君に捧ぐ永遠の恋歌 2
前回に引き続き、七五調のリズムと勢いで読んでもらえると嬉しいです。
彼と引き合わされたのは、静かに雪の降りしきる、寒い寒い午後のこと。
「お前の兄になる子だ。仲良くしなさい」
有無を言わさぬ口吻の父から紹介されたのは、鋭く暗い瞳を持った粗末な身形の少年だった。
不自然なほど痩せこけて顔色悪くくすんでいるが、顔立ち自体は整って微かに父の面影映す。
なるほどコレが噂の子供か。
興味本位で眺めてみれば、強い憎しみ込めた眼がアランを睨み、威嚇した。
侯爵家公然の秘密に父の過去がある。
まだ若かりし父と侍女。身分違いの恋愛を引き裂いたのは母だった。
王女であったオリビエが侯爵子息に一目で恋し、国王夫妻に泣きついた。
自分に甘い兄まで巻き込み、トントン拍子で降嫁が決まる。
もちろん侯爵家としては断ることなどあるはずがなく、父と侍女だけ取り残し、結婚準備に余念がない。
平民上がりの侍女なれば、妾はまだしも側室にするにはいささか身分が足りぬ。
ましては王女に望まれて、異例の婚姻果たした身。すぐすぐ情人囲うなど出来るはずなく途方に暮れる。
父の苦悩に心を痛め、侍女は身を引き屋敷を辞した。
その健気さに胸打たれ、父の心の片隅は件の侍女で占められて、事あるごとに遠き目で見えない姿を追いかけた。
惚れてようやく手に入れた男の気持ちが誰の上、あるのか気付かぬ女はいない。
次第に夫婦仲は冷め、悲しむ母の身体は弱り、息子が三つになった年、流行り病で旅立った。
それでも父は父なりに母を愛していたらしく、後妻の話がチラホラとあっても断り続けてた。
幼き頃より賢きアラン。侯爵家の後継に相応しい資質だと、皆から褒められ気を良くし、今更ながらに亡き妻の愛情静かに身に沁みる。
運命とは皮肉なもので、アランの十の誕生日、間近に控えた朝だった。
風の噂でかつての恋人、その消息が舞い込んだ。
封じたはずの恋情が父の胸を焦がし出し、逸る心を弾ませて馬を走らせ駆けつけた。
そこで目にした光景に父は声上げ涙する。
みすぼらしいあばら屋の、粗末なベッドに横たわる骸に縋りつき泣くは、自分と同じ髪をした幼い子供唯一人。
罪悪感と後悔に溺れた父の決断は、子供を引き取り貴族にし、与えられずに失った幸せ代わりに与えたい。
ぎらつく瞳と窪んだ眼窩、黒き髪した幼子は、おそらくアランの腹違い。僅かに負ける身長で、あちらが兄だと思われる。
しかし娘を失った王家の心情察すれば、この子が件の侍女の子と主張するのも角が立つ。
ならば身寄りのない孤児という名目で引き取って、手元に置くより他にない。
誰が見ても親子だと判るが誰もが知らぬふり。されど暗黙の了解で表立っては問わずとも、人の口には戸は立てられず噂はみるみる広がった。
当然アランの耳にも入り、いつ会うのだろうと待っていた。
「僕はアラン。アランディアス。君は?」
にこりと笑んでアランが問うと、子供はキッと睨んではふいと顔を横向けた。
わかりやすい嫌悪の情にアランは内心呆れ果て、キョトンとした目をぱちりと閉じた。
「この子はマース……ガロア、マースガロアだ」
「俺はそんな名前じゃないっ!」
「いや、マースガロアだ。お前も貴族になったからには、貴族としての名前を持たなければならない」
「……くそったれが」
「マースガロア、これからそんな下品な言葉は使うな。お前にはまず貴族としての礼儀作法やしきたりを学ばせる必要があるな。明日から家庭教師をつけよう」
唇噛み締め拳を握り、俯きながらも頷いたマースを眺めて満足そうに、父は目元を緩ませた。
「アランディアス。お前もこれからはマースガロアと共に励むんだぞ」
「はい、父上。……義兄上とお呼びしても?」
「……ああ、そうだな」
義兄と呼んでみせたとき、マースの顔が驚きと微かな愉悦に染まるのを、アランは確かに視界に捉えた。同腹だろうと別腹だろうと音にすれば「あに」は「あに」。そこにどんな裏の意味含ませても同じ音。
