第二話 ゴースト・ライター その4
ハデスは入り組んだ道をあっちへこっちへぐんぐん進んで行く。骨皮は彼の青白く光る背中を必死に追いかけながら尋ねてみた。
「私はてっきり、あの壁画群はハデスさんが生前描いたものかと思いました」
「バカ言うなよほねちゃん。おいら、あんな下手くそな絵かけねえよ」
ハデスはケラケラと笑った。
「骨ちゃんは俺が死んでから初めての友達だからな。特別に見せてやるよ」
ハデスが骨皮を連れてきたのは、エメラルドに輝く湖の間だった。光を向けると、水の光が天井にキラキラと踊った。骨皮は神聖な輝きに、頭がクラクラした。自然の創り出す神秘は、人間の想像をはるかに超えているー
カメラを向けようとすると、ハデスが「違う、こっちだよ」と湖の淵から呼んだ。
「ここから、底を覗き込んでご覧」
言われるままに身を乗り出した。すると水面の底に、巨大な太陽と月の絵がライトの光に反射して浮かび上がった。それは巨大で圧倒的な作品であった。骨皮は自分がその絵に飲み込まれてしまうような錯覚に陥った。
「これはー」やっとのことで声を絞り出す。
すぐ隣で、ハデスが恥ずかしそうに微笑んだ。
「そう、おいらが死ぬ前に描いたんだ。だけどね、誰もおいらのすること、わかってくれなかったんだ」
ハデスは小さな目を細めた。
「おいら、狩猟も下手くそで、体も人一倍弱くって。だから絵を描いた。みんなに喜んで欲しかったんだ。だけど、誰もわかってくれなかった。おいらの部族では、マンモスをとってきて初めて、一人前の男として認められたんだ。マンモスの絵をいくら描いたところで、食べられなくちゃ意味ないだろうって。みんな、おいらにそういうんだ。おいら、何にも言えなかった」
骨皮はじっとハデスを見つめた。ハデスははるか何千年も前の思い出を、一人かみしめているようだった。忘れられない思い出を。彼をこの世に繋ぎ止める、辛く悲しい思い出を。
「ハデスさん。これは世紀の大発見です。写真を撮っても良いですか?そうしたら、きっとあなたの絵を、世界中のたくさんの人が見てくれます」
骨皮の申し出に、ハデスの瞳に一瞬だけ光が宿ったが、しかしそれもすぐに消えてしまった。
「ほねちゃん。ありがとう。嬉しいよ。だけどさ、おいら、そんなら、名前を書いておけばよかったなあ。だって、こんなに上手に描けたんだもの」ハデスは唇を噛み締めた。「名前を書く前に、おいら、狼に首を噛みちぎられちゃったんだ。だから、書けずじまいだったんだ…」
骨皮は構えたカメラを持ったまま、何も言えずに固まった。なんとなく、自分には、シャッターを押す権利がない気がしたのだ。
その時、後ろで、荒い息遣いが聞こえた。振り向くと、泣きはらした土屋が目を見開いて立っていた。彼の目もまた、水底の壁画に注がれていた。
「土屋さん」
「あんた、誰と話してたんだね?」
「いえ、ひとりごとです」
土屋は訝しむように骨皮を見つめた。骨皮は視線をそらし、土屋の手にぶら下がった絵の具セットを見つめた。そうして、何かを思いついて、顔を上げた。
「土屋さん」
「何だ…」
「彫ってほしい文字があるんです」骨皮は土屋の目を見据えて言った。「この絵の作者の名前を、どこか見える場所に彫ってくれませんか。できれば、絵の近くが望ましいです。一枚の写真に収まる場所に。古代人が本当に書いたかのようにして。私はそれを、新聞社に持ち込むつもりです」
土屋は呆然と骨皮を見つめた。
「それが、僕の恩人の願いなんです」骨皮はカメラを握りしめた。「どうか、お願いできませんか。ハデス作、と書くだけで良いのです」
「その、ハデスって、どこの誰なんだね」
「それは言えません。あなたを驚かせてしまうでしょうから。」
*
土屋の技術は、さすがに相当なものだった。
彼が湖の淵に、「ハデス」とほる間、骨皮とハデスは隣でその巧みな手さばきを食い入るように見つめていた。
骨皮があまりに褒め言葉をいうので、土屋は段々得意になってきたようだった。その証拠に、日付は良いのか?とか、電話番号は良いのか?とか、頼んでもいないことまで、聞いてきた。
「ようし、完璧だ」
出来上がったものを見て、ハデスは満足したようだった。目を輝かせて、いろんな角度から文字を見つめた。それは古代文字で書かれた、立派な「ハデス」の署名であった。
ハデスが後ろで「骨ちゃん」と呟くのが聞こえた。「ありがとな」
「喜んでもらえましたか…」
しかし骨皮が振り向くと、ハデスはもういなかった。どうやら、もう思い残すことがなくなったようだった。
急に無口になった骨皮を、土屋が怪訝そうに見つめているのに気がついた。
「あの」骨皮は何と説明して良いやら迷った。「私の命の恩人がいたく感謝しておりますので、あなたは私の恩人の恩人です」
骨皮の言葉に、土屋は眉根を寄せたが、何だかまんざらでもなさそうであった。
「名前を入れただけだ」土屋は照れ隠しをするみたいに、ぶっきらぼうに立ち上がった。
*
骨皮と土屋は疲れ切って、物も言わずに出口へと進んだ。鞭女の間に近づいた時、不意に骨皮がポツンとつぶやいた。
「いいものですね。画家というのは」
「なぜだ」
「カメラマンというのは、あまり名が残りませんから。絵だと、誰が描いたのかって、なりますでしょう。だけど写真というのは、よっぽどの作でもない限り、数秒で消費されて行くだけです。日々のネット記事や、新聞の中で」
土屋はうつむいた。骨皮は疲れのあまり、言わなくてもいいことを言ってしまったと思い、後悔した。しかし、不意に土屋が言った。
「絵だって何だって同じだ。よっぽどの作品でなければ、見向きもされない。描いてたって、虚しいだけだ。」
骨皮は何にも言えなくなった。