1.7 ヒーローの顔
殴る。振り払う。我流と言えば聞こえはいいが、形だけを真似た素人のそれである。
しかし、俺が磨き上げてきたのは形のみ。
ひたすら、見栄えのいい戦い方を試行錯誤し、ダメージを度外視した動き。
素人なら蹴った方が威力は高いだろうけど、できない。コケるから。
「っつーか、殴った感触もないな……」
五月病に実体はなく、毒々しい霧状の何かでしかない。
晴れることのない闇を延々と払い続けているような、無意味な行動を強いられているようで、やる気を削がれる。
それは決して気のせいなどではなかった。
相手に触れるたびに虚しさが込み上げ、力が抜けて、倒れ込みたくなる。
「何か、武器になるものっ!」
このまま無策で殴っていても埒が明かないと思い、一旦引いて辺りを見回す。
清掃の行き届いた綺麗な公園には、ゴミはおろか、木の枝一本すら落ちていない。
「新藤さん、これを!」
反射的に何かをキャッチする――魔法少女のステッキ。
魔法少女に変身した野々宮が投げたらしく、前のめりになっている。
「結構、丈夫ですよ!」
「ははっ、前線で杖装備かよ」
そう言いながらもステッキを握り締める手に熱を感じる。
底をついた俺のやる気を補充するだけの熱意が、野々宮の想いがこのステッキに詰まっている。
このステッキはこれまでずっと、野々宮の人を助けたいという気持ちを魔法に変換してきた。
「こっちは何年もヒーローや魔法少女を続けてきたんだ。やる気とか、義務とか責任とか、そんなものだけじゃないんだ」
ステッキを右手に駆け出す。
「お前のような季節ものの病気に降ろせる幕じゃないんだよ、五月病!」
耳もない相手。敵というより、風邪のようなもので、現象にすぎないモノ。
それでも俺はベラベラと喋りながら戦う。
格好いい台詞を叫べ、己を鼓舞しろ、ヒーローらしくあれ。
振り上げた右腕を全力で叩きつけながら、敵へと突っ込み、通過した。
「……どうしろってんだ」
そのとき、ガクンと膝が折れて正面から地面へ倒れ込み、突っ伏す。
全身が五月病にあてられたことで、湧きあがっていたやる気が根こそぎ奪われたらしい。
頬にざらつく砂の感触。立ち上がって砂を払いたいのに、身体を起こす気力がない。
それでも、ステッキを握る。杖があるのに、立ち上がれないなんてことがあるものか。
あるものか。あるものか。言葉だけが虚しく頭の中で繰り返す。
「起きろっ……」
口の中に砂が混じる。
ヒーローは何度でも起き上がるものじゃないのか。
ダメージを受ける前より、ダメージを受けた後の方が強くなってるのがヒーローじゃないのか。
野々宮。
守る人がいるとき、絶対に負けないのがヒーローじゃないのか。
「くそ、駄目か……」
「駄目じゃないですっ!」
ステッキを握る俺の手を、柔らかく包んでくれる手。
どうにか顔を上げると、明るく笑う魔法少女の姿がそこにあった。
しかし、勘違いしてはいけない。これは長年の経験で培った魔法少女の顔。
正体が野々宮である以上、この笑顔までに葛藤があったはずだ。
俺もヒーローの顔を取り戻さなくてはいけない。新しい顔を。
「やる気か、野々宮」
「やる気満々です」
野々宮の握る手に力が込められる。
ステッキが光り輝き、俺の右手にも温かな熱が伝わる。
野々宮は魔法を使おうとしている。それが命を削る行為と知った上で。
俺の勝利に賭けたのだ。今回は勝利の瞬間まで届くと、ヒーローで居続けられると信じてくれた。
「野々宮」
「何ですか?」
「ありがとう!」
「……後でもう一回お願いしますね!」
俺が頷くと、野々宮の目に覚悟が宿った。
「――新藤さん、お願いです。やる気を、勇気を出してっ!」
野々宮がステッキを掲げるのに引っ張られながら、自分の足で立ち上がる。
内側から込み上げるやる気。そして、野々宮から与えられた勇気。
俺の中のヒーローが加速していく。勝利のビジョンが見えた。
そのとき、二人で握り締めていたステッキから、野々宮の手が離れる。
その場にへたり込み、弱々しげに呟く。
「頑張って……」
「大丈夫。勇気百パーセントのヒーローは負けない」
野々宮は小さく微笑み、ぱたりと地に伏した。
魔法少女の衣装が洋服に戻る。おそらく、維持する魔力がないのだろう。
しかし、手にはステッキがまだ握られている。
「……ガラスの靴みたいなものかな」
一刻の猶予もない。
シンデレラの魔法は既に解けている。
早く、助けに行かなければ。
「ラストスパートだ。お前の見せ場はないと思え」
ろくな動きもなく、ゆらゆらするだけの五月病。
まだ、敗北はないと思っているのか。いや、ただの現象に思考はないのだろう。
奴はやる気のあるところからやる気を奪っているだけだ。
その習性により、五月病の霧が俺に向かってくる。
――ガシャン
振り下ろしたステッキが、五月病に亀裂を走らせる。
霧に物理的なダメージは与えられない。俺が与えたのは存在へのダメージ。
