側仕えの意義
一言も話さずに廊下を歩くため気まずかった。
一体どうしてお兄さんがレーシュの屋敷に来たのだろうか。
服装も普段よりしっかりした服を着ており、貴族の屋敷に来るので正装で来たようだ。
ずっと無言の中、やっとお兄さんが喋り出した。
「フェニル君は、大丈夫だった?」
「うん、お兄さんが止めに入ってくれなかったら間に合わなかったかもしれない。本当にありがとう」
身を挺してフェニルを守ってくれたことは嬉しかった。
戦いの経験がないのに勇気を振り絞ったことはわかる。
やっとお喋りができたことで、彼は言いにくそうに言葉を絞り出す。
「約束だけど──」
「到着しました。レーシュ様、入室のご許可を頂いてもよろしいでしょうか」
どうしてか自然と話をはぐらかすため、すぐに扉の向こうに呼びかける。
私はその先の言葉を望んでいないと言っているようなのものだ。
許す、という声が聞こえてきたので扉を開いて、お兄さんを中へと入れた。
お兄さんも顔を引き締めて、レーシュの前へと向かった。
私は後ろの壁に立って、何の話をするのか気になっていた。
「さて、君の望んだ通りに今日のこの場を用意した。言いたいことがあるのなら聞いてあげよう。だが忘れないことだ。少しでも貴族の私の機嫌を損ねたらどうなるかをね」
ゴクリと喉を鳴らしていた。
ここまで勇ましくあっただろう心も、レーシュの視線を浴びて忘れていた恐怖がやってきたのだろう。
だがそれでもお兄さんは真っ向から言い切る。
「どうかエステルちゃ……さんを解放してあげてください」
「ふむ、解放ときたか」
レーシュは椅子を後ろに向けて考え込んでいた。
何度も、なるほど、と言葉を繰り返している。
「君はよっぽど裕福な平民のようだね」
「は……?」
お兄さんは言っている意味がわからないという顔をしていた。
もしかすると嫌味で言っているのかと少し顔に怒気が混じっている。
ただレーシュはそんなことなんて全く気にしていない。
「もちろんいいとも。彼女を好きにするといい」
「ほ、本当ですか!」
突然の手のひら返しにお兄さんは裏返った声を出した。
だがこれまでのレーシュの言動から予想できる。
これは“現実”を分からせようとしているだけだ。
「ああそうだとも。彼女の弟の治療費はひと月大銀貨九枚だそうだ。是非とも養ってあげたまえ」
「え……そんなにッ──!?」
お兄さんは本当かどうか確かめるため私を見る。
本当のことであるため、私は首を縦に振って頷いた。
昨日、会話の途中で聞かれたのはここで言うためだったのだ。
自分が言ったことなので、間違っているわけでがない。
普通の平民が出せる金額ではない。
レーシュはわざわざテーブルを回り込んでくる。
「それとも彼女はここで働いてもらって、共働きをするかね。そうすれば万事解決だ。だがまた可愛い、可愛い弟君が危険に晒されるかもしれない。でもいいかもしれないな、君と彼女の愛の巣に病気の子供なんていらないからね!」
レーシュが目の前に来て顔を近づけた。
顔を青くするお兄さんは何も言えなくなっていた。
彼は私のことを考えてくれたかもしれない。
しかし弟の病は普通よりお金がかかり、一生彼に負担を強いることになる。
私は彼にそれを強要しようとしていたのだ。
それでもわずかばかりの怒りを込めて言い返そうとする。
「貴方が彼女をこの世界に──」
「勘違いしないでくれたまえ。彼女が自分から望んでここに来たのだ。もしや彼女を非難しているのかね? こんな弟想いの彼女にそんなことをよく言えるものだ」
感情論すらレーシュにとっては赤子を捻るようなものらしい。
お兄さんは私に顔を向けて青い顔を横に振って否定した。
私もそれはわかっている。
でもどうしてレーシュはそこまで彼を追い詰めるのだ。
いいや、それは私が分かっている。
決してレーシュが悪者ではない。
「いいかい。もう一度言おう。君と彼女では住む世界が違う。私は彼女が必要だし、彼女もまた私を必要としている」
「そんなのは……愛じゃない!」
「もちろんだとも。これは金銭を含んだ主従関係だ。君が私に嫉妬したいのならすればいい。自分の愛する人を守れないことを人のせいにしながら、夢の中で彼女とも幸せな日々を送ればいい。私もそこまで踏み込みはしない」