歳に違えて聡明で、神童などと言われてるアランはチラと父を見て、心の中で罵倒した。
今の今まで父のこと、尊敬せずともそれなりに認めていたがこの時で、評価は無惨に地に落ちた。
いくらかつての恋人が密かに自分の子を産んで、ひっそり育てていたからと言って引き取る阿呆はいない。
娘ならばまだマシで、婚姻結ぶ駒になる。
しかし息子で長子となれば、跡目争い避けられぬ。
もちろん王家の後ろ盾あるアランが有利だろう。
それでもマースの資質によるが、侯爵家の衰退を望む貴族の陰謀で、争い焚き付け問題を起こす契機になるやもしれぬ。
それが判らぬ父ではないと信じたいがいかんせん、マースを見る顔その声がお花畑を抱えてる。
悲恋に酔うたか自己陶酔か。
父の心境知りたくないが、これから嫌でも訪れる面倒事に気が重くなるのを感じて溜め息を、零したアランは眉寄せた。
別にアランは侯爵の家督に固執していない。
アランが望むは美しい幼なじみの少女のみ。公爵令嬢シャラメリア、彼女の隣に並ぶため、侯爵という家柄でライバル達を威嚇して牽制するに都合が良い。
しかし己の才覚ならば、家督を継ごうと継ぐまいと、選ばれる自信は多分にある。
賢く利発なシャラのこと。平民育ちのマースがたとえ後継となっても今までと、なんら変わることない。しょせん下賤の血の混じる男へ嫁ぐはずもない。
アランの予想そのままに、侯爵家の養子の話は社交界を賑わせた。
ある者は嘲笑で、またある者は心配そうに噂に花を咲かせては、寄せては返す波に似たさざめき途切れることはない。
「あの子供はどうしてるんだ?」
「義兄上のことですか?」
「っ、あんな下賤な子供がお前の兄であるはずなかろう!」
バンとテーブル叩きつけ、不快も露わに吐き捨てた伯父にびくりとおののいて、アランは小さく謝罪した。
「申し訳ありません、伯父上。……マースはしばらくは屋敷で勉強させると父上はおっしゃっていました」
「ああ、アラン。すまない。お前に怒ったわけではないんだ。ただ、妹があまりにも不憫でな。侍女風情の子が我が妹の子を差し置いて長子などと」
はぁと深い息を吐き肩を落とした相手こそ、アランの母と同腹の兄の国王陛下であった。
数年前に前王が病で倒れた跡を継ぎ、善政しいてこの国を豊かに平和に治めている。
溺愛していた妹の忘れ形見のアランをいつも可愛がってくれており、時折お茶に招かれた。
おそらく近い内にでも、お招きあると踏んでると、やはり噂を聞きつけて迎えを寄越して連れてきた。
母によく似た柔らかな金の髪と碧眼を、こよなく愛して慈しむ姿は誰もが知っている。
しかしそれでも一国を率いる立場は忘れない。
アランと変わらぬ年頃の王太子は隣国の高貴な姫が母である。永き和睦の証のために、二国の血を引く王子らにこの国率いてもらいたい。側近達にも釘を刺し、無用な争い避けている。
どんなにアランを可愛がり甘やかしてはいるものの、きちんと分別持つ伯父をアランは尊敬抱いていた。
「伯父上、きっと父にも何か考えがあるのでしょう。マースが侯爵家を継ぐ才覚もない者ならば、たとえ長子だとしても路傍の石のようなものですから」
「そう、だな。侯爵は少々熱病に浮かされやすい質だ。そのうち、貴族と平民では生まれ持った才が違うということに気がつくだろう」
「はい」
半ば本気でそう思い、アランは強く頷いた。
マースはしょせん平民で、貴族社会に馴染めずにやがて屋敷を出るだろう。
たとえアランと半分の血が繋がった兄だとしても、国王陛下の更なる不興、被る気概は父にはない。
実子と父が認めぬならば、マースの立場は養子のままで、誰もがそうと扱うだけだ。
「そう言えば、シャラメリアの具合はどうだったのだ? 見舞いに行ったのであろう?」
お茶を一口飲みながら、陛下はニヤリと問い掛けた。
「はい。熱は下がったようですが……」
