5.1 十六歳の夏、まさかのドタキャン?
「すみませんっ、行けなくなりました!」
八月六日、午後十時。
俺は自室で携帯電話を手にしたまま、呆然としていた。
その理由を語るのに、それほど時間を遡る必要はない。
明日、映画を観に行く話で言うことがあります。そう切り出された俺は平静を装いながらも、内心ドキドキして返事が上ずっていた。
何か言われることを期待していたわけではなく、単純に明日は野々宮とデートっぽいことになるというドキドキである。
黒染の事件のときに、護衛としてデパートへ一緒に行ったことはある。しかし、今回の俺は護衛ではないのだ。
無論、あくまで誕生日プレゼントの代わりだとわかってはいるが、その事実がデートであることを否定する要因とはなるまい。
もはやこれは正真正銘のデートと言っても過言ではないだろう、少なくともデートに近似する行為には違いない。
認めよう。俺はこのとき、馬鹿なことを熱っぽく考えていたし、テンションも高かった。
そんな俺とは打って変わって、野々宮は静かだった。というか、「あのぅ、そのぉ……」と歯切れが悪く、一向に話が進まなかった。
電話の向こうで野々宮がもじもじしていると思うと、いや、待て、思うな、何を考えているんだ俺は。
先月の一件もあるし、終業式の日にも話しただろう。余計な隠し事はなるべくやめようと言ったじゃないか。
問い詰める気はさらさらなかった。俺は優しく言ったつもりだ。
それなのに野々宮が絞り出すように言った一言は――行けなくなりました。
俺はハッと意識を取り戻す。まだ、電話はつながっている。
それにしても、流石にいきなり行けないとだけ言われては、我が侭だと怒っても仕方ない。酷だと悲しんでも仕方ない。だから、俺は。
「な、何でっ!?」
困惑して情けない声をあげた。これも仕方ない。絶対に仕方ない。
「本当にすみません……」
野々宮は繰り返すように言った。謝罪に気持ちが込められていればいるほど、冗談ではないことを痛感する。
俺は何も言えずに黙り込んでしまったが、野々宮が自分から電話を切る様子はなかった。
かけてきた方から切るなんて失礼だとか、そういうことではないだろう。電話越しに聞こえるのは、堪えるような野々宮の息遣い。
そうか、俺が落ち着いて答えられるようになるまで待っているつもりだ、とわかったときには、だいぶ頭が冷えていた。
考えてみれば、映画に行こうと提案したのは野々宮である。その本人が行けないというのだから、何か理由があるはずだ。
野々宮は謝るばかりで弁解することさえしない。恐らく言いづらい理由なのだろう。訊ねたところで簡単に口を割るとは思えない。
具体的な説明を避けたいと野々宮が考えているとすれば、突っ込んだところで態度を頑なにさせるだけだ。それなら。
「何か、あったんだな?」
「……はい」
野々宮が答えやすいように、あえて深くは聞かない。
しかし、この質問だけで野々宮が特殊な事情を抱えていて、俺に関わらせないようにしたがっていると想像がつく。
そこまでわかれば十分だ。俺は思いつく限りの理由を捲し立てる。
「魔法が失敗したのか、不発だったのか、勘違いしてるのか?」
「そ、そんなことではないんですっ。今度ばかりは新藤さんをお連れするわけには」
「連れぇ? 何処に行く気だ、おい?」
思わず声が裏返る。一体、野々宮は何に巻き込まれていると言うのか。
「なぁ、野々宮?」
「……こんなはずじゃあ」
野々宮の溜息が聞こえる。
もしかして重々しく訳有りな雰囲気で謝っていれば、俺が引くとでも思っていたのか。
そうさ、そうなりかけたさ。しかし、ここ数ヶ月で成長したのは能力だけではない、はずだ。
「野々宮。俺は既に寝巻を脱ぎつつあるからな」
「えぇっ!? 何でですか!?」
「着替えるんだよ、外に出られるように……さぁ、靴下を履くぞー」
「ちょっ、早いですよ!?」
「ヒーローは着替えるのが早いんだ」
