9.5 シオさん
「規則というのは悪い結果をもたらさないための最低限のラインです。
当たり前に回避すべきものであって、ギリギリ飛び越えるものではないんです」
ここ数日、まるで挨拶かのように小言を言ってくるシオさんがずいっとお茶を差し出してくる。
俺はありがたく受け取り、すっかり慣れてしまった居心地の悪い居間の真ん中にどかっと腰を下ろした。
「流石、先輩の担当ヒーローは図太い神経してますね」
「どういう意味です?」
シオさんはやれやれと肩をすくめるだけで何も言わずに家事へと戻っていく。
どうやらサトーのところに居着いて同居状態らしく、生活全般を受け持っているらしい。
きちんと管理された生活を送るサトーは健康的なはずなのだが、どこか疲れたようにも見える。
ずぼらな夫が新婚生活一年目で早くも、独身に戻りたがっているような、そんな有り様である。
「……私たち、お邪魔ですかね」
「今更だろ」
野々宮もなんとも言いがたい気まずさを感じているようだ。
シオさんがサトーと一緒にいるのは翔太たちの問題解決のために都合がいいからであり、それ自体に異論はない。
「先輩、またシャツそのまま出したでしょう。襟そで用洗剤つけてくださいって言いましたよね」
「うっ、すまん……」
同居に異論はないのである、やたらと新妻感を出してくるのが気にかかるというだけで。
それにしてもサトーがシオさんの押しに弱い印象なのが意外だった。
俺に対しては無駄に自信満々な態度でヒーローかくあるべしと説いてくるようなやつだというのに。
ただ傍目から見てる分には愉快でもある。
こうしてお茶を楽しみつつ眺めているだけなら問題ないのだが。
「さて、新藤くん。現状の再確認と今後の展開について、話し合いを始めましょうか」
「は、はい」
自らの分のお茶を手にして座り込んだシオさんは、四度目の進捗確認の開催を宣言した。
翔太と桂木が学校で話をしてから十日ほど経っていた。
あれから翔太も表面上では何事もなく通学しており、特に大きな問題は起こっていない。
つまり何も進展がないということで、常に異能再覚醒の危険は潜んでいるということである。
野々宮によると桂木は翔太の連絡先を知りたがっており、今はなんとか誤魔化しているらしい。
桂木とは頻繁にやり取りしているそうで、そのたびに説明に苦慮しているようだ。
一方、俺と翔太は気軽なもので、学校はどうだ? とか、スポーツの話題くらいしか話していない。どこのお父さんだ、俺は。
「……翔太くんはひとまず諦めた形ですが、今度は真帆が首を突っ込みつつあるわけですね」
「もう限界ですよ!」
「まぁ、そう言っても現状維持が最善だと思います」
このやり取りも四回目である。
翔太と桂木の直接連絡に待ったをかけたのはシオさんであり、目の届かないところでの通話は危険性が伴うという言い分もわかる。
しかし、わだかまりが残ったままでもやもやする桂木の気持ちも、その相談を受けている野々宮の気持ちもわかる。
俺としてはリスクも承知で幸せな展開になればいいと思っているのだが。
「ヒーロー側にいると忘れがちですが、平凡な日常というのは尊いものです。
それを失うリスクをかけてまで、かつての仲を取り戻したいというのはなかなかのエゴですよ」
それを言われると反論しがたいのも何度目だろう。
好きな人のためなら世界なんてどうなってもいい、なんて話を見かけたこともある。
しかし、今回ばかりは好きな人のためになるかすらわからないのだ。
桂木が記憶と異能を取り戻すことで、連鎖的に非日常な事件に巻き込まれるかもしれない。
そんなヒーロー的展開を今の桂木が望んでいるかといえばそうではないし、かつての桂木が望むかどうかなど知るよしもない。
平凡な日常と桂木の意思、その二つをかけて得られるものが翔太との関係性。
可能性に過ぎないが、順序立てて並べられると、翔太の願いは自分勝手なもののように見える。
それに気付いた翔太自身が諦めているのだから、外野が世話を焼き過ぎるのはどうかとも思うのだ。
「ですが、真帆さんも違和感があるんです。感情抜きにしてもそれを放置するのは違うと思います。
あの二人が納得する形がこの事件の終着点だと思うんです」
野々宮も負けじと言い張るが、シオさんはジトーっと目を細めながらこめかみを押さえた。
