第二話 ゴースト・ライター その1
セミの死骸をうっかり踏んでしまわぬように、人々は気をつけて歩道を渡る。暑い夏を乗り越えてきた彼らは、迫り来る木枯らしから逃げるように、枯葉が隠した横断歩道をせかせかと渡ってゆく。今自分がどこにいるのか、わからなくなってしまわぬように。
骨皮すじ男、42歳。彼は今、暗い洞窟の奥をよたよたと歩いている。酸素は奥へ行けば行くほど薄くなってきた。天井のコウモリを怒らせないように、そっと慎重に進んでいく。万が一足を滑らせてしまっても、カメラだけは守り抜くつもりで、大事に抱え込んでいる。同行する調査チームの一団は、もうずっと遠くに行ってしまっている。
「ヘーイミスター!」遠くから苛立ったような声が反響する。「ミスタ、ボーンレザー!」
「は、はあ!」骨皮は慌てて返事をすると、光のたまった方向へ駆けてゆく。途中、何度も滑りそうになりながら、何とか一団に追いついた。調査チームのトップ、ブルーノ博士が青筋を立てながら骨皮に命令する。
「ココ、ピクチャー!」
「はあ」
言われた通り、壁にカメラを向け、勢いよくシャッターを押し込む。まばゆいフラッシュが、壁に描かれた古代絵と、ブルーノ博士の興奮に満ちた表情を浮かび上がらせる。
「オーケイ!次イクヨ次!」ブルーノ博士は鼻息も荒く、どんどん奥へと進んで行く。
「おい、世紀の大発見だぞ、これは」
「ああ、違いねえ」
ささやき合う調査隊の後ろで、骨皮はずり落ちたヘルメットを被りなおしながら、恐る恐る尋ねてみる。
「あのう、すみません」
「なんだよ」
「あとどれくらいかかりますでしょうか」
「おいおい、何言ってるんだ?」いかめしい体つきの隊員は、背中のボンベを背負いなおしながら笑う。「本番はこれからだよ」
「そうですか」骨皮はレンズをカチャカチャ回しながら、うなだれる。「どうも、こういうところには慣れていないものですから」
「カメラマンさん。残念だけどさ。俺たちは、奥にたどり着くまで、進み続けなきゃいけないのさ。どんくらい深いかは、誰にもわからないよ。ここに足を踏み入れたのは俺たちが初めてなんだからね」
「はあ」
「なああんた、わかってないだろ。これがどれだけ凄い発見か。運が良ければ、あんたの名前も教科書に載るかもしれないぞ」
「きょうかしょ」骨皮は目を見開いた。
「そうだともーなあ、想像してごらんよ。子どもたちが、目を輝かせてあんたの撮った写真を見てるとこを」
骨皮は顔を上げた。息苦しさが、半分になったような気がする。
「頑張ります」
「そうだとも、その意気だ。それにしても真っ暗だな。幽霊の一匹か二匹いてもおかしくないー」
「キミたち、ムダバナシ、ダメ!」
ブルーノ博士の罵声が反響する。その声に驚いた骨皮のヘルメットが、再びずるっと落ちた。
*
それから骨皮は次々に発見された壁画群を、怒涛の勢いで撮影していった。博士の「ココ、ピクチャー!」が反響するたび、骨皮は無我夢中でシャッターを切った。酸素がいよいよ薄くなり、頭がフラフラし始めても、「いつか自分の写真が教科書に載り、それが子どもたちを喜ばせることになるかもしれない」という希望を胸に、骨皮はシャッターを押し続けた。自分がカメラで撮っているのか、カメラが自分に撮らせているのか、すっかりわからなくなってしまうまでー
「キミ、ソレちゃんとトレテルノ?」
「と、撮れてます、大丈夫」
「オーケイ…ネクスト!」
ブルーノはあまり深くまで追求しないタチだった。骨皮は念のために今まで撮ったものを確認しようと、モニターを覗き込んだ。そうして、その場に凍りついた。
「おいあんた、ぼけっとしてると、迷子になるよ」
どんどん追い抜いて行く隊員たちを尻目に、骨皮は深いため息をつく。ああ、まただ。また、余計なものを撮ってしまった…。
だけど、全部ではない。そうだとも。骨皮は自分自身に言い聞かせた。たった一枚、写り込んでしまっただけだ。
気を取り直し、前進しようとした時にはもう、遅かった。チームの姿は遠くに消えて、光のかけらも見えなくなっていた。
青ざめる骨皮の肩を、叩くものがあった。それは、冷たい、血の通っていない手だった。
骨皮は恐る恐る振り向いた…