プロローグ
初の三人称に挑戦。
「いったいどこなのよ、ここはぁあああー!?」
そんな行動に意味がないとわかっていても、織田美咲は叫ばすにはいられなかった。
周囲360度を太い木々や背の高い草や薮で囲まれた深い森のなか、白のブラウスに紺色のスカートというアウトドアには絶対に向かないだろう学校の制服で歩く彼女が、絶賛遭難中だったからだ。
なんでそんな格好で森のなかに入ってんだよ?
なんで帰り道がわからなくなってんだよ?
という当然の疑問には、彼女は全く悪くないと断言できる。
7月18日。
そう、7月18日の夕方。自宅に程近い場所に存在する私立の高校に通う、女子高校生、織田 美咲は、明後日から夏休みだーっ! などと一緒に帰っていた友人たちと、少し早いが夏休みの計画について盛り上がりながら帰り道である住宅街を歩いていた。
――はずだった。
友人たちと泊まりがけで行く旅行や、今年は水着買い換えないとだめかなー、などと話していたはずだったのに、気がついてみると、どういうわけか周囲を森で囲まれていたのだ。
住宅街から一瞬で森の中という状況に、反射的に叫んでしまった彼女は悪くないはず。
誰だって突然歩いていた場所が変われば驚く。
比較的普通の女子高校生である美咲に驚くなというほうが無理だ。
「なに、ここ? ほんとに……、どこなのよ? 亜美……、芽衣……っ」
先ほどまで一緒に帰っていた友人たちの名前を呼んでみるが、返事は返ってこない。
周囲は本当に深い森があるだけだった。
木々の先に目をやっても、同じような森が続いて終わりが見えなかった。おそらく木をよじ登って上から見ても同じだろう。……どちらにしろ運動能力がそこまで高くない美咲には無理なことだが。
「誰か、いないのぉ?」
声の震えが抑えられない美咲。
周りに誰も居ないとわかっていても、声を出さずにはいられなかった。
「なんで、私……、こんなところにいるのよ?」
確かに自分はさっきまで帰り道である住宅街を歩いていた。それに間違いはないはずなのだ。先ほどまでどこを歩いていたのかという記憶もあるし、友人たちと交わしていた会話の内容もはっきり覚えている。
(……突然意識を飛ばされて、どこか連れ去られた、とか?)
そんなはずないよね? そう思って美咲は腕時計を見て時間を確認する。両方の針が刺していた時間は4時22分。住宅街を歩いていたときに、1回確認してから5分ほどしか経っていなかった。
先ほどまで美咲が歩いていた住宅街で気絶させて、周囲の360度全てを囲むほど深い森まで移動させたとなると、車でも10分以上はかるくかかる。
(それに、私なんか誘拐しても普通のサラリーマン家庭だから身代金とか期待できないだろうし、誘拐するならもっとお金持ちのお嬢さまを狙うよね……。実際にお金持ちで有名な子とかいるんだし)
気絶させられてから森のなかに連れて来られた場合を考えると、立ったまま、それも学生鞄を肩にかけたままでいることは、いくらなんでもおかしい。
そもそもひとり連れて来て置き去りにするメリットがないだろう。個人的な復讐とかなら別だけど、そこまで恨みを買った覚えなど美咲にはない。
「ま、まさか……」
ここで、美咲の脳裏に嫌な予感と、ある言葉が浮ぶ。
「いや、でも……、いくらなんでもありえないよね?」
ゲームやライトノベル小説、アニメなどではよくあること。現実ではまずないだろうこと。
少しオタクの入った美咲が、今1番好きなジャンルであるファンタジーでよくある出来事。
しかし、そのことを認めてしまっては、何かが終わる気がして、認められない。
美咲は現実逃避をするように、再び周囲に視線を向けた。
360度、どこを見渡してみても、やっぱりどこまでも続く深い森のなか。木や背の高い草などが永遠とどこまでも続いていた。
当然、どこにも人の気配などなく、聞えてくる音も葉っぱの揺れる音や、鳥の鳴き声だけ。
はい。深い森のなかでたったひとり、遭難してます。
うわあああ……、っと目の前の厳しい現実に、美咲はすぐにでも地面に座り込んで膝を抱えたい気分になる。
そのまま不貞寝でもしてー、次に起きたら全部夢だったー。
あははははー。
…………。
……そうであれば、どんなにいいだろうか。
だけど、それはまずあり得ない。
夢にしてはあまりにも現実味を帯びすぎている。
髪を揺らす風、地面の感触、空気の湿気、森から香る匂い、聞えてくる音。
あまりにも感じられすぎる。
この場で実際に美咲が寝たとしても、何も変わらない。むしろ、状況が悪くなることなど、安易に予想できた。
なら、どうすればいいのか?
美咲は肩にかけてる茶色の学生鞄のヒモをかけなおし、思考を巡らせる。
最近読んでいる本の主人公ならどうしたのか?
