第四話 フレームアウトの亡霊 その5
その次の日曜日も、骨皮はメジロと約束をした。その次の日曜日も、そしてその次の日曜日も。「場所を変えたほうがいい」といったのはメジロだった。「いろいろな場所で試してみるべきだと思う」と。メジロはその都度、いろいろな場所を指定してきた。遊園地に水族館、ショッピングモールに動物園。
そのどれもが若々しいカップルだらけのデートスポットであることに、骨皮はもちろん気づいていたし、ひどく気後れしていたのだが、メジロといる楽しさに、だんだんそれも気にしないようになっていった。
しかし、骨皮は同時に、焦りを感じ始めてもいた。いつまでたっても骨皮のレンズに映らないアダムジャッキー。一体どうしたというのだろう。今までこんなことはなかった。ファインダーの中に死者を捕まえることは、骨皮にとって簡単なことだった。
メジロはそろそろ、愛想を尽かさないだろうか。メジロが気に入ってくれているのは私の霊視の才能であって、決して私自身ではないのだから。
骨皮はメジロといる時間が楽しい分だけ、それを失うことに対して、恐れを感じるようになっていった。
*
ある雨の日曜日、骨皮とメジロは美術館へ行った。開口一番、骨皮はメジロに向かって、カメラが壊れたのだ、と言った。せっかく来てもらったのに、すみません。
しかしもちろんメジロは、そんなら今日は撮影なしで、と即答した。骨皮はそうしましょう、とウンウンうなづいた。カメラが壊れたというのは、もちろん嘘であった。
それから二人である写真家の特別展示を見た。彼は生前、一枚も写真を売れなかった、無名の写真家であった。彼の作品が評価され始めたのは彼の没後、十年経ってからのことである。
そこには戦後のニューヨークの日常が並んでいた。ホームレス、着飾った老婦人、ゴミ箱、殺された豚、カメラを睨みつける子供。
それは何気ない風景の連続だった。しかし、誰にでも撮れるというものではなかった。
骨皮は、彼がもし、有名になってしまったら、こういうものを撮り続けることができたであろうかと考えた。しかしそんなことは本人にでも聞かない限りはわからないし聞いたところでわからないだろう。
「ねえ、これ、どう思う?」メジロが一枚の写真の前で尋ねた。それは、戦争帰りの兵士のようにガタイの良い男が、しわくちゃのスーツを片手に、カメラとは反対側へ、ただずんずん歩き去ってゆく写真だった。
「私、これを見てると、お父さんを思い出す。」
「そうですか。」骨皮は何か気の利いた言葉を返してやりたかったのだが、何にも思い浮かばなかった。ただ食い入るように見つめているメジロの横顔に魅入られて、頭が回らなかったせいだった。
「ポストカードを」骨皮は喉を絞められたような声でようやく呟いた。「買ってあげましょうか」
「本当?」メジロは顔を輝かせた。「嬉しい」
それから二人は美術館の近くのカフェでお茶をした。ケーキを食べて、夕日を眺めた。メジロは150円のポストカードを袋から取り出し、それを手帳に挟むと、「私、明日のオーディションの始まる前に、これを見よう」と言った。「そうしたら、受かるような気がするから」
骨皮は嬉しそうなメジロを見つめながら、こんな気持ちになったのは初めてだと思った。そして、幽霊ばかりを見ていた三ヶ月前に戻れと言われたら、年甲斐もなく、泣いてしまうかもしれないと思った。
*
メジロに呼び出されたのは、それから三日後の水曜日の夜だった。
指定されたのは、目黒のチェーン居酒屋であった。メジロはすっかり出来上がっていて、彼女の隣には背の高い、むっつりとした、黒縁メガネにポロのシャツを着た、小綺麗な二十代後半くらいの男が座っていた。
骨皮が席に着くなり、メジロは酒臭い息を吐いて、こう言った。
「カメラさん。おはよう。コンバンワ」
「はあ」
「この人、プロデューサーの石川さん」
「はあ」
「いや、どうもこんにちわ」
「カメラさんの話をしたら、ぜひ会いたいというの」
「メジロ、きちんと、まっすぐ座りなさい」プロデューサーはほんのり赤ら顔で、メジロをたしなめた。
「すいません、うちのメジロが、ご迷惑をおかけして」
「いえ、いいえ」
「おとといのオーディションを受けるように言ってくれた人なの」
「はあ」
「オーディションはうまくいかなかったけど」
「落ち込むなメジロ。あれは、出来レースだったんだと、そう言っただろう」
「別に落ち込んでない」メジロは石川の方を見ずに言った。「それでね、カメラさん。あなたの心霊写真をね、この人、ぜひ買いたいと、そういう話なの」
骨皮はびっくりしてメジロと石川を交互に見た。石川は名刺を取り出すと、骨皮の前に差し出した。彼はかの有名な代理店のクリエーティブなんとかとかいう局の、そこそこのお偉いさんのようだった。骨皮はすっかり萎縮した。
「すみません、名刺をきらしていてー」骨皮はそう言って頭を下げた。しかし、切らしている、というのは嘘だった。
「骨皮さん。でしたか」
「はあ」