畳みかけるように言葉の暴力をぶつける。
お兄さんの手が震えながら、血が出そうなほど強く握っている。
レーシュは出口へ手のひらを向けた。
「さあ、君の帰りはあちらだ。涙を流しながら惨めに退出しなさい」
お兄さんの怒りがとうとう限界を超えた。
その手がレーシュを掴もうとした時、私は彼に足払いをかけてうずくまる彼に剣を向けた。
私に向ける目は裏切られたと言っているようだった。
「エステルちゃんッ、どうして!」
「私はこの方の側仕え。危険が迫れば守らないといけない。たとえ貴方を殺すことになっても」
これは私への試験も兼ねているのだ。
もう戻れない道に来てしまい、私は彼と離れられない。
どんなに力があろうとも、病気を治すには医者とお金がいる。
必要なのは決してこの他者を圧倒する力ではなかった。
「ではエステル、彼を送り届けてあげなさい。ただ玄関の向こうへ行くことは許さない」
「かしこまりました」
私は手を差し伸べて立たせようとした。
だがその手を取らずに自分の手と足で立ち上がった。
複雑な顔をしながら彼は黙って来た道を帰っていく。
廊下では一言も喋らず、私は黙って玄関の扉を開ける。
雨が波立てるほどのどしゃ降りに、私は傘を渡そうとしたがそれを手で制された。
「いいよ。今日は濡れて帰りたい気分なんだ」
疲れ果てた顔をした彼になんと言えばいいだろう。
もうこちらを見ることなく、死にそうな顔で出ていった。
私は、私は──。
「今日はお越しくださいましてありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
スカートの裾をあげて、今日の来訪への感謝を捧げた。
最初にここで教わった作法だ。
ずっとやり続けたことで今ではだいぶ板についただろう。
顔を上げると彼はやっと私を見てくれた。
その顔は雨でずぶ濡れになり、顔は涙か雨か判別できないほ歪んでいた。
「綺麗だよ。本当に綺麗だ……また、君に相応しい男にッ、いや、隣に立って恥じない男になってみせる、よ。だからどうか……お元気で」
手を振って、吹っ切れた顔で帰っていく。
強く、強く、生きてほしい。
私は彼の姿が見えなくなってから、名残惜しくも扉を閉めるのだった。
次の日に名医と呼ばれるお医者様がやってきてフェニルの体を診てもらえることになった。
いくつかの問診と体の心音や脈を計る。
そしてこれまでの熱が出る頻度を答えた。
「薬は今のままがよろしいでしょう。それとーー」
お医者様は私へ目線を向けた。
それは私にしか話せないということだろうか。
もしかするとこの前拐われたことで病状が悪化したのか。
嫌な想像が体を駆け巡る。
「お姉ちゃん」
フェニルが私の名前を呼んでハッとなる。
強く私を見つめていた。
そしてお医者様にも同じく強い目を向けた。
「先生、どうか僕にも教えてください」
もし本当に余命が短くても彼には知る権利がある。
でもずっと苦しんできたこの子に絶望を与えてもいいのだろうか、とずっと悩んだ。
だがこの子は私が思う以上に聡明だ。
それなら一緒に聞くべきだ。
「先生、私からもお願いします。この子の病気は何ですか?」
「フェニル君の病気は……十歳病だ」
初めて聞く病気だ。
私自身が病名に詳しくないためかもしれないが、フェニルも聞き慣れないようだ。
「それは重たい病気なんですか?」
長い沈黙が訪れる。
先生がここまで暗い顔をするのならその答えは分かっている。
それでも一筋の希望を期待した。
だがその希望も儚く打ち砕かれた。
「この病気に罹ったら平均して十歳で死んでしまいます」
「えっ……?」
言葉の意味を理解するごとに血の気が引いていく。
フェニルの歳はもう十歳になっている。
そうするともういつ死んでもおかしくないということだ。
言葉にできないほどの苦しいものが体を駆け巡っていった。
「治す……方法は、あり、ませんか?」
声が震えてしまった。
何か希望が欲しかった。
だがお医者様は首を横に振る。