「それで出た案が遊園地でダブルデート作戦ですか?」
「シ、シオさんが翔太さんと真帆さんを二人きりにできないとか言うからです!」
「確かに言いましたけど」
「二人の関係をサポートしながら修復するにはこれが一番合理的です! 私たちはおまけですから!」
「……状況を利用した権限の私的行使にも聞こえますが」
言葉だけ取ると俗な作戦に聞こえるが、これまでの経緯を辿れば仕方ないところもある。
翔太と桂木の通話連絡を止めたのはシオさんなので、会わせなければ進展はない。
そこで野々宮は二人を会わせようとしたが、やはり二人きりの会話はリスクが高いとシオさんが意見する。
その結果、俺たちがついていくことになり、ダブルデート作戦と銘打たれたのである。
あくまで揶揄して言っているのはシオさんであって、野々宮はダブルデートだなんて言ってはいない。
「俺もこのままずるずると続けるより良いと思うけど」
流石に見ていられなくなってそう発言すると、シオさんが妙な顔をしてこちらを向いた。
あまりにもジッと見つめられたので、恥ずかしいというより気味が悪かった。
「……なんですか?」
「いいえ、五年もヒーロー候補をしていたあなたが言っていると思うと、感じるものがありましてね」
「なんか言い方にトゲがありますね」
「……失礼。先輩を独り占めするあなたが羨ましくなっただけですよ」
シオさんは雑念を振り払うように溜息をついて、眼を据えて姿勢を正した。
「新藤くんの意見にも一理あります。
危険を冒してでも問題の全面的解決を図るのは、悪いということはないでしょう。
万が一のことがあってもヒーローのあなたがなんとかしてくれるというのなら、ね」
「……シオさんに言われなくても、俺はそのつもりでしたよ」
つい語気が荒くなる。
言ってからしまったと後悔したが、シオさんは冷静だった。
「その展開も考えなかったわけではありません。
しかし、新藤くんのヒーロー補正は優秀ですが万能ではないのです。
……ここに今までの事件の報告書や先輩からの話をまとめたものがあります」
シオさんがスマホに似た端末を壁に向けると、スクリーンのように画像が映し出される。
これまで俺が関わってきた事件の場面や説明がずらずらと流れていく。
どれも追い詰められて、もはやここまでといった印象であり、見てるだけでキツイ思い出が蘇る。
「結論から言えば、あなたの能力は逆転特化なのです。
ここ一番で必要な力、展開を引き寄せる……メアリースーの追い込み版とでも言いましょうか」
そんなことは俺自身がよくわかっている。
メアリースーのように前提からして最強であれば、どんなに心穏やかでいられただろうか。
そうではない以上、ピンチもクライマックスも必死こいて乗り越えるしかないわけだが。
「ポイントはあなたが活躍すべき地点までは事件が進む必要があることです。
今回で言えば、真帆が異能を取り戻すことで新たな敵が現れるといったところでしょうね。
敵を倒せないと最悪なことになりますが、なんとかしてくれたらひとまずハッピーエンドです」
シオさんは一息ついて壁に映していた画面を消す。
「ここからは新藤くんには関係のないことになりますが、ヒーロー監察組織の判断次第で関係者全員の記憶処理がなされることでしょう。
複数回の記憶処理は人間の脳に負担をかけるというのは、過去のデータでも証明されています。
もちろん障害が残った場合は、現代基準で平均的な生活を送れるような保障はされます。
翔太くんは再び無効化してしまうかもしれませんけど」
また一人だけ取り残されることに――いや、それよりも辛いことになる。
淡々と衝撃の内容を口にするシオさんは、いやになるほど落ち着いている。
その態度が逆に神経に障って苛立ちを覚えるが、それをぶつけるのは絶対に違う。
「……俺に関係ないってどういうことですか」
俺には何もできないと言っているようで、その部分だけは確かめておきたかった。
「ではたずねますけど、そんなことになったらどうするんです?」
「なんとかしますよ。どうしても記憶を消すっていうなら……」
「ヒーロー監察官と戦いますか、ヒーローが?」
睨むような目つきで皮肉っぽく問いかけるシオさんの言葉に、俺はなんとも返せなかった。
野々宮も口を出せず、見かねたサトーが場を諌めようとしたのを察して、シオさんが首を振った。
