最終話 幸福なカメラマン 骨皮すじ男 その2
彼らは店を出ると、まっすぐ家を目指した。たどり着いたのは、こちらの期待を裏切るような、安いオンボロアパートであった。以前のアパートよりも一部屋分広くなったくらいで、あとはさして代わり映えはしなかった。
私は骨皮の一人になる時を見計らって、じっと窓の外から見張っていたのだが、これがなかなかうまくいかない。何せ少女は風呂へ入るのにも、テレビを見るときも、骨皮にべったりくっついて、離れないのである。ようやくトイレへ向かう時になって、少女は骨皮から離れた。
私は今がチャンスとばかりに、トイレの扉の閉まる直前に、中へと飛び込んだ。パンツを下ろす骨皮の筋張った足に体をこすりつけ、ニャアとひと鳴きしてみせた。
だが骨皮は私に気づかぬ様子だったー瞬私の方を見つめたのだが、その瞳にはなんの感情も認められなかった。何かふわふわしたゴミのようなものが、一瞬肌をかすめたのだろう、とでも言ったような顔をして、用をたすのに戻った。
私はまさか!と青ざめた。彼には私が見えなくなってしまったのだろうか?私は恐ろしい現実を認められずに、もうひと鳴きした。しかし結果は同じであった。彼は私が一向見えない様子なのである。
私は骨皮のションベンの音を背に、ブルブル震えだしたー
彼は一体どうしてしまったというのだろう?
その時だった。コンコン、とドアをノックする音がして、続けざまに「お父さん、まだなの?」という、無邪気な娘の声がした。私は尻尾の先まで震え上がった。骨皮は「今出ますよ」と言って、のそのそと立ち上がった。私は周りを見渡したが、隠れる場所は見当たらなかった。
私はすっかり混乱して、パンツを上げようとする骨皮のももに飛びつくと、そこを何度か引っ掻いた。三度目あたりで、ようやく物質的なものを感じたのか、私の引っ掻いた場所を怪訝そうに見つめた。私はここぞとばかりに無茶苦茶に引っ掻いて、ニャアああ!と渾身の力を込めて叫んだ。
すると骨皮の瞳に一瞬、霊気が宿った。希望の光の差し込んだと思ったのもつかの間、勢いよく扉が空いて、少女が恐ろしい形相で、お札と包丁を手に仁王立ちしていた。
「なんて物騒なものを持っているんです!」骨皮は女のような金切り声をあげた。
「悪霊退治するの!」
「悪霊なんて!」骨皮は金切り声を上げた。「どうしちゃったんです、貴女は」
「ほらはやくして、はやくそこを退いて、逃げちゃうよ!」
「悪霊なんてここにはいません」骨皮の断固とした態度に、私は心を震わせた。骨皮の言葉に感動する日が来るとは思ってもみなかった!しかし次の瞬間、私の感動は無残にも打ち砕かれたのだった。
それは骨皮の、「言ったでしょう、幽霊は存在しません!」という、決定的な一言であった。
*
私はアパートを飛び出すと、夜の雨に降られながら、孤独に打ちしおれ、ひたすら歩き続けた。彼の身に一体何が起きたというのであろう?まさかあの男が、あんな幸せな家庭を持ってしまうとは!
それは我々幽霊たちに対しての、あまりにお粗末な裏切り行為である。私の悲しみはやがて怒りへ変わっていった。許せぬ、断じて許せぬ。私たち哀れな幽霊を差し置いて、自分だけ幸福になるなんて!
*
私は怒りに燃える前足で、勝手知ったる寺へ飛び込んだ。かの黄金寺である。相変わらず下品な寺である。黄金など散りばめおって、タヌキの寝床には肥溜め程度で十分というのに!
境内へ足を踏み入れた時、異変に気がついた。寺全体へ、キンタマ結界が張られているのである。まるで私の来訪を予感していたかのように。ちくしょう、何か知っているな!