「何か問題があったのか?」
「いえ、熱が高かったせいか少し取り乱していたらしく、会わせてもらえませんでした」
シャラが熱を出したのは先の週の半ばのこと。
公爵夫人の話によれば、高熱続きうなされて混乱きわめて激しい様子。
しばらくそっとしておいて欲しいと頼まれ帰された。
シャラメリアは公爵家自慢の末の娘なり。姉はそれぞれ隣国の王子と貴族へ嫁いでる。
蝶よ花よと育てられ多少我儘あるものの、シャラの可愛いらしさは既に貴族社会の常識で。まだ十にも満たない内から、ひっきりなしに婚約の話があると聞いていた。
手元に置きたい公爵の意向に叶う家柄と素養を高く評されて、先日公爵直々に声を掛けられ頷いた。
まだ正式の話じゃないが、社交界に出る前に婚約すると思われる。
シャラと初めて会ったとき、一目で心を奪われた。
幼いながらも貴族の姫君。
美しくて高慢で、世間知らずであどけない。
差し出すアランの手を取ったシャラの華奢な手忘れない。
口では高飛車装うが、微かに伝わる震えた感触。瞳の奥の怯えと期待にアランはすっかり射抜かれた。
「もうすぐ建国祭だ。それまでには良くなると良いな」
「はい」
「『白き乙女』の衣装を着たシャラメリアはさぞ愛らしいだろうな。我が妹もそれはそれは可憐で美しかったぞ」
「ええ。皆様からそう聞いております。確か王女殿下も『白き乙女』として出られるんですよね? 建国祭が楽しみですね」
「いや。今年は平民の娘が選ばれたらしいからな。王女の出番は取り止めた」
「平民の娘?」
来月に控えた建国祭。今年は十年ごとにある大祭のために常よりも盛大な祭りとなるだろう。
建国祭には欠かせない、女神に祈りを捧げる儀式。その大役はいつの日も高貴な姫と決まってた。
「ああ。どうやら神官に女神から神託があったらしい。念のため星回りを観てみると『白き乙女』となるに十分だそうだ」
「女神からの神託ですか。珍しいですね」
「そうだな。神官達は『神に選ばれし乙女』と興奮しているぞ」
「へぇ。どんな子なんですか?」
「商人の娘だそうだ。リュスの街で珍しい菓子を扱っているようだ。最近王都に越してきたのだが、そこそこ人気があるようだぞ。王妃も王女も店の名前を知っていたからな」
「女性はお菓子には目がないですからね。でも、そんなに人気ならシャラへ届けさせようかな」
「それは喜ぶだろうな」
甘いお菓子を食べてるシャラは、きらりと瞳を輝かせ薄桃色の唇に満足そうな笑み乗せる。
その無邪気さに見た者も思わず口元綻ばす。
巷で人気の菓子ならばきっとシャラも気に入るはずと、幸せそうな顔思い、アランは頬を緩ませた。
マーリの花の咲く頃が、建国祭の時期である。
女神の慈愛と言われてる淡い紅色そこここに、王都を彩り美しい景色が心を浮き立てる。
仄かに花の香の混じる、数多の屋台の掛け声と匂いに引き寄せられるよう、通りは人波溢れてる。
女神を祀る神殿も、ひっきりなしに参拝の信者の姿が見られてた。
そのざわめきも届かぬ奥で、5人の乙女が純白の衣装を纏い緊張の面持ち貼り付けそわそわと、儀式の時を待っていた。
しかしその内1人の少女、他の者とは様子が違う。
ぽつんと4人と離れた場所で手の平きつく握り締め、俯き肩を震わせる少女は異例の平民で、名前をリリィと言っていた。
確かに緊張見られるが、リリィは時折口元に、笑み乗せ瞳はキラキラと喜色に煌めき興奮を隠し切れずに揺れている。
「……やはり平民は図太いですわねぇ」
ちらりと隅に目をやって溜め息混じりに呟くは、長い青髪結い上げた男爵令嬢アスタリア。複雑かつ丁寧に結われた髪型よく似合い、所々に散らしたマーリが更に可憐さ引き立てる。
「わたくし、緊張で昨日はよく眠れなかったんですわ」
「ええ、わたくしも。『純白の乙女』に選ばれるなんて、とても光栄で畏れ多くて」
「しかも大祭ですものねぇ。ちゃんと舞えるか心配ですわ」
