プロローグ
昔の話だ。
ある日、僕は空を飛んだ。
澄み渡るような晴天の中、僕らは空を飛んでいた。
真下に見えるのは馴染みある街だが、この角度からは見たことがなかった。普段通っている学校、いつも寄り道する商店街、たまに家族で遊びに行く遊園地、美人の姉さんがいる友達の家等々。
街の新たな側面に感動を覚えながらも、僕らはグングン上へと飛ぶ。
「ほら、もうすぐじゃ」
すぐ前にいる少女が僕に声をかけた。彼女こそ、僕を空へと誘っている原因であり、憧れの存在。
どうしてこんな状況になっているのか、それを説明するとしたら、
「いい景色を見せてやろう!」
「どうやって?」
「ほれ、ここに箒があるじゃろ? わらわの後ろに並んで跨ってくれ」
「え? なんで」
「いいから」
「オッケー」
多少端折ったがこんな感じだった。
跨ぐ前に確認したが、箒は至って普通の箒。最近の技術で箒には空を飛ぶ機能が付いているのだろうか?
……そんなはずはない。これはそういう科学的な力の結果ではない。
きっと、奇跡なのだ。
「雲を突き抜けるぞ! しっかり掴まっとれ!」
「……っ! 分かった」
ギュッと、目の前の少女の腰に腕を回した。ほんのりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
次の瞬間、空が晴れた。
「……すっげぇ」
「じゃろ?」
僕の方に振り返り、自慢げな顔をする少女。その向こうには、燃えるような輝きを放つ太陽があった。
まるで海のような一面を埋め尽くす雲、薄く透けるような青空、そして太陽。太陽からの光は、雲の海を照らし、キラキラと煌めかせている。僕はこれまで生きてきて、こんなにも美しい風景を見たことがなかった。
「どうじゃ! いい景色だったじゃろ」
少女は嬉しそうな笑みを浮かべながら、僕に話しかけてきた。
僕もつられて笑い、
「ああ! 最高だ!」
そう声を出した。
これが太陽の魔女、ベリーチェが僕に見せた、最後の魔法だった――。
僕、愛羽悠飛はそんな懐かしい思い出に馳せていた。
「すごい景色だったんだ。あんなに心踊ったのは人生で一度だけだったと言っても過言ではないね」
「……はあ」
「そんな僕ももう高校一年生だ。あの景色を見てから十年だよ。いやぁ、時が経つのは早いとはこのことだろうねぇ」
「……」
黙々と手だけは動かしながら、口は流暢に言葉を放つ。
「そりゃ興味も湧くってものだよ。でも残念なことに、この世界の人には不可能なんだって。僕は愕然としたね。あんなに絶望したのも人生で一度だけだろう」
「……」
「そんな僕に、ベリーチェは一つ可能性のある方法を残してくれた」
「……それがこれ?」
「そう! 魔法陣!」
僕は今まで書いていた魔法陣を見せつけた。
今まで一方的に話しかけていたのだが、ここでようやく妹の陽鳴が呆れながら返してくれた。
「……ウチはさ、一度もその……ベリーチェさん? に会ったことがないから分からないんだけどさ」
「うん」
「本当の話なの?」
「なっ!?」
僕は驚きのあまり立ち上がった。両親にあの日のことを話したが信じてもらえなかった。だからまさか実の妹にまで疑われているとは思わなかったのだ。
「十年前っていうと、お兄ちゃん五歳だよね。知能もちゃんと発達してる年齢じゃないし、現実と妄想の区別できてなかったんじゃない? イマジナリーフレンドとかいう、妄想上の友達を作り出しちゃう精神病もあるみたいだし」
「な、なんと」
「お兄ちゃん思い込み激しいところあるでしょ? だからどこかでそういう写真を見て、自分がそういう体験をしたんだと思い込んじゃっているんじゃない?」
「……むむむ!」
「何より証拠がないからさ。ウチも口だけじゃ信じられないっていうか」