助けを呼ぶ声があれば、すぐにスーツを着て飛んでいく。それがヒーローのあるべき姿だ。
生憎、スーツの類は持っていないので、ジーンズに白シャツ、薄手のジャケットを羽織るだけで済ませる。
支度を終えると、野々宮に呼びかけられていることに気付いた。
「……さん、新藤さん?」
「あぁ、悪い悪い」
着替えていたので、耳元から携帯電話を離していた。心配する野々宮に応じつつ、こっそりと部屋を出る。
俺は声を潜め、慎重な足取りで玄関に向かう。音を立てないようにドアを開き、滑るように外へ出た。
じんわりとした空気が身体にまとわりつく夏の夜。微かな虫の音が何処かから響いてくる。何処で鳴いてるのかはわかんないんだよな。
「あれ、もう外にいませんか」
「いるけど」
一瞬、間が空いた。頭を抱える野々宮が目に浮かぶ。
「お婆様には何て?」
「大丈夫。何も言わなくても夏休みだし、明日の朝までは寝てると思われるだろ。昼はふらっと出かけたと思われるかも。夜は……流石に帰んないとまずいけど」
「もぉー……」
呆れるように伸びきった声の後、野々宮は静かに息を吐いて、囁くようなボリュームで訊ねた。
「もしも、ですよ……?」
「ああ」
「私が困ってると言ったら……来ちゃいます?」
「当然だ」
「――ッ! わかりました、わかりましたよ……助けて下さいっ!」
「わかった、任せとけ」
夜の住宅街をあてもなく彷徨い、携帯電話で話しながら、思わずガッツポーズする俺。傍目から見られたくないな。
野々宮は相当溜めこんでいたらしく、堰を切ったように喋り出した。
「思えば、電話した時点で負けてたんですよね。だけど、何も言わずに一人で頑張っても、余計に迷惑かけちゃいそうで」
「俺に頼るのは負けなのかよ」
「こ、言葉のあやですよ。頼りにしてます。だからこそ、今度ばかりは……」
「それより俺は何処に行けばいいんだ?」
慌て出す野々宮を遮って、気になっていたところを訊ねる。
「えっと、まずはいつもの公園に」
「何だ、随分と近場じゃないか」
先程ちらっと聞いたときは遠くへ行くような口振りだったので、拍子抜けしてしまった。
しかし、野々宮はそうじゃないんです、と否定する。
「公園から、その――――魔法界に行きます」
今日はよく野々宮に驚かされる。
+ + +
誰もいない夜の公園。野々宮がすぐに見つけられるように、俺は街灯の下で待っていた。
こうして眺めていると寂しい光景である。ベンチに砂場、くすんだ色合いの滑り台。あとはもやもやした五月病と戦える広さの広場だけだ。
昼間に子供が遊んでいる様子が想像できない。夜の学校とか閉園間際の遊園地に似た寂寥感がある。
ここからどのようにして魔法界に行くのだろう。俺の頭で考えたところで答えが出そうにない疑問だ。ファンタジーすぎる。
不毛な思考に陥りかけていると、公園の入り口で物音がした。
見れば野々宮らしき背丈の影。俺が軽く手を上げると、向こうもぺこりと頭を下げて小走りにやってきた。
暗がりから現れる野々宮を、真上の街灯が徐々に照らしていく。緑を基調としたフリフリの衣装。え、いきなりそれか、と目を丸くする。
「新藤さん、すみません。お待たせしましたっ」
「お、おぉ、そんなに待ってないけど……どうした、その格好」
野々宮はきょとんとして、自分の服装を見直す。
「どうした、って……新藤さんは見慣れてるじゃないですか」
「のっけから魔法少女なんてあの日以来だ」
「ふふっ、そうですね。この公園にも縁がありますね」
俺が公園に行こうとして迷子になっていたところを、野々宮が魔法で助けてくれたことが、知り合いになったきっかけと言えるだろう。
意欲や気力を奪う五月病と戦った場所もこの公園だった。思えばあれから、ヒーロー活動が忙しくなってきた気がする。
それなりに戦えるようになってきたつもりだし、気軽に話せる知り合いも増えてきた。何よりヒーローのことを隠さずに話せるのは嬉しい。
サトーと二人だった頃と比べれば、と考えたところで気付く。サトーのことを忘れていた。