「この病気の原因は分かりません。元々症例自体少ないものですから。しかし最後はみんな同じです。体の機能がどんどん弱り、最後には息すらできなくなります」
私は絶望に打ちひしがれてしまい、壁に手をついて体を支える。
フェニルの顔を見ることができずに地面しか見られない。
「ただ不可解なこともあります」
私はどうにか目だけをお医者様に向けることができた。
「この病気の方はこの年齢に達する頃には動くことすらできなくなっています。それなのに動けているのなら、まだ末期ではないということです」
「本当ですか!」
お医者様の肩を揺さぶった。
それならまだどうにかなるかもしれない。
それまでにもっと医学も進歩するかもしれないからだ。
「ええ、ただ油断は禁物です。もし立つことすらできなくなったらすぐにご連絡ください」
お医者様にお礼を言って二人で部屋に残った。
りんごを剥いて、彼にお皿を渡した。
「お姉ちゃん……」
「うん?」
「僕ね、お姉ちゃんの弟でよかったよ」
「──ッ!」
フェニルの体をガシッと掴んだ。
そして頭を撫でてこの子の体温を感じる。
一番辛いのはこの子なのに心配を掛けまいと私に気遣いまでする。
おそらく悟っていたのだろう。
賢いからこそ人生に対しての諦めもついているのだ。
「お姉ちゃんが、絶対にッ、絶対に助けるからね! だから……絶対にッ、病気なんかに、負けないで──ッ!」
「うん、待ってるよ。だから泣かないで」
涙が止まらず、嗚咽だけは我慢する。
だけど今日はこの子の肩で涙を流すのだ。
強く抱きしめ、絶対にこの子を救ってみせる。
大切な家族を救ってみせる。
やっと気持ちも落ち着き、村での生活のことを一緒に思い出した。
村長や木こりのおじさん、仲の良かった友達や恋をする女の子。
だけどこの街に来てから一切会っていない。
だからこそ二人でたまに思い出すのだ。
フェニルも話に疲れて眠り、仕事へと戻る。
玄関の階段の手すりを磨くと、私の心もどんどん落ち着いていく。
「十歳病らしいな」
レーシュが珍しく執務室から出てきた。
用事がなければ籠り続けるので、よくサリチルも苦言を言っていた。
そんな彼がわざわざ来てくれたのは、私に同情をしているからだろうか。
「はい。でも大丈夫です。この病気にしては元気だと言っていましたので。だから悪化する前に必ず病気を治します」
少しでも強がらないと自分の心に負けてしまいそうだ。
笑顔で言いきるとレーシュは意外そうな顔をしていた。
「そうだな。それがいい。お前はいつも馬鹿面でいろ」
言うことは他にないのか、このへなちょこ貴族は。
しかしレーシュの不敵な顔は私に希望を持たせてくれる。
「俺も商人たちに詳しい者がいないか聞いておく。お前も諦めずに探すんだな。特にお前には幸運の女神が付いているんだからな」
「幸運の女神?」
一体何のことだろう。
レーシュは分からんのかと呆れていた。
早く教えろと睨むと、やっと口を開けた。
「お前には最強の味方がいるだろう。命を救ってあげた、二大派閥の令嬢が」
「ネフライト様……」
盲点だった。
これまで貴族との関わりを避けたいと思っていたが、しかし今は関わることこそが最善の道だ。
平民では限界があっても、貴族にはそれを突破する方法がある可能性があった。
「ネフライト様は大貴族だ。彼女が一言その話題を出せば、競うようにみんなが情報を持ってくる。だからしっかり社交のマナーを学べ。お前が少しでも優位にことを運べばそれだけより良い情報が入ってくる」
「分かりました。でも──」
──できるのだろうか。
レーシュから社交の先生を付けると言われたが、なかなか成り手がいないらしく、もし雇おうとしてもお金が掛かりすぎて支払いが難しいらしい。
サリチルでは女性の社交のマナーに限界があるため、やはり女性に教わらないとレーシュの汚点になると言われた。
ここまでよくしてもらっているのに、レーシュに迷惑を掛けたいとは思わない。
「お前の考えはわかっている。だが安心しろ」
レーシュはニヤリと笑い、まるで確信しているようだった。
「俺にとってはお前が幸運の女神だ。運命が俺の味方をしていると言っても過言じゃない」
「えっ……?」
彼の言っていることはすぐにわかる事になるのだった。