10.8 それが僕の信念。行動理由だからです
俺はいつも通りの日常を送りながら、頭を悩ませていた。
サトーとシオさんの過去を聞いて、ヒーローを諦めるなと言われてから、はや数日。
やるべきことが定まるどころか、余計に抽象的でぼんやりとしてわからなくなった。
「余計なことはせずに、ヒーローは諦めないってなんだろうな……?」
「……なんでしょうね」
下校の途中、今日はお互いに暇だからと公園に立ち寄り、ベンチに座ってのんびりと作戦会議をしている。
結果的には成果らしい成果もなく、ただ本当にのんびりしているだけになってしまった。
「なんだかすみません……椎野さんみたいにビシッといいこと言えたらいいんですけど……」
「気にするなよ。あいつはあいつで、それっぽいこと言ってるだけだから」
「うーん、自分のぽんこつさが嫌になってきましたよ……」
野々宮は肩を落として、脱力したように真下を向いている。
俺としてはこうして一緒に考えてくれるだけでも幾分か気がまぎれる。
一人で抱え込むことなく、塞ぎこまなくていいというのは、ヒーローを続ける上で重要だ。
とても強かったサトーでさえ、孤独でいることにも限度があったのだから。
「とりあえず、自称ヒーローってことでいいのか……?」
「それは……夢を追ってるけど掴めてない○○のタマゴって感じですね」
それは嫌だなぁ、とぼやいていると視界の奥でうごめく異変に気付いた。
嫌悪感を催す黒々とした煙のようなものが、ゆらゆらと揺らめきながら漂っている。
不思議なことに風が吹いても揺れるばかりで消えることはなく、徐々にこちらに近づいているようにも見える。
「……野々宮、あそこ」
「えっ? ……なんですかアレ」
お互いに何も言わずとも立ち上がり、臨戦態勢に入る。
じゅうぶんな距離をとりながら様子をうかがうが、一向に正体がわからない。
周囲の空気が重苦しく、不快感に侵されていくような感覚を肌で感じる。
「いつかの五月病の霧みたいですけど……」
「あれよりももっと黒いな」
「もしかして……あれが"悪意"なのでは――――」
その瞬間、緩慢だった黒い霧状のもやが勢いを増してこちらへ流れ込んだ。
身体を吹き抜ける悪意の風は、どす黒い感情を呼び起こすようにチクチクと心を刺激する。
知らなくてもわかった。アレは――――
「敵だ! あれは敵だ……間違いなく、悪意だ!」
震える野々宮の身体を支えながら、通り過ぎた悪意の霧を見失わないように上を向いた。
黒い霧はおよそ霧には有り得ない方向転換を空中で行い、再び俺たちに迫る。
俺は野々宮を抱き寄せて、右腕に意識を集中させた。
後でどうなろうと知ったことか。
この場でやらなきゃいけないことをやるだけだ。
「来るなっ!」
想いを込めた拳を黒霧に叩きつけ、確かな手応えを感じた。
実体のない相手を殴ることは経験済みだ。
ヒーロー補正がびんびんに発動していることはわかっていたが、止められなかった。
止め方なんて知らないし、止めたらピンチだ。既にピンチだけど。
「あ、ありがとうございますっ」
「安心するのは後だ! ……たぶん、耐え抜けばシオさんが来てくれる」
どうせ今でも監視は続いているはずだし、町中に悪意が出現すれば放っておくはずがない。
問題はどれだけ時間を稼げばいいのかだが、考えたって仕方のないことだ。
「とにかく時間を稼ぐ! 野々宮は俺の後ろに!」
「は、はい!」
幸いなことに黒霧は分裂することなく、引き寄せられるように俺のほうへ向かってくる。
タイミングさえ間違わなければ迎撃することは可能だった。
「それにしても吹っ飛ぶばかりで消えないのか?」
何度もはね返しているものの、一撃、一撃のたびに精神力が削られていくような感じだ。
一向に終わりの兆しが見えない戦いに不安になっていると、後ろで野々宮が呟いた。
「むしろ、段々大きくなっているような……」
野々宮の見解は正しかった。
宙で舞う悪意の黒霧は戻るたびに勢いと質量を増していた。
ヒーロー補正に引き寄せられるのが悪意の特性なら、周囲のかすかな悪意が集合しつつあるのだろう。
このままではジリ貧になるが、ここで退いては悪意が次にどこへ向かうかわからない。
