10.7 ヒーローを諦めないでくれ
本部に帰還するなりサトーは統括官に呼び出され、光沢のある革製のソファで待たされることとなった。
室内には目覚ましい活躍をしたヒーローたちと、歴代の長官がともに映るスライドが流れている。
その中にはサトーの姿もある。ここへ来たのは初めてではなく、サトーは落ち着いていた。
呼び出された理由を知るまでは――
「休暇?」
「そうだ。ここしばらく連戦続きだったろう、いい機会じゃないか」
ヒーロー組織の長である長官は恰幅のいい朗らかな男だ。
戦う力はないが、この即席で特異な組織をまとめ上げるだけの手腕はある。
突拍子のないズレた提案をするような男ではない。
「なんでまた……」
悪意による世界の混乱は暴走の一途を辿っている。
世界の半分が悪意に侵されてもなお抵抗を続けられるのは、ひとえにヒーローたちが抵抗し続けているからだ。
当たり前のような話だが、戦うことをやめれば世界は明日にでも崩壊の兆しを見せるだろう。
サトーは自身の力が必要などと自惚れてはいなかったが、貢献はしているつもりだった。
この状況で戦力を減らす判断は簡単には下せず、納得もできなかった。
「ううむ……実は要請があった。君が次に赴く予定の国から、入国拒否のな……」
どういうことだ、と驚きのあまり声を失うサトーに長官は一枚の紙を取り出す。
「こうして正式な要請として出された以上、我々も君の行動を制限せざるを得ない。
だが、君ほどの戦力をいつまでも遊ばせておくつもりはないぞ。
ははは、休暇は短いものだと思っていてくれ」
「……理由を教えてください」
長官は神妙な面持ちで溜息を吐き、顔の前で手を組み、少し俯いた。
「君は多くの人を助け、多くの国を救ってきた。
しかし、ヒーローとはいえ君も人間だ。
その影に救えなかった人たちがいることは誰でもわかることだ」
問題が大規模になればなるほど、救えなかった人たちは増える。
サトーが関わってきた事案はそういったものが多数を占めていた。
「……それがいったい?」
「救済からこぼれた者たちによる暴動が起こり、君を安全に入国させることができないそうだ」
苦虫を噛み潰したように顔をしかめる長官。
サトーは頭では理解しつつも、思わず口から「は?」と理解を拒む声が出た。
「そういう悪意で荒んだ状況を救いに行くのがヒーローじゃないんですか?」
「そうとも。だが、こちらも危険を承知でエースを投入するほど余裕はないんだ」
組織の理論で詰めてくる長官に、思わずサトーは頭を抱える。
しかし、悲報はそれだけにとどまらなかった。
「悪いことに、これを皮切りに他の国々でもヒーロー反対運動が始まりつつある。
中でもトップヒーローである君は槍玉に挙げられている。不用意な活動は控えてほしい」
「なんだって……」
「ヒーローが訪れるところに悪意が出るなんて言い出す団体も現れている。
馬鹿な話だ。悪意があるからヒーローが訪れているのだというのに」
「……そんな」
サトーは目の前が真っ暗になっていた。
いかなるときも、誰かのために戦ってきたことが、こうまでも拒絶されようとは。
ヒーローとして戦う力があると知ってから、そうあるべきだと信じてきた。
信念ごと悪意に否定されたような気持ちに打ちのめされたサトーの耳に、長官が息苦しそうに溜息をつく声が聞こえた。
「輩出するヒーローが少数の国は、こうした運動を密かに支えているところもあるそうだ。
組織の権限が、ヒーロー輩出国に偏っていることが気に入らないのだろう」
そんな場合か、と憤る気力もない。
サトーは長官が差し出した指令書を無言で受け取り、その場を去った。
部屋を出る直前、長官のぼやく声が聞こえた。
「悪意が可視化されたことで、世界の半分が悪意に呑まれたと騒いではいるが……」
静かに閉まる扉から長官の言葉が滑り込んだ。
「見えるようになっただけで、最初から世界の半分は悪意だったのかもしれん」
指令書には組織が手配した休養所と当面の生活手段が記されていた。
そこには外出の制限から食料調達の方法まで細かく書かれており、軽い軟禁のようにも思われた。
メディアからも隔絶されており、外の情報は手に入らない。
心は焦るばかりで、今でもどこかで助けを求める人々の声が聞こえるようだった。
そんな日々を過ごしていたある日。
鳴るはずのないドアを叩く音に起こされたサトーは、警戒した足取りでドアに近づく。
「先輩っ!」
「……シオか?」
恐る恐る開けた先にはシオが立っていた。
喜びを隠しきれない表情で、安堵するように大きく息を吐いていた。
まさか流刑地のようなこの場まで追ってくるとは思っていなかったサトーは、驚きと呆れで言葉が出なかった。
「探しましたよ。
まったく、先輩を現場から外すなんてどんな判断したんだか」
シオは本気で怒りを感じているようで、眉をつり上げて不快げに鼻を鳴らした。
その仕草に停止を解かれたサトーは、矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「今どうなってる? 悪意は? どれだけ広がった!?」
「六割、ってところでしょう。徐々に、けれど確実に浸食され始めています」
「そんな……!」
「予想できたことです。一番の貢献者をこんなところに置いてるのですから」
そう言いながらシオは屋内にある数少ない荷物をまとめ出して、荷造りを始めた。
「な、何をしてるんだ」
「もちろん、ここを出るんです。
世界のピンチに主役が休んでいては、物事が進行しないでしょう?」
「長官は……組織は了解しているのか!?」
「辞めましたから知りません」
「なっ!? ……何故、そこまでして」
サトーの呟くような問いに、シオが荷造りの手を止める。
「……私は先輩の真っ直ぐなヒーロー観が好きです。
そして、それが通らない悪意にまみれた世界が許せない。
私の回りくどいやり方で助けになるなら――――
私、先輩を助けたいです」
理知的な瞳が情熱的に揺れた。
サトーが返答に迷っていると、二人だけの空間が突如破られた。
「失礼します! フューチャーズの記者です!