自分と同じような状況の主人公がいたはずだと思い出し、決める。
「と、とりあえず。この森から出て、街か、村を探さないと……」
とにかく森から出ないと。
とにかく人と出会いたい。
この2つの思いから浮んだ選択肢と、本の(ファンタジー系)というイマイチ頼りにならない知識を元に、美咲は行動を開始する。
どこへ続く道か、どの方向、方角へ向かっているかすらわからないが、森の終わりを、人がいるであろう街や村へと続く道を探して、森の中を歩き始めた。
(わ、私が物語の主人公だった場合、誰かと会うはずだよね?)
と、小さな希望を胸に秘めて。
◆
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
かれこれ歩き始めること、1時間。
美咲の疲労はすでにピークと達していた。
「はぁはぁ……、まさか、山歩きが、こんなにキツい、なんて……」
溜まらず側にあった木にもたれかかる。ハンカチで汗を拭き取り、鞄のなかに入っていたお茶のペットボトルを取り出す。
貴重な水分。飲むのは少量だが、それでも一時的に喉が潤う。
「はぁ……、はぁ……」
ペットボトルのキャップを硬く絞めて、大事に鞄のなかへと仕舞い込む。
「何キロぐらい、歩いたんだろう……?」
息を整えつつ、進行方向の先を眺めてみるが、そこには相変わらず深い森が続いていた。
「はぁ……」
美咲は重いため息と共に肩を落とすが、立ち止まってはいられない。
だんだん周囲が暗くなっているのだ。
おそらく、もうすぐしたら日が落ちて夜になる。
夜になれば、もっと危険が増すことなんて目に見えていた。マッチもライターもなく、火すら熾せないこの状況で、野宿という選択肢なんて美咲にはありえない。
「早く……、人を見つけないと……」
美咲は疲れた体にムチを打って再び歩き始める。どこへ続いているかすらもわからない、道ですらない道を、希望を探して……、いい加減誰か助けに来いよ、と心の中で悪態をつきながら。
――そんな、再び歩き始めてすぐのことだ。
歩いていた方向とは別の方向から物音が聞えてきた。
ガサッ、という風ではなく、何かが草を揺らした大きな音。
そして、明らかに動物だとわかる鳴き声が聞えてきたのだ。
「…………」
美咲の体を流れる汗が、冷たいものへと変わる。
「な、なに……?」
わかっている。頭のどこかではわかっていたが、物音を確認するために、美咲は物音が聞えてきた方向へと、お粗末ながらも足音を消して静かに近づいていく。
木の陰に体を隠して、頭だけ出して恐る恐る覗いてみる。
「――っ!」
視界に広がった光景に、美咲は絶句した。
覗いた先にあった光景。
それは、美咲の思考を停止させるに充分の光景だった。
獣が獣を仕留めて食べる。
それだけだったら、美咲も思考まで停止させない。聞えた物音は、おそらく動物のものだろうと予測していた。予測していた事態だったなら、美咲でもすぐに逃げるという選択肢を浮べて行動に移った。
しかし、現在美咲の視界に映っているのは、獣が獣を仕留めて食べるシーンであることに間違いないが、体長2メートル以上はゆうに超えているだろう灰色の毛並みした狼が、3メートルはあるだろう猪のような化け物を食べているシーンだったのだ。
「ガッ、ハグッ、ハッハッ、ガッ……」
すでに血で汚れている牙を猪の体に突き立て、強靭な顎の力でブチブチと皮や肉を食い千切り、次々と腹の中へと納めていく狼。
仕留めてからさほど時間が経っていないのか、狼が強引に肉を千切るたびに、猪の体から鮮血が辺りに蒔き散っていた。
「…………」
その光景に、美咲は何もできずに呆然と立ち尽くす。
これがテレビやパソコンなどの画面越しだったのであれば、美咲もここまでショックを受けやしない。所詮画面越しと、自分には関係がないとわかっているのだから。
だけど、今起こっていることは、美咲の目の前で現実に起こっていることなのだ。
自然と体から力が抜けて、地面へ座り込んでしまう。
座り込んで、地面の冷たさを感じて初めて、意識が戻る。
戻ってすぐに頭のなかで『ここは危険だ』という警鐘がうるさく鳴り響いた。
(――っ。こ、こうしてる場合じゃないっ! に、逃げないと!)
急いでこの場を離れようと、地面に両手をつき、膝に力を入れて立ち上がろうとするが、
(ち、力が入らない!?)
後ろに倒れてしまう。
お尻を打つかたちで倒れた美咲だったが、痛がっている暇などなかった。
「ガウッ!」
倒れたときの音が原因だろう、猪を喰らうことに夢中だった狼が、美咲の存在に気づいたのだ。
背の高い雑草を越えて、金色の瞳が真っ直ぐ美咲へと向られる。
新しい獲物を見つけたといわんばかりに、血で汚れた口を舌なめずりする狼。
「――ヒッ!」
美咲はその鋭い視線と鮮血で汚れた狼の顔に、声にならない悲鳴を上げた。
生まれて初めて、死の気配を強く意識させられる。
すぐ近くまで迫った死神の鎌に、なす術なく硬直して震えていると、狼が前足で枝を踏んだ。
――バキッ。
枝が折れる音。
「――っ!」
小さな音だったが、美咲の意識を覚醒させるには充分だった。
美咲は生存本能に従い、力の入らない体を無理矢理動かし、無防備にも背中を向けて、這うように狼から逃げだした。
(怖いっ、怖い怖い怖い怖いっ! 早く、早く逃げないと!)