唖然とした。つい最近まで鼻水を垂らして庭を走り回り、よだれ垂らしながら家の中を走り回っていた妹が、いつの間にか知識をつけ、頭の良さそうな話し方をするなんて。
そう言えば、最近の陽鳴は随分と可愛くなった。もうすぐ中学生になるから大人びようとしているのだろうか。
……成長したんだな、陽鳴よ。お兄ちゃん嬉しいような悲しいような気持ち。
「ま、信じてもらわなくてもいいよ。僕も信じてもらえるとは思っていないからね」
「開き直ってるね」
「父さんと母さんに信じてもらえなかったところで開き直ることにした」
「なるほどねー」
何気ない会話をしつつ、魔法陣を書き続ける。
この魔法陣というのは、魔法の使えないこの世界の人にとって、魔法が使えるかもしれない一つの可能性だ。
「この魔法陣、どういう効果あるの?」
陽鳴が多少興味ありげな目で尋ねてきた。
僕は一旦作業を止めた。
「指定した対象から魔力を誘導する効果と、周囲に漂う魔力を吸収する効果と、指定した人を特定の場所へ転送する効果かな」
「多っ!」
「仕方ないよ。僕には魔法を扱う魔力なんてないから、どうしても外部から魔力を得る必要があるんだ。そのための魔力誘導と魔力吸収さ。魔力さえあれば転送魔法一つで済むんだけど」
「どこから魔力を誘導するの?」
「異世界さ。ベリーチェのやって来た世界から。ベリーチェの話じゃ、異世界の周囲には魔力が漂っているらしいんだ」
「それを誘導して……どうするの?」
「吸収する。結構吸収できるはずだから、それによって莫大な魔力を必要とする転送魔法が行えるようになるはず」
「ふーん。一応計算されてるんだね」
「そりゃそうよ」
陽鳴は納得したらしく、自分の仕事へ戻った。僕も作業へ戻る。
落ち葉舞い散る紅葉の季節、僕と陽菜は家のリビングで魔法陣を書いていた。
今日は両親が居らず、こうやって堂々と怪しげな作業をリビングにてできるのであった。
陽鳴には魔法陣書きを手伝ってもらっている。簡単なところだけど。
しばらくお互い無言で書いていると、不意に、陽鳴が口を開いた。
「……本当に行くの?」
思わず陽鳴の方に顔を向ける。陽鳴は不安そうな顔をしていた。
「魔法が使えるのは異世界だ。この世界の人でも、異世界ならば魔法が使えるかもしれない可能性がある以上、僕は挑戦したい気持ちを抑えることができない」
「……」
「大丈夫。向こうに行って魔法を堪能したらすぐ帰ってくるよ」
そう言って優しく頭を撫でてあげた。それでも表情は晴れなかったが、
「……分かった」
一応、言葉では理解してくれた。
その日の夜。
ベリーチェが帰った日から十年コツコツと書き続けた魔法陣が無事完成したので、早速試すことにした。
という訳で、家の近くの森へ移動。
「なんで森?」
「ベリーチェは森のあそこからやって来たんだ」
「あそこって……ああ、あの門」
陽鳴の指差す先に、小さな門があった。
鬱蒼と生い茂る森の中に、突如ポッカリと何もない空間が現れる。その中心に、苔の生えた石でできた門が立っていた。高さは二メートルくらいだろうか。
「ベリーチェがこの世界へ来る際、この空間を削って門を作り、道を作ってきたらしい」
「ならその道を使って向こうへ行くってこと?」
「道自体はベリーチェが帰って閉じちゃったから使えないけど、一度ここまで繋がったんだ。その道筋を辿って向こうへ行く」
「できるの?」
「できるように魔法陣を書いた」
「はぁ……」
陽鳴から感嘆の息が漏れる。伊達に十年も費やしてないからね。
「それで、これからどうするの?」
「まず、今まで書いてきた魔法陣を門に貼る。んで、この石を使う」
僕はポケットから小さな石を取り出した。黒く澱んだ色をしている。