ヒーローを諦めないと言ったからには、そんな無責任なことはしたくない。
そのとき、黒霧が不意に動きを止めた。
「……なんだ」
寄り集まった黒霧が宙で凝縮するように縮んでいき、滲み出すように液体が漏れ始めた。
粘性を帯びた液体は透明感のない漆黒のスライムのようにうねうねと動き出す。
――嫌な予感がした。
「……野々宮、逃げられるか?」
野々宮だけでも、と声をかけるが、振り向いた先には泣きだしそうな野々宮の姿があった。
「それが、動けないんです……」
「なんだって!?」
「援護したいのに身体に力が入らなくて……変身もできません……」
どうやら黒霧に触れられてから身体の自由がきかなくなったようだった。
俺が動けるのはヒーロー補正のおかげだったらしく、これでは野々宮を逃がすことができない。
抱えて走るか、いや、反撃できないところを襲われたら二人まとめてやられる。
俺はすぐに逃げ出さなかったことを後悔した。
シオさんが言ったヒーロー補正を使うリスクを忘れたわけではないが、いざとなったら戦わなければいけないと思っていた。
心の片隅でヒーローらしくあり続けようとしていたのだ。
サトーはそれを望んでくれたが、その結果がこれでは、またサトーを苦しませるだけだ。
俺が出る幕じゃなかった。
その一言に尽きる。
心の折れる音に呼応するかのように、黒い塊がこちらに近づく。
「――そこまでです」
背後から肩を叩かれたかと思うと、振り向く暇もなくシオさんが横を駆け抜けていった。
あっという間に黒塊に接近し、鷲掴みにすると、自らの腹に叩きこんだ。
「うっ……くぅ……」
数秒、苦しげに顔を歪めたが、すぐに息を整え直し、いつもの冷静な瞳に戻る。
あまりのスピード勝負に呆気にとられた俺は何もできず、立ち尽くして呆然とすることしかできなかった。
「……そうだ、野々宮!」
「あ、はは……大丈夫ですよ、少し楽になりましたから」
ハッとして一番に野々宮の状態が気にかかったが、とりあえず無事のようだ。
悪化している気配がないことに安堵し、俺はシオさんの元へと歩み寄る。
「……すみません」
頭を下げる俺をシオさんは冷たい目で見下げていたが、やがて小さく溜息をついた。
「この状況では仕方ないでしょう。
被害が拡大しなかったことと、ここら一体の悪意をまとめて格納できたことをよしとしましょう」
シオさんは野々宮の体調を気遣うように幾つかの質問をした。
漏れ聞こえる会話から察するに、悪意に晒された人間への簡単なチェックらしい。
一通り終わったらしく、野々宮には一時的な体調不全だけで後遺症となるような悪影響はなかった。
「あ、ありがとうございます。助けてくださって」
「それが仕事です。さて……」
シオさんは仕切りなおすように咳払いを一つする。
「まさか、この世界で悪意が可視化されるとは予想外でした。
しかし、あれが悪意の脅威です。簡単に取り除くことはできません」
「……そうだ。さっきシオさんの身体に悪意を取り込んだように見えましたけど、大丈夫なんですか……?」
あんな身体に悪そうなものを身体に入れて問題がないはずがない。
恐らく、それ以外に手段がないからしているのだろうが心配である。
「大丈夫かと言われると、大丈夫ではないのでしょう。
ですが、悪意を確実に管理するには、意識のある生物に格納するほかありません。
弱い動物では耐えられないでしょうし、下手な生き物に悪意を植え付ければ危険です」
確かに自分で抱え込むのが自己管理はしやすいだろうが――
「悪い影響とかは……?」
「あるでしょうね。
実際、僕はあなたに対する嫉妬や暴言を抑えきれていませんから」
「そ、そんなことは……」
「そうですか? それならよかった。
悪意があろうとなかろうと、心の奥底で思っていることは事実ですが」
時折見せる冷たい態度が悪意によるものだとすると、甘んじて受け入れるしかない。
嫉妬の対象がサトーであることは不本意というか腹立たしい部分がなくはないけど。
シオさんは悪影響を認識した上で、悪意の格納役となってくれているようだ。
「新藤くん」
「は、はい」
「今回のことでわかりましたね?
