研究所2
廊下の角から現れた女はエイタとルリの存在を認識すると、目を丸くした。「まあ」、女は声のトーンをあげて感嘆の声を出して、抱きしめるような優しい目に変わった。
「ルリちゃん。来てくれたの!」
女が階段を下りてきてルリに抱きつく。
「嬉しいわー」
「マサミさん。やめてください」
ルリがガシガシと頭を撫でられるのを嫌がってマサミと呼ばれた女の手から逃れる。エイタはそれを呆気にとられて見ていた。
「もう、相変わらずおませさんなんだから。あなたはルリちゃんのお友達?」
「はい」
マサミがくっきりした目鼻を向けて、エイタにも話を振った。年齢は30歳前後ぐらいだろうか。
「いらっしゃい。とりあえず上がりましょうか」
階段を上ってすぐの部屋に案内されて、ソファに座っていると紅茶がエイタとルリの目の前に置かれた。続けて、洋菓子が詰め合わされた木の器が机に置かれて、ルリの正面にマサミが座った。
「ルリちゃん元気してた?また来てくれて本当に嬉しいわ。どうぞ。この紅茶おいしいわよ」
マサミは動きも喋り方も大げさだった。室内は各所に難しそうな本が置かれていて、壁には賞状やここで働いていたであろう人達の白衣を着た集合写真が飾られていた。部屋の中央では柔らかい白のソファが机を囲んでいて、エイタは座って自分がここに来た理由を話すタイミングを伺っていた。
「……サトミちゃんのことは残念だったわ。あなたはもうここに来てくれないと思っていた……。あの時は私もごめんなさいね。私あれから反省したの」
「……いえ。タケル先生はまだ研究を続けてるんですよね?」
「ええ。今も続けてるわ。昨日も遅くまで研究室に引き込もって、いつの寝たのか知らないけど彼はまだ寝てるわ」
「まだまだ起きそうにないですか?」
「そうねぇー。いつもお昼前まで寝てるかしら。そちらの坊やはルリちゃんと同じ場所で暮らしている子かしら?」
「……あ、はい。そうです」
2人の話から情報を取り込みながら、室内をキョロキョロ見ていたエイタは脳が考えるのにせいいっぱいで、反応が遅れてしまったが答えられた。
「ルリちゃんの付き添いで来てくれたの?同い年くらいだし仲良しなのかしら」
「いや、えっと。僕からお願いしたいことがあって――」
「サトミちゃんと同じです。ここで研究を手伝いたいって」
ルリがエイタの話を遮って簡潔に話した。その言葉を聞いたエイタは「え」と小さく言ってしまった。
「あらま。そういう目的でここに来たの?」
「はい。あと病気のことで知らせたいこともあって」
「そっかぁ。じゃあルリちゃんも手伝ってくれるのよね?」
「私は付いてきただけです。むしろ私が彼の付き添いで」
ルリはマサミに対して冷たい態度をとっていた。悪い人ではなさそうだがマサミのことが嫌いなんだろうか。
「……そうなの。まあいいわ。ゆっくりしていって」
ルリが手伝はないということを伝えた後、マサミは少し固まった。その後、マサミの世間話が始まって、最近料理に凝っていることや衛生研究所の役割みたいなことを教えてもらった。
「そう。だから迅速に対応して拡大を止めなければいけなかったんだけど世界はこうなっちゃったわね。夫の研究仲間もいなくなっちゃったわ。辛かった。私も大人だからいつ病気にかかるか分からない。でも夫がきっと病気を解明してくれると信じて、今でも楽しく生きてるわ――。そうだ、さっき話したお料理お昼ご馳走してあげるからね。ルリちゃん嬉しい?」
「……はい」
「エイタくんも嬉しい?」
「はい」
「よし」
ルリはずっと楽しくなさそうだったがエイタはマサミが気さくで優しいので心を開くことができていた。今のところここに来て良かったと思っていた。
「彼ははまだ起きてこないかしら。朝ご飯はちゃんと食べてきた?そろそろお腹がすく時間よね?――あ、そう思ったら彼が起きてきたわ」
廊下から足音が聞こえてきて、ドアが開いた。上下灰色のスウェット姿で髪に寝癖がついている男が部屋に入ってきた。