アスタリアに頷くは、伯爵令嬢レイルトア。それに子爵令嬢のサランティスが同意した。レイルトアは耳横にサランティスは項の部分に、マーリの小房を挿している。
お喋り好きの少女達。一度言葉がこぼれると話が止まるはずがない。ピピピチチチと姦しく小鳥の囀り思わせる。
「ご覧になって? あのだらしのない顔。あの子のせいで王女殿下が辞退なさったのに、申し訳ないとも思わないのかしら?」
「仕方ありませんわ。しょせん平民ですもの。この儀式の大切さを理解してらっしゃらないのですわ。本当にどうしてあんな子が……」
「なんでも、お家は商人だとか。神託を受けた神官とも親しいそうですわよ」
「まあ。それではまさか」
「その話、わたくしも聞いたことがありますわ」
「皆様、お喋りはそろそろおしまいになさいませんか? せっかくの紅が落ちてしまいますわ」
不快も露わな3人に優しい声が掛けられた。
マーリの束を編み込んだ白金色の長い髪、澄んだ湖面の翠眼が穏やかさを与えてる。ほっそりとして折れそうに華奢な手足や腰つきが、清楚な容姿も相まって強い庇護欲掻き立てた。
高位貴族の姫君によくある性格そのままに、気位高く我儘と噂されてた彼女だが、先日病に臥してから性格言動がらりと変わり、物静かで控え目な淑女になったと言われてる。
始めは周囲も戸惑って、今度は何の遊びだと腫れ物触るかのように戦々恐々接していたが、時折そっと肩落とし寂しさ吐息に滲ませる姿に胸を詰まらせた。
元々比類なき美貌、更に家柄飛び抜けた彼女の取り巻き多かれど、打算と欲を胸の内住まわす者が大半で、心通じる相手はいない。
しかし今では友人と呼べる令嬢達もいて、鈴を震わす笑声とはにかむ笑顔や微笑みが、社交界でも話題であった。
「シャラメリア様」
「あら、こんなに指先が冷たくて……。風邪をひいてしまっては大変ですわ」
そっと少女の手に触れて、シャラは顔を曇らせた。部屋の隅に控えてる侍女にすぐさま目配せ合図する。
「お嬢様、こちらでよろしいでしょうか?」
「ええ。ありがとう」
人数分の掛け物を手渡す侍女に頷いて、「あちらの子にも」と微笑んだ。
「まぁ、シャラメリア様。平民なんかにまで優しくされるなんて」
「そこの平民! 公爵家令嬢のシャラメリア様の慈悲に感謝なさい」
「……シャラ、メリア?」
「お前っ! 平民の分際で名を呼び捨てにするとはっ!」
「なんと無礼なっ」
何故か瞳を見開いて、呆けた表情浮かべた少女。ほろりと零れた呟きは貴族の怒りを引き起こす。
すっくとシャラを庇うよう、椅子から立って前に出る少女達に苦笑して、シャラはひらりと手を振った。
「お待ちになって。もうすぐ儀式の時間になりますわ。こんな平民に気を乱されるより、心を鎮めて儀式に備えましょう? ……それにしても、まだ儀式の時間にならないのかしらねぇ?」
「ご、ごめんなさいっ! 私が聞いて来ますっ!」
ひっ、と顔をひきつらせ、少女ががばりと頭を下げた。脱兎のごとく栗色の髪を靡かせ走り出す。
扉に消えるその一瞬、少女の口角にやりと上がり不敵な表情浮かべたことは、幸か不幸か偶然か、誰の目にも映らなかった。
石造りの舞台の上で、5人の乙女が舞い踊る。
髪にマーリの花飾り白き衣を纏いし姿、まさに女神に選ばれた清き乙女にふさわしい。
中でもシャラの優美さは一際目を引き感嘆の、吐息を皆に零れさす。
「……綺麗だ」
設えられた貴賓席。座るは高位貴族のみ。アランは小さく隣から、聞こえた声に視線だけ流して微かに苛立った。
マースが座るは父の横。その意味誰もが理解して、好奇と皮肉と嘲笑の視線がアランに突き刺さる。
唇噛み締め平気な顔で座ってはいるものの、アランは胸を抉られるような痛みに耐えていた。
マースの御披露目あったのは、シャラの病が癒えた後。
隣国貴族の歓迎のもてなしの為の晩餐会。
