6.1 夏休み最後の日の憂鬱
「野々宮分が切れそう」
無意識のうちに口から零れた言葉は、正面に座っていたサトーの表情を強張らせるには十分な威力だった。
「夏休みも残り一日だ。辛抱してくれ、昌宏」
今年の夏休みはこれまでの人生で最も長く感じる夏休みであった。
八月の初め、魔法界での騒動から三週間ほどが経ち、明日からは二学期、登校日だ。
一日千秋の想いとはよく言ったものだが、今は夏。物事に耽るべき夜長もなく、ただ日々を持て余すのみだ。
「やっぱり、俺も行けばよかったなぁ。魔法界の手伝い」
「部外者があまり関わるものではないぞ。ヒーローにも引き際というものがある」
何故、俺が夏休みの長さをぼやいているかといえば、野々宮と会えないからである。
この夏、野々宮は魔法界へ行ったかと思えば、いつの間にか帰ってきて宿題を片付ける二重生活をしている。
忙しそうな野々宮を手伝おうかと申し出たが、彼女は軽い雰囲気で断った。
『いえいえ、正直なところ、サフィさんとお話がしたいだけですから』
先代女王のサフィは、魔法少女をサポートするマスコットキャラクターとして野々宮を支えていたことがある。
二人が再開するのは一年ぶりだということだし、ゆっくりと話したいことは山ほどあるに違いない。
魔法界復興の手伝いというのも本当だろう。野々宮のことだから、貴重な夏休みを費やしてでもやりたいことがあるはずだ。
そんなことは今更、百も承知。俺もそれなら頑張ってこいと気前よく送り出したのだが――
「学校も事件もないと、俺と野々宮ってあんまり関係ないな」
「事件はともかく、学校なしで男女仲を語れば、関係も薄くなるだろう」
サトーは呆れ顔で溜息をつくと、場を仕切りなおすように声を張る。
「いいか。ヒーローたる者、依存は良くない。孤立も問題だがな」
「そこまで深刻に言わなくてもいいだろ」
「そう指摘せざるを得ないほど、今の昌宏は格好悪いぞ」
「うっ」
サトーに指摘されるほどなのか、と割とショックを受ける。
「自覚がないと言うならば、そのテンションのまま彼女と会ってみるがいい」
「……わかったけどさ」
確かに野々宮に会えないことを嘆いて、心身を腐らせている現状は酷い。
一般的なヒーロー像としても問題だし、健全な男子学生として、いや人間として堕落している。
格好つけることが仕事のような自分にとって、この醜態は理想とかけ離れている。
しかし、平和な夏休みを堕落して過ごすのはいけないことだろうか。ヒーローにもオフが必要だし、オフは自由であるべきだ。
常日頃から完璧なヒーローなど、格好つける理由がない。
「今日一日くらいは愚痴を零させてくれたっていいだろー」
「だがな、それこそ明日には皆と会うことになる。少しはシャキッとしておくべきだと思うぞ」
「明日はちゃんとするって」
「そういう台詞は信用ならない定番だろう……」
サトーは強引に俺を立たせると、なおも怠惰な姿勢を崩さない俺を玄関へと追いやる。
「大体、家でごろごろしてるから悪いのだ。外で頭を冷やしてこい」
「えー、外は暑いんだけど」
「今ののぼせ方ならちょうどいいさ」
渋々、俺は外へ出る。空に雲はなく、晴れ晴れとした太陽が地面に照りつける。熱気が上から下からと襲い掛かり、歩き出す気力を奪う。
そもそも、冷房がガンガン効いているからサトーの家でごろごろしていたのだ。
今から自宅へ戻ったところで、一人で延々、暇と邪念を持て余すだけである。
「……図書館でも行くか」
暑い夏に、金が無い学生が時間を潰す場所といえば、そこしかあるまい。
振り向けばサトーは扉を開けたまま、そこで待っている。この暑い中、俺なんか待たなくていいのに。
「ま、行ってくるよ」
「ああ、気をつけてな、昌宏」
+ + +
勢いづけて歩き出したものの、周囲の熱気と日々の倦怠感が足取りを重くする。
停滞すればするほど到着は遅くなり、日差しに晒される時間も長くなるわけだが、理屈でどうなるものでもない。
俺は流れる汗を拭いながら、溜息まじりに歩き続けた。それは図書館を目指してというより、ただ何となくだった。
