第二話 ゴースト・ライター その5
鞭女の間に着くと、土屋はしばらく壁画の前に立って、別れを惜しむようにじっと見つめていた。骨皮は一人で迷わずに帰れる自信がなかったので、土屋が満足行くまで待った。
すると突然、土屋は何を思ったか、カバンから彫刻刀を取り出して、壁に何かを彫り始めた。それは絵の具バケツの底に描かれていたのと同じ、「つちや」の文字であった。
骨皮は黙って土屋を見つめた。その横顔には、何かしらの覚悟のようなものが読み取れて、気軽に声をかけることができなかった。
その時、入り口の方から、騒々しい声が聞こえてきた。ブルーノ博士が報道陣を引き連れて、狭い道をやってくるところであった。
「ボクダヨ!ボクガイチバン!ボクガ、ミツケタコノ絵!」
骨皮は唖然として、ブルーノ博士を見つめた。何と強欲なことか。ブルーノは骨皮と土屋の姿を見認めると黙っておれ、というように、唇に人差し指を当てた。
「ミスターツチヤも、ミトメタよ。ブルーノがサキ。ツチヤがアト。マズ、この絵カラ…」
一斉に壁画に向けられるカメラ。しかし、記者の一人が素早く気づく。
「あの、博士。ここに、つちやって描いてありますけれど」
「ナンだって」
「ですから、ここに、つちやって」
カメラが、記者の指差した先に一斉に向けられる。ブルーノ博士は目を剥き、凍りつく。それから、すべてを悟り、土屋と骨皮を怒りの形相で睨みつける。
「ファッキンジャップ!」
ブルーノは閃光のような素早さで中指を立てると、来た道をかけ戻って行く。
「博士!説明を!」と叫びながら、蜂の子のようにその後を一斉に追いかけて行く報道陣たち。嵐のように去って行く一団を、骨皮は呆然と見送った。
「ほら」土屋の声に、骨皮はハッと振り返る。「やっぱりこうなるんだ」
骨皮はうつむいた。つちや、とさえ書かなければよかったのか。だけど、本当に、そういうことなのだろうかー
その時だった。後ろで、くすくす笑う声が聞こえた。振り向くと、ハデスと、その一家が立って、土屋の絵をじっと見つめていた。中には、子マンモスに乗った子供の姿もあった。ハデスが彼らを冥界から連れてきたのだ。
「つ、土屋さん」
「もう絵は引退する」土屋はもう外へ出て行こうとしていた。
「違うんです、そのー」骨皮は戸惑った。「あなたの絵を、みんなが、見てくれています」
土屋が怪訝そうに振り向いた。
「みんなって、誰だ」
「それはですね、つまりその」
骨皮は言い淀んだ。なんと言えばわかってくれるだろうか。だけど、なんと言ったって、わからない。伝えられるはずがないのだ。今はここにいない人が、あなたの絵を気に入ってくれているかもしれないだなんて。そんなことは、傷ついた彼には伝えられないし、伝える必要もないことなのだ。
大事なのは、今、目に見える観客じゃない。今は見えない自分の未来の観客を、信じる彼の気持ちなのだ。信じ続けていればいつか目に見える観客が、彼の前に現れる日が来るかもしれない。信じるのをやめてしまったら、過去の亡霊も、未来の人々も、彼の前から消えてしまう。
「さあ、もう出ようじゃないか。あんた、ずっと慣れない洞窟の中にいて、頭がおかしくなってるんだよ」
骨皮は歩き出した土屋の後について、歩き出す。振り返ると、ハデスが嬉しそうに手を振っている。骨皮は手を振り返した。ずっと、彼らが見えなくなるまで、振り続けた。
次回「サンタクロース殺人事件」