「タヌキチやあああい!」
私はあらん限りの怒りを込めて咆哮した。タヌキどもが寺の中でブルブル震え上るのが、微かな気配でわかった。私は一晩中、喉の枯れ果ててしまうまで、そうやって脅しを続けるつもりであった。タヌキどもは耐えられなくなって、火にあぶり出される虫のように、尻尾を巻いて飛び出してくるに違いない!
私の狙い通りに、私が叫びだしてからものの3分と経たぬうち、たぬきち坊主の懇願するような悲鳴がどこからか聞こえてきた。
「これはこれは!どこの美しいお姫様かと思ったら、骨皮の野良猫嬢ではないですか!」
(つまらないお世辞などたれおって!)私は尻尾を鋭角に尖らせ、声のする方向を睨みつけた。だがそこには果てしない暗闇が広がるばかりであった。狡猾なタヌキどものことだから、きっと木枯らしにでも化けているのに違いない。
「いくら貴女が美声とはいえ、こんな夜遅くににゃいにゃいとお騒がれては困ります…」
「とぼけるな!」私の咆哮で、暗闇の奥でぽんと茶色い尻尾の飛び出すのが見えた。やつめ、すっかり震え上がっているらしい。
「とぼけていると言われましてもなんのことやら…なにせ、所詮私めは、猫方よりも偏差値の低い種族でございますから」
「骨皮のことに決まってるだろうが!小癪にも、薄汚いキンタマ結界などはりおって、ボロダヌキめ、何か知っているのに違いないな」
「はてさて、何か誤解をしておらっしゃるようですな、近頃はどうも物騒ですから、念の為というわけでして」
「こいつめ、いけしゃあしゃあと!」
「嘘などではございませぬよ、先日も、新聞でタヌキ鍋ブームという良からぬ見出しを目にしたばかりでございますから、結界なしには安心して夜も眠れぬというわけでございまして…なにせ猫方と違って我々は非常に美味しいということですから」
「おのれ!それ以上無駄な口を聞いてみろ、お前のキンタマを、この牙で噛み殺してやるからな」
「ひいいい!」タヌキはわざとらしく震え上がった。その口調に、何かバカにしたようなものが込められているのを、私が聞き逃がすわけがなかった。タヌキめ、結界ごときで、気を強くしているらしい。しかしこれ以上タヌキごときに時間を取られるわけにもいかず、私は怒りに歯ぎしりしながら出口へ向かった。
すると後ろから、このようなセリフが吐き捨てられた。
「さすが猫方だ…ご主人の幸福が祈れぬらしい!」
「なんだと?」
「いえ、なんでもありませぬよ、ただ…」冷たい闇夜に、不愉快な笑い声が響き渡った。「猫方が嫉妬深いというのは知っておったつもりでしたがね、ここまでとは!」
私は怒りに我を忘れた。次の瞬間にはもう、キンタマ結界をぶち破り、タヌキを床へ組み敷いていた。
「ひいいいえええええ!」
タヌキは僧服を乱しながら這いつくばって逃げ出そうとした。だが私の尖った爪に尻尾を磔にされたタヌキは、みっともなくもがくのみであった。その醜態に私は大笑いした。
「成金ダヌキめ」私は笑いながら尋ねた。「お前のキンタマはどんな味がするのか?」
タヌキは真っ青になって、声にならない声をあげ私を見つめた。
「食って欲しくて、そういう挑発をするのだろう?」
「わしは…ただ、違いますよ、ねえ、貴女…」
私はザラザラとした舌で、タヌキのほっぺたをべろりとひと舐めしてやった。するとタヌキは痙攣するように震え、挙げ句の果てには小便を漏らした。さらなる脅しをかけようとしたその時、暗闇の向こうに、寄り添う二つの影が見えた。そこにいるのは、小さな子ダヌキの兄弟であった。
私は目を細め、この愛くるしい、罪のない二匹の子ダヌキを見つめた。その瞬間、私の心に慈悲が生まれたわけでは決してない。むしろ三匹丸ごと食ってやろうと思ったほどである。相手が可愛ければ可愛いほど、潰してしまいたくなるのが猫の常というものである。
しかしその時ある一つの疑念が、私の脳裏によぎった。
「母ダヌキはどこだ?」
たぬきちはしかし石のようにその場へ凍りついて動かなかった。よく見ると文字通り石になっていた。こうなるともういくら化け猫とはいえ取りつくしまがない。私はイライラしながら子ダヌキの方へ向いた。
弟狸は私を見て笑いだした。そうして私のひげを引っ張ったり舐めたりし始めた。私はその無邪気さが恐ろしくなって、思わず後ずさりした。
「やめろやい!」兄ダヌキが弟の尻尾を掴んで引き寄せた。
「お母さんはどこだ?いないのか?」私は幾分ほっとして尋ねた。
「いないよ」弟ダヌキが尻尾をフリフリしながら叫んだ。「人間様に嫁いだのさ!」
「なんだって」
「妹を連れて、出ていったのさ」
「ホネ川って男のとこさ!」兄が叫んだ。「今よりいい暮らしがしたいって言って、出て行ったんだ」
頭がクラクラするのを感じた。なんということだ?いくらモテないからと言って、狸の嫁を貰うとは!しかもコブ付き!なんと情けない男!