サトーさん、ヒーローとして取材を――!」
その一人では止まらず、後から続々とリポーターやカメラを持った者たちが押し寄せる。
トップヒーローであるサトーの所在は、とてつもない大スクープである。
休暇中のヒーローに取材するなどマナー違反もいいところだが、メディア全体の三割が違反すれば、このような事態にもなりうる。
決して質の高いメディアとは言えないが、反発的な態度で追い返せば何を書かれるかわかったものではない。
「……すみません先輩。どこかで情報が漏れたみたいです」
「お前のせいじゃない」
冷静さを欠いてはいけないと、努めて抑えた声でシオの謝罪を否定する。
しかし、落ち着こうとするサトーとは裏腹に、記者たちは集団になって気が大きくなったのか、次々と質問を繰り出す。
「どうして突然、姿を消したんですか!?」
「組織の都合で――」
「ヒーローとしての責任は? 謝罪の言葉はありますか?」
「責任は感じているが、謝罪は――」
「アンチヒーロー団体による反対運動で活動自粛というのは本当でしょうか?」
「それは――――」
「何があろうとヒーローが戦わないのは職務放棄だという声がありますが?」
「何故来てくれないんだという民衆の声にどう答えますか?」
律儀に答えようとしても諦めざるを得なかった。
彼らが欲しいのは明確な回答よりも、休暇中のサトーが記者に質問攻めされている画だ。
どれだけ誠意を尽くしたところで、すべてが伝わるとは限らない。
どうしたものかと困っていると、一人の記者が挑発的にたずねる。
「どうなんです? 質問にはお答えできませんか!?」
生まれつき硬い表情が、今だけは苛立ちを隠すのに役立っていた。
この記者たちはサトーの耳が二つで、口が一つであることに気付かないのだろうか。
記者は大勢いるが、サトーは一人しかいない。
質問に答えられるのは一つずつで、後回しにされたり答えられないものがあるのは当然だ。
ヒーローだって同じことだ。
民衆は大勢いるが、ヒーローは限られた数しかいない。
「来てくれ」と「来るな」という声に同時には応えられないことはある。
(……何故、それがわからない)
みんながヒーローを見ているはずなのに、誰もヒーロー個人が見えていない。
しかし、ここで怒りをぶちまけてはネタを提供するだけである。
おとなしく丁寧に質問に答えていると、ある一人の記者が黙っていたシオに目を向けた。
「……あなたも確か、ヒーローでしたよね」
「……ええ」
「二人の関係は――」
シオは敬愛するサトーを侮辱されても耐えていた。
だが、サトーはそこまでしてくれる後輩に矛先を向けられて黙ってはいられなかった。
「――彼女は! ヒーロー組織を辞めた一般人だ。
承諾のない取材はできないし、許可なく記事にすればガイドラインに違反する!」
この世界にはヒーローを対象としたヒーローインタビューというシステムがある。
活躍を各地に広めるための広報効果を狙ってのもので、本来は事件後すぐに受けることが多い。
組織に属するヒーロー相手ならば、メディアは事件に関する質問をすることが認められている。
「えーと、ではあなたとは無関係なんですか?」
一瞬、回答に怯んだが、サトーはシオのほうを見ることなく答えた。
「……そうだ」
シオを守るため、現状それがベストな判断であると思って言った。
批判や悪意を向けられるのは自分だけでじゅうぶんだと、そう覚悟した。
記事の素材にできないとなると記者たちはシオに興味を失い、サトーへの質問を続けた。
不毛な時間は、ヒーローインタビューの規定時間になるまで終わることはなかった。
記者たちが帰った後、休養所は嵐が去ったかのように静かになった。
サトーもシオも静寂を打ち破ることができず、ひたすら無言で片付けや食事の準備をした。
深夜を過ぎた頃、ようやくシオが口を開いた。
「……一緒には、いられませんか」
既に答えがわかっている問いを投げかけるシオに、サトーは短く「ああ」と言った。
シオは床を一心に見つめたまま、掠れた、低くくぐもった声で囁いた。
「やっと……やっと、あなたのとなりに立てると……一緒に戦えると思ったのに……」
「シオ、俺は一人で戦ってきた。これからもそうするしかないんだ」
サトーは覚悟を固めた力強い口調で、やっとシオの顔を正面から見た。
「先輩……私じゃ、駄目なんですか……?」
少し、迷いが生じた。
しかし、ここで弱気になってはそれこそヒーローが廃ると思った。
「大丈夫、信じてくれ」
翌朝、サトーは単身で本部へと戻り、凶悪化し続ける悪意への先遣部隊を任されることになった。
『ヒーロー、有事の最中に休暇』
雑誌のふざけた見出しを思わず握りつぶし、戦地へと向かう。
行き先は入国拒否された例の国だった。
現在は戦況が悪化し、政府も国もあったものではなく、入国拒否どころではなくなったという。
悪意の増大はとどまることを知らず、世界の半分以上が具現化する悪意に覆われている。
霧状だった悪意が液状化し、粘性のあるドロドロになった地域が出てきたらしい。
酷くなるばかりの戦況に、サトーは静かな決意を燃やしていた。
(もう考えることはない。
俺は一人でも、何があろうと戦い続け、この世界を助ける。
組織から外れることになろうと、世界から非難されようと――!)