国王陛下に侯爵が、養子とマースを紹介す。しょせん平民混じりだと誰もが薄く嗤いを浮かべ、冷めた眸で眺めれば、顔を上げたマースを目にして僅かに「これは」とおののいた。
侯爵当主の若い頃、知る者達は驚いた。かつての彼に瓜二つ。更にはどこか野生味を帯びた容姿は秀麗で、貴族の礼も完璧にこなす仕草も素晴らしい。
並み居る令嬢達の関心を、瞬く間に掴み取り、晩餐会の会場の流れはマースへ傾いた。
「シャラ? 気分でも悪くなったのかい? 病み上がりなんだから無理しちゃダメだよ。今から馬車を呼んで送らせるから」
「い、いえ、アラン。わたくしなら平気よっ」
「でも顔が赤いよ」
「えっ、そ、そんなことないわ。ちょっと暑くなって……」
「シャラ?」
赤く染まった頬押さえ、シャラは言葉を詰まらせた。
潤む瞳はちらちらとマースを追って離れない。
初めて目にするシャラの顔。うっとり艶めく表情は恋する少女そのもので、隣に佇むアランのことはおそらく忘れ去っている。
つきりと痛む胸騙し、シャラの顔を覗き込む。
最近シャラが変わったと心配してはいたものの、成人近付く少女なら大人になるのも早いこと、周りの者に諭されて、そんなものかと思ってた。
しかし美貌のシャラである。勝ち気さ我儘なくなれば、ますます求婚する者が増えてアランを悩ませる。
その上シャラのこの姿。
叫びたいほど悔しくて、今すぐシャラを誰の目も、届かぬ場所に閉じ込めたい。
幼い頃から恋焦がれ、シャラに似合う男になろうと密かに決意固めてた。
シャラもアランを憎からず思っていること判ってる。
このまま行けば順調に婚約整うはずだった。
それがまさかのドンデン返し。シャラがマースに恋するなんて、誰が予想出来ただろう。
せめてマースが不出来であれば跡継ぎになどなるはずないが、持つは野心か復讐心か、マースはアランを蹴落としたくて、すべてで張り合い努力した。
優秀なのも父の血か。
マースはぐんぐん飲み込んで、今では剣を得意とし指南役の教師にも、勝つことすらあると言う。もちろん座学も礼節も、教える講師が舌を巻く。
マースを愛する父のこと。
これならばと相貌を崩して褒めるマースへと、家督を譲るかもしれぬ。
国王陛下に頼み込み、シャラとの婚約強引に進める手段も使えるが、両親見てきたアランにしては最も取りたくない手であった。
納得出来ぬ結婚は、お互い不幸にしかならぬ。
いつも自分でない誰か、胸に住まわす相手を想い、悲しい顔で儚げに涙にくれる母親のことは今でも覚えてる。
母が亡くなり再婚をする素振りのない父を、母への愛情ゆえなどと信じた自分を殴りたい。
結局父は母じゃなく、侍女だけ好いていたのだとマースを連れて来たときに、アランははっきり理解した。
もしもシャラが父のよう、マースをずっと忘れずにアランと結婚したならば、光り輝くあの笑顔、二度と浮かべぬことだろう。
「……シャラ。具合が悪くないならマースを紹介しようか?」
「良いの?」
「うん」
断ることを期待してシャラに水を向けたなら、パアッと顔を火照らせてコクコク首肯し喜んだ。
ずきりずきりと鋭い針で突かれたように胸痛み、必死で奥歯を噛み締める。
「マース」
「……なんだ?」
「こちらはグリンカ公爵家のシャラメリア嬢だ」
「お、お初にお目にかかります。グリンカ公爵家三女シャラメリア=トルティエ=グリンカと申します。お見知りおきを」
「マースガルド=セリミア=ロトです。どうかマースとお呼びください、シャラメリア様」
「わっ、わたくしのこともシャラと」
「光栄です」
アランの声に振り向くマースは、始めはムスリと不機嫌な声でアランを睨んでた。しかしアランが連れて来たシャラを紹介した途端、瞳をキラリと光らせてそつない挨拶返してた。
そのままマースは流れるように、シャラをダンスに誘っては、ニヤリとアランに見せ付けてシャラの細腰抱き寄せた。
うっとり蕩ける顔をして、シャラがマースを見つめてる。
凛々しいマースと可憐なシャラのダンスは周囲を魅了した。
