酒とは、飲むものか 飲まれるものか
『ジョン・サルベニーニの覗き窓 赤い酒』
少し違う話をしてみよう。屋敷の話はお楽しみに、置いておこうか。今色々と探ってるんだよ。リチャードも大概だが、アイリーンも………、なかなかだからね。
僕の友人リチャードは、基本的には明るく快活な性格だ。そしてありがちな、少々強引な所はその生い立ちと、今の環境が影響しているのだろう。
「この前、君が気紛れで書いたあの戯曲だけどね。評判が良かったよ。友人の舞台監督が、是非とも秘蔵っ娘のルイーズ、そのデビューの折に、使いたいと、この前サロンで言われてね、私も鼻が高かったよ」
甘く濃い赤を、透き通る程に磨いたグラスに、ジェシーが注ぐ。先ずは主に、そして僕に、用意が整うと僕達は、形式的にグラス掲げ、笑顔を交わした。
「ああ、返事はしておいたよ。是非とも使ってほしいと。かまわなかったよね」
僕の返事など聞きもせずに、そう話すと、くぅ、と飲み干す。そしてグラスをジェシーに差し出す。注がれる、とろりとした赤。
ありがとうございますと、僕は丁重に答え頭を下げた。その様子に満足そうに頷いた彼は、気持ち良さそうにグラスを空けた。そして、気持ちが大きくなったのか、注がれる、空けるを繰り返すリチャード。次第に口数が増えていく。
「この国は、間違っているんだよ、君はそう思わないか?この週刊誌を読んでみろよ、ろくでもない小説がもてはやされている、下品で、怠惰な人間のあれこれさ、登場人物も、書いてる者も、下町に住む者なんだろう、高尚な我々や君とは違う」
とろりと濃い色をした、赤いぶどう酒を飲みながら、声高に話す男がいた。豪奢な部屋、柔らかな深い椅子に身を沈め、透き通ったグラスに、召使いに甘い酒を注がせる。
へ、え………、読んでるのか、パサリと薄いそれを、テーブルの上に、放り投げるように渡された。表表紙には、新進気鋭の画家が、派手な絵を描いている、見慣れた週刊誌だ。僕が密かに連載をしているゴシップ紙。
透き通ったグラスの赤を口に運びながら、ほくそ笑む。ここで知り得たアレコレ、内輪話。徒然に書き溜めたものを、密かに出版社に送ってみた。
『ジョン・サルベニーニ』として、するとスキャンダラスなそれは、編集長の目に止まり、ありがたい事に週刊誌で連載の地位を得た。
もちろん、僕は表には出ていない。やり取りは全て郵送でしている。知らずに読んだリチャード達の、批評が、その言葉が様子が、知りたいからだ、なので謎の作家として、暗躍をしているのは、当然の事。
オレンジ、レモンが、白いクロスがかけられているテーブルの上に、東洋から手に入れたという、大皿に、美しく盛り合わせてある。香り高いそれらは、彼の自慢の温室で、大切に育てられている品々。
ふわりとした香り、そこに混ざるリチャードの傲慢な声色。
「私はフエン男爵家のサロンで、言ってやったのさ、そういうお下劣な覗き見趣味の、三流の物をもてはやすのは、おかしいと思うかららね、品性を疑うよ、全く、聞いているの?私はまちがっていない」
彼は何時もそうだった。グラスを煽るにつれ、取り巻くアレコレに、何か言いたいらしい。それにしても詳しいな、僕の書いたものを、しっかりと読んでいる。
お下劣な覗き見趣味の三流作家の、熱心な読者様のご様子の体を顕にしている事には、気づいてないらしい。
自分が正しい事を、とうとうと述べる。正義は自分に有りと言わんばかりの口調だ。そして己のみの世界感で、こうあるべきだ、と彼の理想の国家、そこに住まう者とはこうあるべきだ、との演説が始まる。
それに対して、否定も肯定もしない、なぜならこの手を酩酊になると、聞かれるままに返事をすると、それに対して反する答えが、必ずかえってくるのがわかっていたからだ。
なので、喋りたいだけ喋らせておく。上等な赤いぶどう酒を飲みながら、彼は更に饒舌になり、同じ話を繰り返し、繰り返し述べる。
周りの事など気にもせず、同じ話をぐるぐるぐると………。聞いてて不快な事この上ない。
「この国はおかしいんだよ、おらぁそう思う」
場末の薄汚れた酒場で、酒と食事を注文した男。何処かで聞いた台詞が、ここでも出ている。人種の坩堝の様な店に、僕は時折息抜きに来る。
ヨレヨレの上着には、機械油が染み付いている。ガサガサに荒れた手、何か分からない屑肉と臓物の煮込みがひとすくい、深い器に入れられ出される、見るからに固そうな黒パンが、ひと切れそこに突っ込んである。
