第一話 血塗られた結婚指輪 その1
ひどく暑い午後だった。太陽が街を焦がし、人々は冷気を求めてビルからビルを彷徨った。アスファルトごしの蜃気楼に浮かび上がるその姿は、さながら、夏の亡霊のようだった…
窓のないその会議室では、二人の男がだんまりと向かい合って座っていた。さっきからもう30分もこうしているのに、誰かが冷たい飲み物を持ってきそうな気配は微塵も感じられなかったし、壁の扇風機も、まるで見当はずれの方向を仰ぎ続けている。
骨皮すじ男、42歳。どす黒いネクタイは貧相な首まわりから雑巾のように垂れ下がり、しなびた髪の毛にはくすんだ白髪が交じり始めている。彼は相手の様子を伺うように、ちらりと淀んだ瞳を動かした。
飯田杜夫、38歳。ブライダル専門の写真撮影会社、「株式会社きらめきメモリアル」の部長である。黒々とした瞳の中には、厳しさと冷酷さ、そしてほんのわずかな慈愛が浮かんでいる。彼は浅黒い腕を組んだまま、石のように動かない。彼の目線は、正面に据え置かれたテレビモニターに向けられていた。
映っているのは、十字架の前で口づけする新郎新婦のありふれたブライダル写真である。飯田はそれを、ゴキブリの死骸でも見るような目つきで、じっと見つめ続けていた。もうずいぶん長いこと、二人はこうして黙っている。
飯田がようやく口を開いたのは、窓の向こうで、ミンミンゼミが一斉に黙った時だった。彼は優しい口ぶりでこう始めた。
「あのねえ骨皮さん…」
「はあ」骨皮は、首を絞められた鵞鳥のような声で返事をした。
「これはこの前の日曜日、あなたが撮った写真ということで、間違いありませんか?」
「はあ、そのようです」
「こんなことを、アルバイトのあなたに聞くのはおかしいかもしれませんけど」
「はあ」
「これは一体なんなんです?」
飯田は手元の赤いポインターで、写真の一部分を指し示した。新郎新婦の奥、十字架の真下あたりに、血みどろの老婆が立ち、幸福そうな新郎新婦を、恨めしそうに見つめている。
「それはですね」骨皮は見もせずに答えた。「浮遊霊だと思います」
その声には、もう飽き飽きしたというような、倦怠感が込められていた。
「骨皮さん」
「はあ」
「あなた、平日のお仕事、なんでしたっけ?」
「雑誌カメラマンです」
「どういった種類の?」
「まあ、その、心霊関係と言いますか」
いいよどむ骨皮。
飯田は湧き上がる怒りに小鼻をヒクヒクさせる。
「それはあれですか、霊感が強いとか、そういうことでやってらっしゃるんですか」
「まあ、そういうことになります」
「それであれですか、そういうお仕事をしている貴方が撮ると、こういうものが写りこむと、そういうことですか」
「いえ、それは状況によります。ですがこの場合は」骨皮はほんの一瞬、ためらう素振りを見せた。「お二人のどちらかについていたのかと」
「じゃあなんですか、お客様の大事な写真に、こんな物騒なものが映り込んだのは、あなたの責任ではなく、あくまでお客様自身の責任であると、そういうことですか」
「いえ、こういうのは、一概には言えないものでして」骨皮は言葉を探した。だが彼の思いに反して、彼の言葉は滑らかだった。「確かに、僕が撮ることで、可能性が高まったということはありますでしょうね」
「どうして」飯田は怒りを飲み込むのに必死なようだった。「何でそんな人がブライダルカメラマンに応募してきたんですか?」
「ですから、面接の時にも言いましたけれど、普段の仕事の浄化と言いますか、人を幸せにする仕事に就きたくて…」
「幸せですか?幽霊を写り込ませることが?」
「いえ、ですからそれは運良くー」
「運良く、ですって?」
骨皮は背筋を正して咳払いした。
「あの、これも僕、面接の時に言いましたけれど」その声色には幾分、反撃の調子が含まれていた。「もしかしたら、写っちゃいけないものが、写るかもしれませんけどって」
飯田は首をコキコキ鳴らしながら考えた。
そうだ、この男は確かに面接の時、そう言った。だが、飯田はそれを、面接の場を盛り上げるための冗談の一つとしてしか捉えていなかったし、骨皮の履歴書に書かれた「雑誌カメラマン」ということについても、特に掘り下げる必要は感じられなかった。それに人手不足の昨今、カメラマンと名のつく職業についていることは、採用条件として、十分すぎるほどだった。たとえ彼が結婚式に似つかわしくない、貧相で陰気な感じの印象を与える見た目であっても。
「いいですか、骨皮さん。弊社はこれを、たまたま映り込んだ、異常なノイズと考えています。だいたい幽霊なんてそんなもの、僕は生まれてこのかたお目にかかったこともないですしー」
飯田はそこで、骨皮がじっと自分の背後を見つめているのに気が付き、言葉を切った。その空虚な視線に、飯田は思わず背筋を震えるのを感じた。
「何見てるんです?」
「あ、いえ何でも…」
飯田はずれてもいないネクタイを直すと、覚悟するように骨皮を見据えた。
「骨皮さん。うちも人手不足なんで、本当はこんなことお願いしたくないんですが」静かな口調だった。「貴方の撮った写真全部にゆうれ…いや、ノイズが写り込んでいます。今も社員全員で写真の修正作業に当たっていますが、今後もこんなことが続くようでは…」
「ええ、わかっています。本当に、ご迷惑をおかけしました」
骨皮が腰を浮かせた瞬間、会議室の扉が勢い良く開いて、女性社員、北山灯が飛び込んできた。彼女は骨皮の姿を認めるや否や、つんざくような声でこういった。
「大変です、例の心霊写真のお客様がー」
「ノイズと言いなさい」
飯田の注意に、北山は慌てて言いなおす。
「あ、その、ノイズのお客様なんですけど。手違いで、修正前の写真データをお渡ししちゃって」
「それで?」
「それで、その…写真を撮影した本人に、直接会って話がしたいそうなんです」
「なるほど」飯田は骨川の目をそこでようやく正面から見据えた。「すぐにでも行くと伝えてくれ」
骨皮は小さく縮こまって目を伏せた。