─迷い子─
夕闇があたりを包んでいた。
一人の質素な服に身を包んだ女が、まだ幼い・・7・8歳くらいだろうか。少女を連れ、森の奥を歩いていた。
「かあさん、何処まで行くの?もう、暗くなるよ?おうちに帰ろうよ。」
不安そうな少女の声に、顔を強ばらせ、歩を進めていた母親が振り返った。
今にも泣き出しそうな、けれど、何かを決心したような顔で。
ゆっくりと少女の前に跪くと、母親は大きな木のうろを指さし、ゆっくりと諭すように言った。
「かあさんはすぐに戻ってくるから、お前はここで待っておいで。」
まっすぐに見つめるその視線は、拒むことを許さない、そんな目だった。
何かいつもと違う母の様子に、少女はおびえながら頷いた。
「すぐに戻ってきてね?」
娘の言葉には返事をせずに、母親は一度強く少女を抱くと、うろの中へ座らせた。
少女の顔をじっと見つめ、後ずさり、そのままきびすを返すと森の中へ消えていった。
少女は膝を抱え、うろの中で震えていた。
少女にはわかっていた。きっともう、母親に会うことは二度とないだろう、と・・・。
「全くもう、だから街道を行こうと言ったのに!」
「ばぁか!街道を行ったんじゃ間にあわねぇんだよ!」
セシュはイライラと夫、ヴァスの脛を思いっきりけり上げた。
「ってぇな!怪力女!」
「森を抜けたってこれじゃあ間に合わないじゃないのさ!ああ、もう、どうすんのよ!」
「うっせえな、来ちまったもんはしょうがねぇだろ?ちったぁそのうるせぇ口閉じていられないのかよ!」
そのとたん、セシュはピタリと口を閉ざし、あたりを見渡し始めた。
「・・・はじめからそうしてりゃかわいげあるんだけどなー」
ぶつくさ言うヴァスの口を押さえ、セシュはしいっとしてみせた。
「ね。あんた、何か聞こえない?」
「んぁ?この森に魔物が出るなんて話は聞かなかったぜ?」
「そうじゃなくって・・・子どもの声・・?」
「こえぇこと言うなよ!」
こんな夜更けに子どもの声だと?ばかばかしい・・そう言いかけたヴァスの耳に、確かに風にのって、まだ幼い少女の押し殺したような泣き声が聞こえてくる。
「あっちからよ。ヴァス。」
セシュは声を頼りに森の中を歩き出した。
「お・・おい、セシュ・・」
少し躊躇をしたヴァスに構うことなく、セシュは森を進んでいく。
もしも魔物だったらどうするんだ。むしろ普通の人間の子どもがこんな夜更けに森の中に一人だなんて事は、どう考えても不自然だろう。
そう言いかけたが、自分の女房の性格を思いだし、口を噤む。
セシュは以前自分の子どもを流産している。その時のことが原因でもう、子どもの望めない体になっていた。
無類の子ども好きのセシュのこと、止めたところで聞きはしないだろう。
やがて二人は一本の古木の前にたどり着いた。
声はこの中から聞こえてくる。
セシュは古木をぐるりと回ってみた。
ぽっかりと空いたうろの中でうずくまって声を殺して泣く少女。
人の気配を察したのか、少女がふいに顔を上げた。
「かあさん・・?」
一瞬嬉しそうな笑みを見せたが、待ち人ではないことを確認すると、にわかに少女の目が曇る。
セシュは少女を怖がらせないように、うろの前に腰を降ろすと、優しい声で語りかけた。
「どうしたの?迷子?」
少女は悲しそうに首を振った。
「かあさんと一緒なの。・・・ここで待っててって言われたの。すぐに戻ってくるからって。」
「何時からここにいるの?」
「お日様が沈む頃から・・・。」
今は深夜。日没からはすでに6時間は経過していた。
セシュは少女に気がつかれないようにため息を漏らした。
この子はおそらく貧しさから、ここに捨てられたのだ。
この国は今こうした貧困者が大勢いた。森に子どもや年寄りが捨てられるのは珍しいことではない。
親はきっと身を切られる思いでこの子を捨てていったのだろう。
セシュが少女に触れると、少女の体はまるで氷のように冷え切っていた。
「もう、真っ暗だものね。きっとおかあさんは貴方を見付けられなかったんだと思うわ。
街で待っていたら来るかも知れないから、貴方さえ良かったら、私たちと来る?」
少女は少し考えるようなそぶりを見せ、セシュの後ろのヴァスに目をやった。
いいの?と言いたげな目。
ヴァスはすくめそうになる肩をなんとか動かさないようにしつつ、にこり、と笑って見せた。
言いだしたら聞かないのはわかっていた。
こっくりと頷いた少女に、外套をかけてやりつつ、ゆっくりと森を歩き出す。
幸い古木の前には道が続いている。ここを行けばやがて街へ出られるだろう。
「あたしはセシュ。歌い手よ。こっちは夫のヴァスで楽士。あたし達、夫婦で旅をしてきたの。」
「・・・あたしは、フィレーン・・。ユクタの村から来たの・・。」
ヴァスの顔が曇る。ユクタはここに来る前に通ってきた。
どうやら内乱があったらしい。村は壊滅状態で、おびただしい数の死体が山積みになっていた。
おそらくここまで逃げ延びたが、食料や水が底をついたのだろう。
少女が哀れでならなかった。
母親は自分の食料確保のために少女を捨てたのだろうか・・。
ふと視線を左に移し、ヴァスは少女の視界を遮るように少女の左側に移動した。
闇の中に、うっすらと浮かぶ影。だらりと木から垂れ下がった姿は女性の物であることは、その服の様子からすぐにわかった。
おそらく、あれがこの子の母親だろう。
共に死を選ぼうとして、愛するが故、殺めることが出来ずに、一縷の望みを少女に残したのだろう。
これもまた、この国では良くある話だ。
すでにこういった光景を見慣れてしまっている自分自身に落胆し、すぐ隣をうなだれつつ歩く少女の頭に手を載せた。
これも何かの縁かもな。
子どもがほしくて望めない夫婦と、親に捨てられた孤児の少女。
神様の与えてくれた運命だ。
木々の間から見え始めた街の明かりを眺めつつ、ヴァスとセシュは目を合わせ、同時に微笑んだ。
考えることは一緒のようだった。