「何だろうなぁ……このやるせなさ」
別に、野々宮と仲が悪くなったわけではない。
九月になれば、行けずじまいだった映画を見に行こうと指切りまでした。
子供染みた行為のように聞こえるが、ただの指切りではない。魔法の指切りである。
『新藤昌宏と野々宮千恵は、九月になったら映画を見に行く』という約束を確実に成すための魔法。
この魔法は約束が破られると、目覚まし時計が鳴り響くように、約束した場面を頭の中に繰り返すという。
できれば約束を破る前に鳴り響いてほしいのだが、それは野々宮らしい魔法ということで妥協してやろう。
万が一、九月に行くという約束が守れなくても十月になれば行けますから、野々宮もそう言っていた。
「……でも、この夏は一度きりなんだよな」
我ながら感傷的になりすぎだと、自嘲気味に笑うと、不意に目の前に人がいることに気付いた。
考え事が深すぎて、意識から外れていたらしい。ビクッとしながら急停止してしまい、気まずさを感じる。
「すみませんっ……」
とっさに謝罪の言葉をかけると、相手はまったく気にしていないふうな口調で言った。
「ううんっ、ヘーキだよ、昌宏君」
親しげな声に戸惑いながら、衝突しかけた見知らぬ女の子に目を向けた。
背中まで伸びる長い髪は、夏の日差しを照り返すようにキラキラと輝いている。
先を見通すように開かれた瞳と自信ありげな立ち振る舞いは、うちの高校の制服を華麗に着こなし、抜群なスタイルの良さを遺憾なく発揮している。
こんな芸能人みたいな容姿で、いかにもピカピカした青春を謳歌してます、って女子、知らないぞ俺は。
「どうして俺の名前を?」
「だって知り合いだもの」
覚えがない。
ピンと来ないどころか、微塵にも思い出せない。
「……あの、凄く失礼かもしれないけど、いつどこで会いました?」
「今ここで」
さも当然といった調子で言い放ち、俺の反応を楽しむように笑みを浮かべる。
その仕草に緊張が走り、思わず背筋を伸ばす。
「何を言ってるんだ。大体、名前は――」
「私、椎野華子。カコって呼んでね」
シイノ、カコ。記憶の中にはそのような知り合いはいない。
不思議と耳に馴染みやすい名前ではあるが、顔も声も覚えがまるでない。
「私もヒロ君って呼んでいい? その方がしっくりくるの」
それにしても、このフレンドリーな感じは居心地が悪い。
夏休みに制服姿というのも不自然だし、嫌な予感が止まらない。
これはもうタチの悪い冗談か、笑えない詐欺か、余計な事件に巻き込まれたかのどれかだ。
「……悪いけど、人違いじゃないか?」
「名前を知ってるのに?」
「じゃあ、何かの間違いだ」
「間違うわけないよ。何度だって確かめたもの」
人懐っこい笑顔だが、椎野には有無を言わさぬ雰囲気があった。
ヒーローの直感が告げている。夏休み最後の日。野々宮がいない日。何かが始まる、その瞬間を。
「――何なんだ、一体」
その疑問を待っていたかのように、椎野はすかさず次の台詞を口にした。
「私はタイムリーパー。ヒロ君とこの夏を突破すべく、何度も今日を繰り返してきた時間跳躍者」
タイムリーパー。夏を突破。今日を繰り返す。時間跳躍者。
一回で言葉を理解しきれず呆気に取られている俺に、追い討ちをかけるように椎野は言った。
「この台詞、百回以上言ってるはずだからね。ヒーロー候補さん」
「……覚えてないな」
椎野は小さく微笑むと、余裕たっぷりの表情を浮かべた。
「いいよ、教えてあげる。忘れんぼうなヒロ君」
そう言って、チャーミングなウィンクを飛ばす椎野。
俺は状況に理不尽さを感じながらも、既にこの美少女のペースに巻き込まれていた。
野々宮の件で熱に浮かされていた俺には、あまりにも酷な夏の罠だった。
それでも、彼女のいたずらっぽい笑顔にときめいてしまったことは事実だ。
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「――だからって、この仕打ちはないだろ」
そう、俺は野々宮との約束を守るどころか、破ることさえできず――
数年間、野々宮と会うこともできていない。