恐怖に駆られ、なりふり構っていられないと枝や草で、体に無数の傷を作りながらも美咲は走る。
痛みなど忘れて、疲れなど忘れて、必死に狼から距離を置こうと、美咲はがむしゃらに走り続けた。
◆
近くの木にもたれかかりながらも、歩きを止めない美咲。
全身ボロボロで、疲労困憊と酷い有様の彼女だが、幸い先ほど出会った狼から逃げられたようだ。
がむしゃらに逃げ回ったことがよかったのか、猪をまだ食べている途中だったからよかったのか。……おそらく後者だろうが、狼なんてもうどうでもよかった。
それよりも今は狼よりも優先すべきことがある。
「はぁはぁ……、本当に、早く、街か、村を見つけないと……」
辺りはすっかり暗くなり、とうとう恐れていた夜になっていたからだ。
光源は僅かに差し込んでくる月明かりのみで、先だけでなく、周りすらもよく見えない。
おまけに美咲の体は、肉体的にも、精神的にもすでに限界に達している。
そんな状況で、先ほどの狼や猪に襲われてしまったら、逃げる暇もなく簡単に殺されてしまう。
安心できる寝床の確保。それこそが、美咲が今一番に優先すべきことだった。
美咲が人里を求めて歩いていると、月明かりが周りよりも多く差し込む明るい場所を発見した。
木の生える間隔が広い、少し拓けた場所だった。
美咲はそこで少し休憩しようと、近くの木にもたれかかる。座りはしない。立ち上がれなくなってしまうかも知れないから。
「はぁはぁ……、はぁはぁ……」
荒くなっている息をゆっくり整える。
強い喉の渇きに鞄へと手を伸ばして、
「あっ……」
気づく。
鞄がないことに。
「ウソ!? なんで……?」
どこに落とした? いつ落とした?
それすらもわからなかった。
狼から逃げることに必死で、今の今まで鞄をなくしたことに気づかなかった。
もはやこの闇のなかで、どこを走っていたかすらわからないなかで、鞄を探すことなど不可能だった。鞄は諦めるしかない。
諦めるしかないと理解できたが、諦めるにはあまりにも惜しかった。
鞄にはお茶だけでなく、ケータイが入っていたのだ。
森を抜けて電波が入ることがあれば、家族や誰かに連絡が取れたかもしれないのに。
画面を光源として使えたかも知れないのに。
なくしてしまった。
「ほんとに、どうすれば、いいんだろ……?」
休憩したことで緩んだ緊張と、鞄の消失。
急に脆くなった心に不安が襲い、美咲は涙を流す。
もはや物語でよくある『ご都合』なんて希望は信じてなかった。
元々そんなに都合よく助けてくれるイケメン王子さまや、眠っていた力が突然目覚めるなんて、現実に起こるはずがなかったのだ。
全て、自分の力でどうにかするしかない。
頼れるのは自分だけ。
痛いほどそのことを痛感していたとき、ふと夜空を見上げたときだった。
木々の間から見える夜空に、飛行している物体を見つけた。
地上から見えるのはシルエットだけだが、首が異様に長く、コウモリのような翼と、長い尻尾が見えた。
「まさか……、ドラゴン?」
そんなはず……。
そんなはずはないと、もう一度空を見上げてみる。
見上げた夜空を飛んでいたのは、確かにファンタジーの世界によく生息してるあのドラゴンだった。
「いやいやいやいや……、そんなことあるはずが……」
見間違えだと、手で目を擦ってもう一度よく見直す美咲。
ウソだよね? ありえないよね? そう思いながら夜空を見上げると、ドラゴンさんはご丁寧に見間違えではないよー、と夜空に向けて火炎放射器のような炎を吐いてくれた。
「あは……、あはははは……」
アニメや映画でよくあるシーンを、まさか現実で、実際に見ることになるなんて……。
自然と口から乾いた笑い声が漏れた。
夜空をゆうゆうと飛び回るドラゴンを写した瞳から、頬へと伝う一滴の涙と共に、美咲は悟る。
「やっぱり、地球じゃなかったんだ……」
最初から予想していたが、あり得ないだろうと今まで否定していた現実。
ありえないサイズと毛並みの色をした狼や猪を見ても、最後まで否定していた現実。
自分の今いる場所が、自分が知っている地域、国、星でもなく、全く異なる異世界であるという事実を……、現実を織田美咲はようやく受け入れた。
「異世界トリップ……。しかも、森のなかでひとり遭難状態……、鬼畜過ぎるわよぉ……」
彼女のそんな小さなつぶやきは、森の音にかき消された。