やはりヒーロー補正は危険です。
悪意を引き寄せる上に対処が難しいとなると、発動を抑えるべきでしょう」
言い返す余地はなかった。
助けられておきながら、それでも、なんて希望的観測を口にすることはできない。
「悪意の格納量に関しても限界はあるでしょう。
次が最後かもしれません。
何度だって助けてあげられるわけではないのです」
「……はい」
「一応、僕が暴走したときは……先輩に後始末を頼んでいます」
そんなことにはなってほしくはない。
だからこそ、ヒーローとして戦うことは控えなくてはならない。
「でも、シオさん。また悪意に襲われたら……」
「もちろん、黙ってやられることはありませんが――――ふふっ」
一瞬、シオさんの口元が歪み、口角が持ち上がったように見えた。
「これ以上、このような事態を招きたくないのであれば、二人は距離を置いたほうがいいでしょう」
見間違いではなかった。
シオさんは薄ら笑いを浮かべながら、淡々とした語り口で続けた。
「あなたにとって、彼女は大切な人なのでしょう。
だからこそ、展開は進む。悪意がにじり寄り、ヒーローを呼ぶ声が高まる。
ヒーロー補正がかかる」
とても嫌な気分なのに反論することができない。
そのことが更に不快感を加速させた。
「ヒーロー補正がかかりやすいということは、悪意、いわゆる敵に遭遇しやすい状態です。
守るものがない一人のあいだは、その確率を引き下げることができるはずです」
にやにやと不気味に笑いながら話すシオさんを直視できない。
喉奥に溜まっていく唾が飲み込めず、呼吸さえ覚束なくなりそうだ。
さきほど助けてくれたシオさんがこうなるのは悪意のせいなのだろうか。
心の奥底で、俺のことをせせら笑っているのだろうか――
目の前の悪意に押し潰されそうになったとき、後ろから声がした。
「どうして、笑うんですか」
野々宮がしっかりとした口調で、まっすぐな瞳でたずねた。
シオさんはハッとしたように表情を硬くして、不安げに視線を下げた。
「やはり抑えきれなくなっている……」
ぼそりと呟いた声には、言い知れない悲壮が混じったような気がした。
「失礼しました」
シオさんが頭を下げる。
助けてもらった俺はとやかく言える立場ではない。
大丈夫です、と言うと、シオさんは顔を上げて、小さい声で言った。
「言い訳ですが、僕は悪意に侵されて暴言は吐いたとしても、妄言は吐きません。
すべては事実と根拠に基づいて行動する。
それが僕の信念。行動理由だからです」
小声になりながらも淀みなく語る姿は、己に刻みつけた揺ぎなさを感じた。
その真剣な瞳に、嘘偽りはないと思った。
黙って頷くと、シオさんは少しだけ声を張った。
「あなたたち二人が離れたほうがいいというのも意地悪で提案したことではないのです。
それだけは理解していてください」
「……わかりました」
去ろうとするシオさんの背中がやけに遠く感じて、思わず声をかけた。
「帰るんですか?」
「……ええ、やることは終わりましたから」
当然でしょう、とでも言うような澄ました印象はいつものシオさんだった。
「これ以上、僕に悪意を処理させるようなことにならないことを願います。
……そうでないと、本当にモンスターになってしまいそうです」
シオさんが立ち去った後、野々宮と二人きりで残された俺は困惑した。
このまま一緒にいることで、再び襲われたら今度こそひとたまりもない。
この先ずっと離れていなければならないわけではないが、今はとりあえず離れたほうがいい。
それはわかるのだが――
「あ……」
言葉が出ない。
そんな俺の様子を見ていた野々宮は寂しそうな笑顔で言った。
「今日は、帰ります?」
「……そうだな」
なんだろう、悪意はシオさんが一つ残らず持ち去ってくれたはずなのに。
何かとんでもなく重苦しい置き土産をされてしまったように、身体も思考も鎖で縛られて沈められたような気分だった。