病という概念を打ち砕く、否定の理論武装を拳に込める。
初めて霧が逃げるように後退する。
「病は気から、って言うだろ。気力抜群の俺に病気が効いてたまるか」
根拠のない理論をヒーローの強引さで補正する。
勝利までの脚本は俺が書き上げた。これでいける。信じろ。勝てる。
「遊んでる暇はない。一気に行くぞ!」
ステッキを振り回すたび、黒が、青が、紫が散っていく。
五月病の霧が散り散りに消え去り、微かな黒いもやが残った。
「トドメだっ!」
最後の一粒は千切れることもできず、じゅっと小さな煙を出して消滅した。
花火を水につけたような寂しげな音とともに、五月病が完全に消える。
「……今年の連休明けは、億劫にならずに登校できるかもな」
勝利を確認した俺はすぐに野々宮のもとへと戻る。
倒れている野々宮を抱きかかえ、耳元で叫ぶ。
「ありがとう!」
口元が微かに動いたように見える。
「ありがとう、野々宮」
「……ぁ」
野々宮の意識が戻るとともに、俺の腕にかかっていた重みが軽減されていく。
徐々に野々宮が自分の力で体重を支えているということだ。
「ありがとうって言ってるんだ。聞こえるか、野々宮」
「……はい、聞こえます」
+ + +
「俺を起こしてくれる王子様はいなかったわけだが」
野々宮とひとしきり笑い合った後、倒れているサトーを起こしに行ったら、文句を言われた。
どうやら俺が五月病を倒した時点で意識ははっきりしていたそうだが、空気を読んで黙っていたようだ。
「サトーも無事でよかったよ」
「……まぁ、ヒーローとしては上出来だ」
「それは嬉しいな」
素直にそう言うと、サトーが満足気に唸る。
「いい顔だ」
「……ヒーローの顔だよ」
意味がよく呑み込めていないサトーの相手はこれくらいでいいだろう。
公園の時計を見ると、夜の八時を大きく回っている。
「お婆ちゃん、夕飯の支度してただろうなぁ……」
「うーん、流石に私も遅くなったというには遅すぎる時間です……」
早く帰らなければいけないが、怒られたらどうしようかと足がすくむ。
どうにか誤魔化せないかと思っていると、サトーが安心しろとばかりに胸を張った。
「俺も同行して頭を下げよう。第三者がいれば、頭ごなしに怒られることもあるまい」
「だ、大丈夫でしょうか?」
「友人の兄として振舞う。暗いので皆を送っていると言えば、怒りづらいだろう」
「俺はどうするんだよ。お婆ちゃん、サトーに会ったことあるだろ」
「昌宏の祖母には誠心誠意、謝罪しよう」
「無策かよ」
とりあえず、野々宮を家まで送ろうということで歩き出す。
迷子になっている時間はないので、サトーが先導する。
「サトー、あの五月病は何だったんだ?」
「それを調べるのは俺の仕事だが、恐らく人為的なものだろう」
「誰かがやったのか?」
「断言はできないが、その方がマシだろう。この時代であんなものが自然発生してたまるか」
「俺や野々宮みたいのが自然発生してるのにか?」
「それはヒーロープロジェクトを進めてきた結果、この時代でもヒーローの可能性が増えたからであって……」
サトーはそこまで言うと、思い当たることがあるようで考え込んでしまった。
ヒーロー業界には明るくない野々宮は大人しかったが、しっかり話は聞いていたようで、俺に小声で話しかける。
「新型五月病ウイルス……みたいな?」
「細菌とウイルスって違うんだろ? 目に見えたから細菌なんじゃないのか」
「いや、細菌だって目に見えませんよ?」
「そもそも、五月病って精神病だろ。細菌もウイルスもいないんじゃ?」
二人して頭を抱える。
「なんというか、そういうのじゃなくてさ。五月病というイメージが具現化したもの、って感じだと思うんだ」
「イメージ?」
「ああ、だから、ヒーローの論理が通じた気がする。本物の病気は、元気でどうにかなるもんじゃない」
「はぁ……わかるような、わからないような」
「そこら辺はサトーが勝手に調べて、謎の上司に報告するだろ。俺たちは帰って寝よう」
「そうですね、それがいいです」
話していると先頭のサトーが歩みを止め、野々宮が家の方を向いた。
表札には野々宮と書かれており、迷子にならずに到着したらしい。
「昌宏は先に歩いていてくれ。すぐに追いつく」
「どうして?」
「流石に男子のクラスメイトは言い訳できんだろう」
サトーの言葉に思わず野々宮と顔を見合わせ、お互いに苦笑いで誤魔化す。
居座る理由もないので、軽く手を振って別れることにした。
「それじゃ、また――」
明日。それとも、連休明けの学校で。
事件が終わった後、野々宮とはどう接していけばいいのだろうか。
友人。仲間。色々と言葉は頭を飛び交うが、数秒では決まらなかった。
「はい、また今度」
そんなことをしている間に野々宮に挨拶を返され、帰らざるを得なくなった。
一人で夜道を歩く。
こうしていると迷子になっていたときのことを思い出すが、不思議と不安はない。
「まぁ……いいか」
今は、もう少し勝利の余韻に浸ろう。