「いやあ、突然お呼び立てして申し訳ない。あなたの話をこいつから耳にしましてね」
「はあ」
「いやあ、幽霊が映るんですって?」
「はあ、まあ」
「それが本当ならね、骨皮さん。これはものすごいことですよ。金のなる木です。ご存知です?かの有名な
ユリ・ゲラーを」
「はあ、」
「あなたはユリ・ゲラーに似ていますよ。顔の輪郭も、目つきも、まとわれているそのオーラも」
「あんなインチキとこの人を一緒にしないで」
「いいやとっても大事なことだ、詐欺師というのはー」
「だから嘘じゃないんだって、本当に心霊写真が撮れるんだって」メジロは石川の腕を掴んで息巻いた。
「あんたみたいなインチキ稼業とは違うんだよ」
「どうです、骨皮さん、ここはひとつ」石川はメジロの腕を雑に振り払うと、インスタントカメラを取り出した。「私に見せてくださいますんかね?」
「すんか、だって!」メジロは机を叩いて大笑いした。「この人、よく変なところで噛むの、ね、おかしいでしょ?」
「いやあ、あははは」
楽しそうな二人の様子に、骨皮は苛立ちが募ってくるのを感じた。やっぱり、若い子の考えていることは、自分にはさっぱりわからない。骨皮は物も言わずに立ち上がった。二人はそれでもなお笑い続けていた。骨皮は二人に背を向けて歩き出した。
「待って、外へ撮りに行くの?」
「いえー」
「そんなら私も行く。助手が必要でしょ」
「いえ、私は」
「待てよ。カメラを忘れてる。」石川が、テーブルと石川の間を強引にくぐり抜けようとするメジロにカメラを持たせた。メジロのスカートがめくれそうになるのを、石川が裾を引っ張って、直してやった。
その時、骨皮は、不意に石川と目があった。
「頼みますよ、骨皮さん」石川は笑った。「ズルはなし。ね?」
骨皮は「わかりました」と力なく笑って、店を出た。
*
骨皮は橋の方へと、ぐんぐん歩いて行った。後ろからメジロが追いかけてくる。ペタペタという、サンダルを踏む音が響いてくる。骨皮は、メジロは、あの男相手には、無理してヒールを履かないのだと思った。それが、自分には見せない親密さの証明のように見えて、いよいよむかっ腹が立ってきた。
「待って、待ってよぉ、カメラさん」
骨皮はメジロの制止も聞かずに、酔っ払いの一団や、盛り上がる学生たちの間をすり抜けて、早足で暗闇の方へ歩いていく。
やがて、橋の上に出た。人気がなく、しんとしている。骨皮はようやく追いついたメジロの手からカメラを奪い取ると、力任せにシャッターを押し込んで行った。あのインテリ男に、おびただしい数の幽霊を見せて、ちびらせてやるつもりだった。
バシャバシャバシャバシャ。
「カメラさん」
バシャバシャ。
「怒ってる?」
バシャバシャ。
「私、あなたに売れてもらいたいと思って。だってあなたはいい人だしね」
バシャバシャ。
「ねえ、聞いてる?」
バシャバシャ。
「ところで私、あの人にプロポーズされたの」
メジロがグイッとカメラの前に立ちはだかった。骨皮はカメラを持つ手を、だらんと力なく下げた。
「それは」骨皮は呟いた。「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「あの、えーと、本当におめでとう」
「でも、まだ決まったわけじゃないんだ。あの人がね、私と結婚したら、私を本気で売り出してくれるというの。それで今、返事は保留にしているとこ。」
「それはそれは」
「ね、政略結婚みたいで、いいでしょう。もしかしたら、別の人が、待ったをかけに来てくれるかもしれないし…」
「それはそれは、ロマンチックですね。しかし、そういうことは現実にはあまりないでしょう」
メジロはそこでギロリと骨皮を睨みつけた。骨皮は気付かぬふりをして、撮ったばかりの写真に目を落とした。そうして、おかしなことに気がついた。
それは、どの写真にも、幽霊が写っていないということだった。骨皮は震える瞳で、一枚一枚を確かめて行った。何度見ても同じだった。どの写真にも、幽霊はいない。地縛霊も浮遊霊も守護霊もアダムジャッキーも…
誰も、誰もいない!
「メジロさん」
「はい」
「こっちへ来てください」
戸惑うメジロの肩を、骨皮は自分の方へと抱き寄せた。メジロは骨皮の強引さに頬を染めたが、骨皮は自分のことに夢中で、まるで気付かなかった。
骨皮はレンズを空高く持ち上げると、ブラックホールのように真っ暗なレンズを自分とメジロに向けて、パシャリ。とやった。フラッシュが閃光のように光ったが、二人とも目を閉じなかった。しっかり目を開けて、レンズをじっと見つめていた。
出来上がった写真に、幽霊は一人も写っていなかった。桜の木の下で首をつった苦学生も、川で死んだホームレスも、アダムジャッキーも!
「どうしたの?」
骨皮は冷たい汗が噴き出すのを感じた。写真をすべてポケットの奥深くへしまいこむと、メジロを残して、駅へ向かって小走りで歩き出した。メジロが自分を呼ぶ悲しげな声に、鼓膜をぎゅっと塞いだ。