私はいろいろなことがアホらしくなってしまった。そうして力なく尻尾を垂らして、兄弟へ向き直った。
「戻ってきてほしいか?母さんと、妹に?」
私の質問に、兄は「どちらでもいいよ」と言った。その表情には何か、微かな葛藤が感じられた。それはなんだか、狸らしくない表情だった。私は彼をじっと見つめた…兄ダヌキは尻尾を膨らませて、私の鋭い、刺すような眼光に耐えているようだった。
「戻ってきて欲しいのか?欲しくないのか?」
「にいちゃん!」弟ダヌキが兄の尻尾へ抱きついた。そして、「戻ってきて欲しいよ!欲しいよ!」と兄を代弁するように言った。「そうだよね?にいちゃん?」
兄ダヌキの瞳孔が震えた。
「もちろんだとも…!」兄ダヌキはか細い声で呟いた。「戻ってきて欲しいさ!」
私はこの兄ダヌキの中に、狸らしからぬ苦悩のかけらを見たように思った。その苦悩の様子が、実に私の気に入った。
私は兄の方へ一歩歩み寄ると、「お前は化けられるか?」と尋ねた。
すると兄ダヌキはぱあっと顔を輝かせて、「まあね」と言った。
「何にでも化けられるのか?」
「まあ、見ていてよ!」
兄ダヌキは途端に顔を輝かして、肩から下げたショルダーバッグの中からアイパッドを取り出した。
「おい待て待て、それで何をする気だね?」
「最近の化け術は、アイパッドを使うんだよ」
狸のくせに生意気め、と言いかけたのを、私はぐっとこらえた。兄ダヌキは「bake tube」というアプリを駆使して、見目麗しいオス猫に化けて見せた。それは素晴らしい化け術だった!その端正な眼差しに、一瞬どきりとしてしまったほどだった。
「どうかな?」
「うん、素晴らしいよ、君、なかなかやるな、狸にしては上等だ」
「本当かい?本当にそう思う?」
「ああ、思うとも!」
私はプライドをかなぐり捨てて、褒めに褒めた。すると兄ダヌキはますます得意になって、あらゆるものへ化けて見せた。弟はすぐ横へ正座して、兄が新しいものへ化けるたび、小さな肉球を弾き合わせてぶちぶちと拍手をした。
「君は全く素晴らしいね!狸というものをほんのすこしだけ見直したよ…」
「本当かいお猫さん?本当に?」
「ああ、本当だとも!」
すると兄ダヌキは嬉しいのと恥ずかしいのとで、プルプルと小刻みに胸毛を震わせて、叫び出したいのをぐっとこらえて、「嬉しいよ!」と言った。「こんなに褒められたのは…僕はじめてだよ!」
私はこの無垢な狸を舌なめずりしながら見つめた。狸というのはやっぱり手に負えないくらいの、おおばかだ!私は彼を利用することにした。仕事が終わったら、人間に売り渡してやるつもりで。