「すみませんね。先輩と過ごしてきた時間への僕からの嫉妬と受け取ってください」
「……いや、いいんです」
何もいいことはないのだが、それしか絞りだせなかった。
シオさんは視線を俺から逃がし、詫びるような口調で言った。
「これがお堅い組織的判断だとか、腐敗した上層部の不当な強行であるなら僕も反対しますよ。
しかし、異能やヒーローをそのままにしておくことは将来において爆発的な危険を呼びかねない。
だから、障害の危険を冒してでも記憶処理を断行するのです。問題の全面的解決のために」
さきほどまでは現状打破の俺たちに、現状維持のシオさんという構図だったのが、そっくりそのまま入れ替わってしまった。
結局、問題を孕んだままの生活を送らなければいけなくなるというのなら、今の生活を維持するほうが平和なのでは、と俺も思い始める。
しかし、そんなのはヒーローらしい解決ではない気がする。
問答無用のハッピーエンドこそが望むべき未来であるのだから。
「……シオさんは、それでいいと思ってるんですか?」
「何が聞きたいんです?」
同じヒーロー監察官でもサトーとはタイプが異なる彼女。
そのシオさんがサトーに相談を持ちかけたということは、少なからず思うところはあるはずだ。
「なんとかしたくて、この話を持ってきたんですよね。
俺たちに助けてほしいんですか、ほしくないんですか」
「それは……」
シオさんは言い淀むように言葉を区切り、こちらの目をしっかりと見て言った。
「助けてほしいですよ。
勘違いしているようですが、僕もヒーロー側の人間ですから無茶で強引なやり方も嫌いじゃないです。
しかし、組織の一員として看過できないことはできないと言いますし、守らせます。
それらをクリアした上で助けてほしいのです」
「そんな無茶な……」
「だから、無茶は嫌いじゃないんです」
シオさんはわざとらしく微笑み、残っていたお茶を一気に飲み干すと、顔をそむけて独り言のように呟いた。
「そもそもルールを破っていいなら、自分でなんとかしますよ……」
憂い混じりの表情には、複雑な感情が渦巻いているように思えた。
組織の一員としての立場、元ヒーローでありヒーロー監察官としての立場。
また、サトーへの憧れや信頼も痛いほど伝わってきて、それによる俺へのあたりの強さもたびたび感じている。
「シオさん」
「なんでしょう?」
「自分で言うのもなんですが、俺のことを信じてくれませんか?」
シオさんは空っぽになった湯呑みの底を見つめて、気の抜けた声を出した。
「信じる、ですかぁ……」
「きっとなんとかなります……って言っても不安でしょうけど、俺だって不安です。
けど、今までそれでやってきたし、それしかできないんです」
少しでも期待を寄せてほしいとの思いから出た言葉だったが、シオさんの目線は一点を見つめたままだった。
「……信じていた人に裏切られたことってあります?」
ゾッとするような声だった。
聞き間違いかと慌ててシオさんを見ると、湯呑みを見つめたままだったが、異様な雰囲気は消えていた。
今のがなんだったのか、なんて聞けるわけもなく、沈黙が広がる。
意外にも最初にそれを破ったのはシオさんだった。
「まぁ、頑張ってみてください。ダブルデート作戦」
「えっ、いいんですか?」
「いいも何も。僕が提示した禁止事項さえ守れば、どんなに危うくて、とんでもないことになりそうでも認めないことはありません」
「そういうことですか……」
「……ふふっ、言うことは言わせてもらいますが、無茶は嫌いじゃないとも言ったでしょう?」
すっかり気の緩んだ表情を見せるシオさんに戸惑いつつも、安堵して俺もお茶をすする。
シオさんがおかわりを勧めてくれるので、残りをぐいっと飲んで湯呑みを差し出す。
とくとくと注がれたお茶とともに、シオさんが添えるように呟く。
「期待せずに待ってますよ」
「それって信じてくれるってことです?」
「……一つ、元ヒーローから助言をあげましょう。
きっと、先輩からは伝授できそうにないやつを」
俺が首を傾げると、シオさんは優しげな眼差しを向けた。
「野暮なヒーローと男性はモテませんよ?」
何気なく言われた言葉が妙に恥ずかしく、俺は誤魔化すようにお茶に口をつけた。
「熱っ!?」




