2話 冒険者との出会い
トムは馬小屋の2階に住んでいた。
2階と言っても、馬車置き場の入っている高層建築を増築する際にたまたま生じた空間で、換気のための小さな窓が一つ空いているだけで、天井の梁は剥き出しで、馬小屋の上に造られた渡り廊下の音は直接響くし、足元の板は下の馬の様子がわかるほど薄く、部屋と呼べるものではなかった。
そこには古くなった整備用具や使わなくなった家具などが置かれており、トムの部屋というよりは物置として使われている場所にトムが寝泊まりすることを許可されているだけだった。
しかし、このような空間に住んでいる人は多かった。大都市ネイラクは魔の森の恩恵で急激に発展し、人口が過密になり、建物の上に建物を重ねるような階層建築と、それらの利便性の向上と補強のための増築があちこちで行われていた。
ガラスのない小さな窓からは高層建築群や噴き出す白い煙、その隙間の青空に鳥が羽ばたいているのが見えた。
「....トム、トム...トム!!」
小さな窓から見える空をぼーっと見上げていたが、床の下から呼ばれていることに気づいて、慌てて返事した。
「あ、はい! グレインさん、おはようございます」
「まったく何してんだい! 何度呼んだと思ってんだい!仕事だよ!!」
姿は見えないが、下の馬小屋から帳簿係のグレインがいつものように腹を立てた様子で呼んでいるのがわかった。
グレインは中年の女性で、マングース系の亜人だった。
グレインの口調はいつも苛立っているような雰囲気があるが、それは彼女の生まれ育った地域の言語がそのような響きを持つものだからであり、付き合いの長いトムにはむしろグレインは上機嫌であることがわかった。
「今行きます! で、どうしたんですか? 良い仕事ですか?」
「でたらめだよ!全く!! とんだ仕事だ! でも、あんたにしかできないから仕方ないね! さっさと降りてきな! 事務所に行きゃわかるよ!話はそこでききなっ!!」
そう乱暴に言って、グレインは馬小屋から出て行った。これほどまでに上機嫌なグレインは珍しい。
トムは急いで御者のコートを羽織って下へ降りた。
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馬小屋と馬車小屋の間に配送会社デキャンタリ・オミュンの事務所があった。
オミュンは当時の会社のような意味で、デキャンタリはその経営者の名前だった。トムはそのデキャンタリに拾われて、住み込みの御者として配送の仕事を手伝っていた。
トムが外に出ると、そのデキャンタリ・オミュンと彫られた看板の手前に豪奢な馬車が停まっているのが見えた。
2頭の立派な大きな馬が繋がれているそのキャリーは艶のある黒い漆で塗られ、金色で、ヒュルン・オミュンと書かれている。
それは主に要人の移送を取り扱う高級馬車会社だった。
物資の輸送を専門に行なっているデキャンタリとは完全に住み分けされているので、ライバルというわけではないが、馬車会社に別の馬車会社で訪れるというのは珍しいことだった。
トムは後ろから近づいてその御者に声をかけた。
「こんにちは、ミンスターさん」
初老の男性が振り返って、トムを見下ろした。
「おっ、トム、お前か。大変なことになったな」
馬車通し街ですれ違うことも多く、二人は名前を知る程度には互いを知っていた。
「何がですか?」
「ん? あぁ、まだ何も聞いてないんだな」
「はぁ。何が大変なんですか? グレインさんは上機嫌でしたが」
「上機嫌? あぁ、そうか。まぁ、確かに金は入るからな。でも、ほら、後の荷物を見ろ」
高級馬車の屋根は上下の可変式で、似室の天井と屋根との間に荷物を入れるための空間を作られている。
トムが正面から中を覗き込むと、剣や盾、弓、甲冑などの武装具が大量に積み込まれていた。
「なんですか、これ? 戦争にでも行くんですか?」
「もっと酷い。地獄行きさ。うちは断ったがな....おっと、お前のとこの親方がこっちを見てるぞ。そろそろ行かねえと叱られるぜ」
「あっと、そうだった。」
トムが振り返ると、事務所のガラス越しに丸々と太った男性がこちらをじっと見つめているのが見えた。
そう言って事務所に向かって走り出したトムにミンスレーが声をかけた。
「なぁ、トム・・・・・いや、なんでもない」
何かを言いかけてやめたミンスレーにトムは手を振って別れた。
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御者の身分は住み込みであろうと、グレインのように正式にその会社の社員になるのではなく、それぞれが受注単位の契約を結ぶ、自営業者として扱われていた。
そのため、特にデキャンタリ・オミュンのように物資輸送を専門とする会社では、御者は事務所に入るときも、社員が利用する裏口ではなく、客と同じ表の入り口から入り、小分けの面談室で契約を行なっていた。
事務所のガラス戸を開けると、デキャンタリ・オミュンの社長であるデキャンタリ・オズ・ラマイ、通称「親方」が腕を組んで待っていた。
大抵、このポーズの時は何か文句を言うのだが、親方はそれを堪えているのか、顔には笑みを浮かべていた。
さらに、
「トムくん、ちょっと遅かったじゃないか。お客さまがお待ちですよ」
などと妙に丁寧に優しく言うので、トムは眉を顰めた。
「何かあるんですか?」
トムが尋ねると、親方はそっとトムに耳打ちした。
「500万ザラス。成功報酬は別」
「5ひゃッ!」
トムは叫びそうになって自分の口を押さえた。
ザラスとは隣国ジュネビア王国の法定通貨であり、トムの住んでいる大都市ネイラクで使われている通貨ピーラと変動相場で直接交換するか、メタルとの兌換が可能であった。
500万ザラスは6000万ピーラ。
普通の物資の運搬では、最重量かつ最長距離の条件でも10万ピーラ。
その600倍を前金として支払い、さらに成功報酬までつけると言うのだ。
(怪しい。怪しすぎる。)
トムは青ざめた。
「いいか、絶対に契約を取れ。客はお前をご指名だ」
親方は早口にそう呟くと、トムの背中を押して、一般の受付窓口を仕切っただけの面談室を通り過ぎて、一番奥の応接室へ連れて行った。
応接室のドアを開けると、女性2人と男性3人がソファに座っていた。
女性はショートカットのエルフと長髪のダークエルフ、男性は髭をたくわえたドワーフと、短髪のヒト種、ローブ姿の眼鏡の少年だった。
ネイラクではまず見かけない取り合わせだった。
親方が手を揉みながら言った。
「みなさん、お待たせいたしました。御者のトムでございます」
「トムです。このたびはご指名いただきありがとうございます」
トムがそういって自分の左胸に手を当てた。
これは隣国ジェネビアでフォーマルな挨拶でよく使われるジェスチャーだった。
客人たちは挨拶を返さずに、じっとトムを見つめていた。
「あ、あれ? どうかされましたか?」
もしかして挨拶の仕方を間違えただろうかと、トムは焦った。
すると、短髪の男性がダークエルフに言った。
「どうだ?」
ダークエルフは眉間に皺を寄せてトムの体を舐めるように上下に見つめていた。
「見えない。リーシャ、お前はどうだ?」
ダークエルフは隣に座るエルフに聞いた。
リーシャと呼ばれたエルフもしばらくトムを見つめていたが、ため息をついて首を振った。
「だめ。見えない。」
その言葉を聞いて、ドワーフが言った。
「決まりだのぅ」
「だな」
「ええ」
「ですね」
「はい」
客人のそれぞれが頷いた。
「あの? なんの話でしょう?」
トムが尋ねた。
すると、短髪の男が笑顔で答えた。
「君、呪われているよ」
そう言って契約書をトムに差し出した。