「この石はベリーチェが自身の魔力を個体として生み出した物だ。当初は魔力のない僕でも魔法が実現できるようにさせるためだったんだけど」
「できなかった?」
「ああ。魔力が圧倒的に少なかったというか、魔力を上手く流せなかったというか……そんな感じ」
石を門の上に置く。準備はできた。
「魔力少ないのに発動するの?」
「その点は大丈夫。少ない魔力でも流れさえすれば勝手に魔法陣が反応して魔法となるはずだから」
「なんかフラグっぽい」
陽鳴のジトっとした視線を浴びつつ、僕は一冊の本を開く。
「この本見ながら書いたから間違いはない!」
堂々と、自信に満ちた顔で言い放つが、陽鳴は未だ訝しげ。
「魔法大全……だっけ。ベリーチェさんがお兄ちゃんのために書いたっていう」
「うん。ベリーチェが今まで使ってきた、見てきた魔法や魔法陣を記した物さ。僕はそれから模倣して、少しアレンジを加えたんだ」
魔法大全。それは辞典のような一冊の分厚い本である。
ベリーチェが来て、一緒に空を飛び、魔法の存在を知った頃。僕は同じように魔法が使えるか試した。
しかし、結果は残酷なことに使用不可だった。
それ以来僕は魔法ができないことに絶望し、毎日塞ぎ込んでいた。
そんな僕に対してベリーチェは、一冊の本をプレゼントしてくれた。
それが魔法大全。世界に一冊しかない本。異世界にもない特別性。
ベリーチェがこの世界に来た時何も持っていなかったから、きっと一から製作したのだろう。僕のためにせっせと本作りしていたかと思うと、とても忍びない気持ちになる。
あと一緒にベリーチェの魔力を固めた石を貰った。まぁ、当時は使えなかったが。
魔法大全と魔力の石。そして魔法陣。全てベリーチェの残してくれた可能性だ。
僕は目を伏せる陽鳴と向かい合った。
「僕はあの日、偶然この森でベリーチェと出会い、空を飛んだ。今でもあの景色がまぶたに焼き付いている。あれから十年経つけど、この思い……魔法を使ってみたいという思いは消えずに燃えている」
「うん」
「あれから魔法について勉強した。幸いなことにベリーチェが本を残してくれたからね。その本を隅々まで読んだよ。それはもう全部暗記してしまうぐらいにね」
「……うん」
「そしてついに今日、魔法陣が完成した。行けるんだ、魔法のある世界、魔法が使えるかもしれない世界に」
「……」
陽鳴はもう、僕と目を合わせてくれない。それでも僕は、正面の陽鳴へ向かって宣言する。
「だから僕は行くよ。ベリーチェの住む異世界に」
満足した。宣言することで多少あった不安を無理やり押さえ込めることができた。
僕は門の前に立つ。手には魔法大全。暗記しているとは言え、間違いがあったら怖いので。とあるページを開いた。
「『我が力となれ』」
そう呟くように詠唱した。すると、石が反応して輝き出した。
石はただ極小の魔力を零しただけだが、この反応によって、魔法陣は導火線のように次々と連鎖的に機能していく。
次第に、僕の体が光に包まれ始める。
「陽鳴」
ビクッと、僕の言葉に反応した。
「今まで手伝ってくれてありがと。一応早めに帰ってくるつもりだから。あんまり心配しなくていいよ。ああ、あと父さん母さんによろしく言っといて」
「お兄ちゃん!」
陽鳴がようやく、顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「絶対! ぜっっったい! 帰ってきてね!」
「……もちろん!」
意識が朦朧とし、陽鳴の姿がぼやけ始めた。向こうからも僕の姿は光で見えないだろう。
最後に、僕は一言。
「行ってきます!」
プッツリと意識が途絶えた。
……。
…………。
………………。
あ、んん。
僕は目を覚ました。
なんて言うか、すっごく頭の中がモヤモヤしている。何があったんだっけ……?
