よりも……彼女達を選びます」
「ルーディナ様!」
「ふふ。神殿の聖女の称号を得る為に……少しは力を見せてみませんと。
浄化とやらがどこまで私に出来るか」
するりとルーディナ様は私から手を離しました。
そして祈るように両手を合わせ組みます。
「──光翼蝶よ」
青白い光で身体が作られた蝶々達。
ルーディナ様の青く長い髪から、溢れるようにそれらが舞い上がっていきました。
「ねぇ、ユリアン兄様。女神の巫女が浄化に振るう力は『愛』なのだそうよ?」
「……ふん。それがどうした?」
「……私はまだアレンとは婚約したばかりだから。
私の愛はね。……ユリアン兄様。
貴方への愛なのよ」
「何だと?」
「……かつての優しかったユリアン兄様。
もう、私の目の前には居ない優しい兄様。
貴方への愛を、我が『光翼蝶』の天与に込めて祈りましょう」
溢れていく青白い光の蝶々達。
それらは地に堕ちた異形の天使達を怯ませました。
「敵の勢いが弱まったぞ……!」
「ああ! 殿下!」
「各人、気を抜くな! まだ自身達の身を守りつつ戦う事に意識を向けろ!」
騎士様達の勢いが強まってもレヴァン様は堅実な布陣を崩さず、戦力の突出を抑えました。
「……良い判断ですわ、レヴァン殿下。
私のこれは所詮は……怯ませる程度。
相手の混沌度合いが強過ぎるようですから」
浄化の力だけで魔獣の身体を溶かす程には、ルーディナ様のお力は上がりません。
いえ、相対している堕ちた天使達の強度がそれを許さないのでしょう。
「焼け石に水だとしても、数を多く、広く出せるのが私の天与の良い点なのよ」
さらに空間を光翼蝶が埋めていきます。
心なしか、私の『聖守護』の結界に掛かる邪神の圧力も和らいだよう。
場に瘴気が立ち込めていたとするならば、それらをルーディナ様の天与が逆に埋めていき、息苦しさを取り払ったようです。
有利な空間の押し合い勝負。
ルーディナ様の光翼蝶は、空に開いた異界の穴にも飛んで行きます。
「これ以上、拡がらないように押し留めてあげる。でも、これが私の……出来る限界」
光翼蝶は邪神の触手に打ち払われながらも、その表面を溶かすように対抗しています。
これは強大な魔物に向かって群れる騎士達のよう。
「……はぁ。良い事を教えてやろうか、ルーディナ」
「……何でしょうか、ユリアン兄様」
「闇の神ロビクトゥス。アレに意思なんて無い」
「…………は?」
「アレは力の塊だ。要は誰がそれを使役するか。
生贄に捧げた女は心臓のようなもの。
捧げる女が多い程、強い程にロビクトゥスも強くなるが……こいつには今、脳が無い」
彼は、何を。
「そうだろう? でなければ俺は何だ?
こいつらの計画には全くの不要という話になる。
最終地点がアレの力ならば、初めからアレを地に降ろせば良かった筈だ」
「……ただの、力の塊……」
「そうだ。お前達は坂道から転がってくる丸い大岩を必死に受け止めているだけ。
今しているのは戦闘行為じゃあない。
問題は、その大岩に意思が宿り、その力の振るい方を知り、大岩という卵からナニカが生まれ落ちた時。
そうだろう?」
つまり。あの邪神は、まだ卵から孵化してさえも居ない存在だ、と。
……今でさえ、その凄まじい圧力に結界が割られそうになっているのに。
私の額に冷や汗が浮かびます。
「戦争とは知性ある者同士で発生するものだ。
お前達もただの災害の相手ではつまらないだろう? だから。
そろそろ俺が相手をしてやろう」
「……ユリアン兄様!」
ぶわりと邪神の闇が、その触手がユリアン公子にまで伸びて行きました。
ミリシャ様と同じように闇に取り込まれるその身体……。
「こ、公子が喰われた……!?」
「アレは……取り込まれて、いえ、融合? した……かと……」
闇の塊が蠢くように黒い触手が無数に集まった塊だった邪神。
ですが、その中心の奥に……大きな目玉が開かれました。
青い瞳。ルフィス公爵家の色……。
そして、口も開かれる。
人の顔のように認識できるけれど、大きさも何もかもが異なり。
それでもそれがユリアン公子だと理解できてしまう。
「うっ……」
よりいっそうに嫌悪感を抱きました。
吐き気が思わず込み上げます。
変わり果てた人間、という概念がこれ程までに不快に感じるなんて。
『はははは! 俺は! 俺が神だ! 闇の神、ロビクトゥスだ! ロビクトゥス=ユリアン……!
俺がこの王国を支配する神だ……!
三女神を下し、全てを手に入れる……!
はは、ははは、ハハハハハハァッ!!』
その場の誰もが絶句していました。
──ビキッ!
「あ」
私の『聖守護』の光の結界にヒビが入ります。
邪神から湧き出るのは黒い煙、闇の奔流。
濁り、腐った黒い水が津波のように押し寄せてきて……。
ビキビキビキッ、バキ、バキッ!
「ああ……! ぁあああ……!」
私の力が押し負ければ、すべてが。
ここに集まった人達の命があの闇に奪われてしまう。
「レヴァン、様……!」
「ルーナぁ!!」
私の元に駆け寄ってくるレヴァン様。
すべてが終わってしまう。
絶望が私達を飲み込もうと、しました。
「はぁぁああッ!」
えっ。
「────フンッ!!!!」
ドゴォッ!!
『ぎゃ!?』
……目に映ったのは、邪神の頭の上に落ちてきた、真紅の長髪を風に靡かせた女性。
その身体は光に包まれ、一際強く右手の光が輝いていました。
女騎士を思わせるドレスと騎士服を合わせた特別な衣装を着こなし、剣と薔薇の象った勲章『イリスの祝福』を身に付けています。
腰に携えた魔法銀の剣は抜かれておらず、立ち上がった彼女が振るった攻撃があくまで光を纏った拳によるものだと分かりました。
「……待たせたわね、皆! 私が来たからには、この戦い、私達の勝利よ!
──フフン!」
左眼には赤い薔薇が咲いたまま。
それでも右の真紅の瞳には、明るさ、無邪気さ、そして善性なる強い意思が宿っています。
「……クリスティナ様!」
戦場に舞い降りたのは上空を飛ぶ白銀のドラゴンを従えた、女神そのもの。
剣と薔薇の女神イリスの化身、クリスティナ様でした。
彼女は大きな胸を自信に満ちた仕草で張り、私達に向けて笑ってくれたのです。