不幸中の幸いは、状況の悪化によりヒーロー反対の機運が下がってきたことだった。
戦線が拮抗状態にあったときに出ていたアンチヒーローの意見は、嘘のように見なくなっていた。
一転して、救助要請は増えた。
(考えることはないんだ。
俺は誰を助けているとか、何を助けているのかなんて)
無心で戦ううちに悪意の侵食域が五割ほどまで押し戻された。
霧状のものが散っただけで、液状化に呑まれた地域は戻ることはなかったが、朗報として大きく報じられた。
気の早い一部の者が再びヒーローに対する鋭い意見を出したりもしたが、サトーは気にしなかった。
(真の平和が訪れて、本当にヒーローが不要になるまで……俺はヒーローをやめない)
ただひたすら戦った。
一人で必死に戦った。
圧倒的な強さで活躍を続けたが、ある日――――負けた。
単純な話、過労だった。
サトーに負担がかかり過ぎた結果、心身ともに戦える身体ではなくなっていた。
目が覚めたとき、生きていることが奇跡とまで言われた。
どうして負ける直前まで戦えていたのかが不思議だと言われた。
(嘘に、なってしまったな……)
後輩に信じてくれと言った台詞は守れなかった。
しかし、サトーは戦線から外されてもヒーローをやめなかった。
戦えずとも別の観点から平和に貢献することはできないかと手段を探し続け、一つの計画に辿り着いた。
ヒーロープロジェクト。
最新の時空干渉システムにより、過去の地点から人材育成をするという倫理観も安全性も不確かな計画だった。
無茶で無謀なそれは、組織という社会では実行されるはずのない廃棄される計画に過ぎなかった。
それを実現させたのは、長官による協力とサトーの過去の実績によるものが大きい。
もちろん、サトーも名義を貸して黙っていたわけではない。
様々な関係者へ交渉をする中、仏頂面だったサトーは、根拠のない自信に満ちた笑顔が得意になっていた。
そして、サトー自身も過去へ向かい、ヒーロー候補を担当することになった。
「君が直接出向かなくてもいいのだがな……」
「長官。俺の意志は変わりません」
サトーはこうしてヒーロー監察官となった。
後を追うようにシオがプロジェクトに入ってきたことは、数ヶ月してから人づてに知った。
そのときには彼女は髪をバッサリと切り落とし、一人称も『私』ではなくなっていた。
+ + +
「俺は世界や国といった曖昧な概念を助けるヒーローだった。
しかし、昌宏に出会い、個人を助ける、それもヒーローを助けるヒーローという価値観を知った」
長い昔話を終えて、サトーは息をついて目を閉じた。
「それを知って、俺は後悔している。
あのとき、シオに助けを求めなかったことは正しかったのかと」
「本人を前に言うことではありませんね」
「……言葉もない」
シオさんがしれっとした顔でお茶をすする。
うなだれるサトーは俺にとって珍しいが、過去のことを聞くと意外とそうでもないのかもしれない。
「……今の状況は、過去のツケが回ってきたのだと思っている」
「ツケ?」
「シオとこうして共闘することになったのも、昌宏が過去の俺のように活動を自粛せざるを得なくなったのも……俺の後悔の結果だ」
俺はサトーにたずねる。
「……俺にできることはあるのか?」
小さく見えていたサトーの姿が、不意に大きくなったように思えた。
あの自信満々で根拠のない笑顔をこちらに向けて、安心させるように胸を張った。
「ヒーローを諦めないでくれ」
忘れがちだが忘れてはいけないことがある。
ヒーローだって人間だ。
失敗、挫折、後悔。なんだってする。
ただ、人よりも諦めが悪く、勇気があるだけなのだ。
「……これもシオの前で言うことではなかったな」
「本当ですよ」
シオさんは溜息をつきながら、スッと冷めた目を俺に向けた。
「……迷惑のかからない範囲で、諦めないでください」
難しい注文だな、と思いつつ、俺は頷くしかなかった。