旨そうだ、とパンをつまみ、ふやけた場所を齧る彼、どろりしたそれを、木のスプーン等使わずに器から直接すすり飲む。合間に曇ったグラスにいれられた、酸っぱいぶどう酒。
僕も同じ酒を頼んで飲む。テーブル席も有るが、そこでは安っぽく色鮮やかなドレスを、だらし無く着た女が、さし向かいに座る男に、絡みつく様な視線を向けながら、商売の話をしている。
埃っぽい店内、テーブルの上のランプ、燭台の蠟燭の灯りが揺らめく。僕は何かあれば直ぐに場を離れられる、立ちのカウンター席で、店の中を隣の食事をしている男を、それとなく眺める。
赤のグラスを一口、酸味が口の中に広がる。食事の彼は、それを一気に飲み干すと、おかわりを頼んでいた。たわわな谷間が強調された装いの女が、カウンター越しに、彼のグラスに赤を注ぐ。
「ホントによぉ、おらぁ言ってやったんだぜ!ありやぁおもろい小説だって、おらでもちゃんとよめんだぜ、かんたんに、かいてあってよぉ、姉ちゃん聞いてんのかぁ?」
曇ったグラスに赤が注がれる度に、飲み干し煮込みを食べ、黒いパンを齧る男。ここにも僕の書いたものを読んでいる読者がいた。そしてリチャードと同じ様に、赤に酔い、同じ様に絡むように、カウンターの女性に答えを求める。それに対して、おざなりな返事を返す女。
「なっちゃいねえ、なっちゃいねぇ、しょせん姉ちゃんには、わからんのだな、おらぁ、こう見えてもなぁ」
酔に任せてベラベラと口数が増える男。あらか様に面倒くさそうな表情を浮かべる彼女。リチャードと同じ様な、正義は我にあり的な演説が始まったのを期に、一言二言、男に対してきっぱりと言い捨てた。
「それはよ、ござんしたわね、私しゃ忙しいから、独りで幾らでも喋ってたらいいじゃない。酒にのまれて、からむお客の相手はゴメンだね」
おい、こっち!もう一杯!ベッピンさん来いよ、そんな『ヘリくつ野郎』放っておいてよぉ!と酒を注文した他の客へと、にっこり笑みをむけると、フン!と男を一瞥した後、彼女は離れていった。
なんでぃ、なんでぃと、文句を言立てている男。
「オラァまちがってねえんだよ、そんなコタ言わねえ!あー?」
僕は曇ったグラスのそれを、ちびりと口に運びながら、おらぁは!まちがってねぇんだよ!と、独演会をしている、機械油で汚れ汗臭い彼と、シルクに身を包み、オーデコロンの香りをまとう、リチャードと比べる。
「私は間違った事は言わない、言わないんだよ、君」
酩酊が深まれば深まるほどに、絡む様子になる友人を思い浮かべる。曇ったグラスの中を眺める、そこには赤い酒。
上等な甘い酒も、酸っぱく安い酒も、同じ様な酔いを作るのか、片方は選ばれていると、自負している高貴な人間。もう一方は、この国では底辺の階級の人間。
そのどちらの男も、僕の書いたものを読み、赤い色に飲まれて面倒くさい生き物になっている事に、何処か愉快になりながら、酸っぱいそれを飲み干した。
続く。
………よし、どうにか書き上げた。満足感に満たされつつ、心地よい疲れを頭の中に感じながら、グラスに手を伸ばした。
飲み残しの赤い酒を、一息に空ける。それは話に出てきた安酒ではない。好みの甘く濃い上等な赤。立ち上がり、もう一杯飲むために、酒の瓶を取りに台所へと向かう。窓の外からは、早起きの小鳥の声が、聞こえてきている。
チーズとパンと、ハムにナッツを適当に皿に入れ、瓶と共に、机のある部屋へと戻る。平日の独り暮らし、その気ままさを実感するとき。
トクトクトク、と赤を注ぐ。入れたてはやはり香りがいい。ナッツを齧り、ゴクンと飲み込む。グラスを、朝日に掲げて色を楽しむ。そしていつも思う。
………酒は飲むものなのか、飲まれる物なのか、ただ分かっている事は、それに飲まれれば、仕事で失敗をし、友人は離れて行き、女には捨てられ、醜態を見た子供からは嫌われ、召使いからは同じ人種だと認定を受け、そして奥方には馬鹿にされる。
でも………、酒はいい。今グラスの中は、バッカス色。そしてこの言葉がある。
『酒に感謝せねばな、酒が罪を着てくれるおかげで、人間が救われる』
喧嘩しようが、男と女が一線を越えようが、愚かな行動をしようが、酔が醒めれば、全ては酒のせい。
白い朝日を浴びて、透き通ったグラスの中の赤は、神の一滴と言うに相応しい、高貴な色を宿している。それを目を細め揺らして楽しんでから、ゴクゴクと、一息に飲み干した。
「酒に感謝せねばな、酒が罪を着てくれるおかげで、人間が救われる。」
出典
ウルリッヒ・ケスラー