その時、ふと気が付いた。
「――――」
「――」
目の前に、二人の人が僕の顔を覗き込んでいた。
片方は美しい顔をした女性。モデルでもやっていそうな感じ。もう片方はこれまた端正な顔の男性。優男って言えばいいのか、草食系男子っぽいと言うべきか。
二人とも茶髪で目は碧眼。うーん、観光に来た外人かなー? と思った。
が、よく見るとちょっとおかしなことに気が付く。女性の方が、何故か額に宝石を埋め込んでいるのだ。確かインドの女性が額にアクセサリーを付ける風習があるのは知っているが……これは完全に埋まっている。
それだけではなく男性の方も、よく見ると多少耳が尖っている。あと二人共服装が現代風じゃなくファンタジー風だ。なんだろう。人って感じが――。
「っ!」
気が付いた。思い出した全部。分かったぞ! これはアレだ! そう、成功したんだ転移が!
僕はこのどうしようもなく湧き出てくる喜びを、声に出して叫ぼうと思った。目の前に異世界の住民がいるがお構いなしだ。今だけは。
息を吸い込み――
「あぁぁぁだぁぁぁぁぁっ!(やったぁぁぁぁぁぁぁぁ!)」
……あ? え?
「あぁーぁ、あぁぁぶ(何だこれ? 声がおかしいんだけど)」
こっ、声が出ないだと!
い、いや! 出てはいるんだ。出ては……いるんだけど。声にならない叫びってやつ?
混乱している僕に対して、
「おおっ! 泣いた、泣いたわ!」
「はぁー、安心しました」
と目の前の異世界人ズが喋った。
「静まり返っているからビックリしたわねぇ」
「ですね。何かの病気かと」
「これだけ元気がいいと大丈夫じゃないかしら」
「いやいや、一応町医者に見てもらいましょう」
「相変わらずディーベは神経質ねぇ」
「そういうロベラは大雑把ですよ」
「うふふ」
「ははは」
キャッキャ、ウフフ……。
いやいや! ちょっと状況を説明していただきたいんですが!?
そう言おうと思い、立ち上がろうとした。その瞬間、悟った。
「っ!」
全然力が入らないというか、力の入れ方を体が覚えていない感覚。
そして、目に入ってきた己の体は――
「あぁあ?(あ、赤ちゃん!?)」
まるで生まれたての赤ん坊のような体をしていた。
「あぁぁあ、ぶぅーあ(なんで赤ちゃんになってるの!?)」
そして、そんな僕を無視して話は進む。
「そうだ、名前! 名前はどうするの?」
「ああ、そうですね。ちょっと待って下さい。国王様から直々に頂いた名前があるんです」
「へぇー、なになに?」
ディーベと呼ばれた優男は、ポケットから一枚の茶ばんだ紙を取り出した。そして、
「エーリ。この子は今日からエーリ・アルンティーネです!」
「きゃあ! 素敵な名前ね!」
と宣言した。
待て待てと、僕には愛羽悠飛という名前があってだねと反論しようとした。
その時、不意に思った。
「ばぁぶ?(転送が、失敗した?)」
しかしながら、あの魔法陣は完璧だ。魔法大全に載っている魔法陣を寸分違わぬ形で再現しているし、僕流のアレンジもあくまで誘導効果や吸収効果とかが邪魔し合わないよう調整する程度だったし。間違いがあるとしたら、魔法陣ではなく魔法大全の方になってしまうが……。
そう言えば。過去に魔法大全を貰った時に、ベリーチェが、
「なんか転送と転生って似てない?」
「え? あ、うん。そうだね」
「じゃろ?」
「それがどうしたの?」
「別に。なんでもないのじゃ。はっはっは!」
「……変なの」
なんてことがあった。当時は特に深く考えなかったが。
おいおい、まさか……?
「エーリ……。なんていい響きなの! なんて言うか将来この子は偉大な人物になると思うの」
「おいおい、まだ早くはないですか? そういう期待は」
「いいえ、遅くらいよ。まぁ偉大じゃなくても私が可愛がってあげるからねぇ」
そう言って、僕を抱きかかえたロベラと呼ばれた美女。
考えたくはないが、これはつまり、
「よろしくね、エーリ」
「あぁぶ!(転送じゃなくて転生しちゃったぁ!?)」
こうして、僕、愛羽悠飛――もとい、エーリ・アルンティーネは異世界へ転生したのであった。
……陽鳴、ごめん。お兄ちゃん姿変わっちゃた。あとしばらく帰れないかも。
不定期ですが、頑張ります。