平民だったマースのことを、見下す貴族も多かれど、初々しさ醸し出す二人のダンスは微笑ましい。
特に公爵令嬢が平民上がりを気にせずに、恋情滲む表情で優雅に踊っているならば、高位貴族も認めたと、マースを容認し始めた。
「シャラ……」
こちらを見てと念じても、アランの想いは届かない。
溜め息一つ吐き出して、冷たい指先握り込む。
ずっと隣にいた少女。突然遠くへ飛び立った。
好かれていると自惚れて、幸せ続くと夢見てた。
何より大事な宝物。アランの手からすり抜けて、憎いマースに捕まった。
父の愛も長子の座、そしてシャラの心まで、奪われ広がる虚無感に、アランは打ちのめされていた。
甘い匂いを纏わせて、シャラが両手を差し出した。
ピンクのリボンで結ばれた包みが匂いの元だろう。所々に傷付いた細い指が痛々しい。
「アラン、これ食べてくれないかしら?」
「もしかして、これはシャラが作ったの?」
「う、うん。少し焦げてしまったけれど、味は普通だと思いますわ」
ありがとうと受け取って、さっそく摘まんで食べてみる。
多少歪な形だが、サクリと軽い歯応えと甘さ抑えた香ばしさ、充分美味しい焼き菓子にアランは驚きシャラを見た。
「とっても美味しいよ。すごいね」
「本当ですか? ちゃんと美味しく出来てます? ……マースにあげても平気でしょうか?」
「こんなに美味しいんだから、大丈夫だと思うよ」
あぁ、そうか。
アランは落胆する心、隠してシャラを励ました。
今までシャラが自分から、厨房入り焼き菓子を作ったことなど一度もない。そんな彼女が奮起して、誰かに教えを請いながら、慣れぬ道具に四苦八苦しながら作り上げたのだ。
「……ねぇ、シャラ。シャラはマースが好きなの?」
「え? な、何を言ってるの?」
「見てたら判るよ」
「いえ、あの、好きって言うか、あ、憧れてたから」
真っ赤になってもじもじと、不明瞭な言葉を紡ぎ、視線を泳がせ恥じらったシャラはとても愛らしかった。
恋とはこんなに鮮烈に人を変えるものなのか。
「マ、マースに渡してきますわ」
シャラがくるりと踵を返し、逃げるように駆けていく。
マースと出会ったその日から、シャラが日に日に美しくなっていくのが見て取れた。
苦手だった勉強や刺繍も真面目に取り組んで、公爵様も最近はシャラの熱意に絆されて、マースに会いに行くことを黙認しているようだった。
窓の外にはマースとシャラが並んで木陰に佇んで、焼き菓子頬張り笑み浮かべ、楽しそうに喋ってる。
アランに見せたことないシャラの眩しい笑顔、甘い声。
胸に刻んで鍵掛けて、アランはしっかと決意した。
シャラの笑顔を守るため、アランが出来ることがある。おそらくマースもシャラのこと満更でもなく想ってる。
どうせアランの居場所など、もうここには残っていない。
マースの下で補佐として、2人を見守り生きるも良いし、どこか領地を貰い受け、ひっそり暮らすことも良し。
こんなに好きになる人は、シャラ以外に出来はしない。
泣きたくなるほど恋しくて、笑いたいほど愚かしい。激しくうねるこの恋は、子供の熱病なんかではないとアランは知っていた。
手に入れたいのは彼女だけ。
たとえこの先成人し、義務で誰かを娶っても、愛せる自信は欠片もない。
母のように悲しい女性、自分が作るつもりはないと出来れば一生独身で、秘めた想いを貫きたい。
シャラが笑ってくれるなら、そんなに悪い人生じゃないと思って顔上げて、アランは息を吸い込んだ。
どうかシャラを幸せに。
眩しい夏の日差しの中で親密そうに微笑む二人に、アランは一度目を閉じて、勢いつけてカーテン閉めた。
弾みで零れた雫が頬を、伝って音なく落ちていく。
ぐいと拭った腕どけてアランはにこりと笑み乗せて、いつもと変わらぬ足取りで優雅に脚を踏み出した。
胸の奥底鳴り止まぬ恋歌何度も繰り返し、アランは一人、歩き出す。
果てなく暗い茨道。黙々ひとり、歩き出す。