「サトーに言っとかないとなぁ……ま、魔法界に行くって」
魔法界、と言葉にして思わず口元が緩んでしまう。
野々宮は半眼気味にこちらを睨みつけ、不愉快そうに唇を尖らせた。
「恥ずかしそうにしないで下さい。私だってヒーロープロジェクトはないなー、と思ってますからね」
「わかってるって、ついだよ、つい」
反論したって泥沼になるのは目に見えている。お互い伊達に五年、六年もヒーローや魔法少女を続けてはいない。
俺の非常識に対する価値観は麻痺しているところがあると、少なからず思っているのだ。
そんなことを考えているうちに、携帯電話に伸ばした手は止まっていた。
「それで魔法界にはどうやって行くんだ? お迎えでも来るのか?」
「昔は空飛ぶ馬車があったそうですけど、今の魔法界にはそんな余裕はないと思います」
「じゃあ、どうするんだ?」
俺が訊ねると、野々宮はポケットから一枚の紙を取り出した。
「魔法陣ですっ!」
そう言って突きつけられた紙には、面倒くさそうな図形が詰め込まれた円が書かれていた。
呪文も変身バンクもない魔法少女が魔法陣なんて、本格的すぎやしないか。
「……描けるのか、これ」
「大丈夫ですよ、初めてじゃないんですから。正確なら大きさは関係ありませんしー、っと」
自分で言うだけのことはあるようで、野々宮はちょいちょいと器用に魔法陣を描いていく。ステッキで。
決して光の軌跡が浮かび上がるとかではなく、がりがりと地面を削るように。うん、何だか安心した。
しかし、野々宮は気付いていないようだが、この魔法陣では――
「出来ました! ここに入って下さい、魔法でワープな感じになりますから」
「それはいいんだが、狭くないか?」
「えっ」
直径一メートルあるかないかといった魔法陣、大きめのフラフープくらいか。手癖でパパッと描いてしまった結果だろう。
野々宮は困った顔で魔法陣を見下ろしている。
「と、とりあえず入ってみません?」
「まぁ……そうだな」
狭いと言ったのは俺の目測に過ぎない。入ってみれば案外広いのかもしれない。
俺たちは薄々無理があることに気付きながらも、二人で魔法陣に入った。あ、駄目だ、狭い。
そして、顔が近い。今までだってわりと近い距離感で接してきたけど、あくまで隣同士である。
溜息が相手に届く距離。しかし、不用意に魔法陣の外に出てしまっていいものか判断できず、動くに動けない。
野々宮は上目遣いで俺をうかがうようにして、曖昧な笑みを浮かべた。
「か、描き直しますねっ」
「……この状態の後、時間をかけて魔法陣を描き直すのか?」
「今すぐ行きましょう! ええ、そうしましょう!」
ほぼ密着したまま魔法界へ行く恥ずかしさと、この雰囲気を引きずって魔法陣を描き直す気まずさ。野々宮は前者を選んだ。俺も賛成だ。
「では、行きます!」
「……衝撃があるとか、はみ出したら死ぬなんてことはないよな?」
「大丈夫ですよ。まぁ、心配ならもう少しくっついてもらっても構いませんけど……」
「いやっ、そういうことならいいんだ」
「そ、そうですよね」
これから大変だというのに、何が何だか。
しかし、野々宮が集中し始めると、それまでの雰囲気は一気に吹き飛んだ。
地面に描かれた魔法陣が青白く輝き出して、周囲の木々が風に揺れるようにざわめく。不思議なことに魔法陣の上は無風状態で、外側と内側にズレが生じているようだった。
公園に吹き荒れる風は徐々に勢いを増していき、魔法陣を中心として渦巻いている。
風に乗って光が煌めく。やがて、白い光が目の前を埋め尽くし、魔法陣ごと光の渦に包まれた。
「お、おい、目立ちすぎてないかっ!?」
「いいえ、既に公園は静寂を取り戻していることでしょう。私たちは魔法の世界に入りかけているんですよ」
まるで光の嵐である。
俺は野々宮の手を掴んでいた。別にどさくさ紛れにとか、そういうことじゃない。ちょっとバランスを崩せば、野々宮なんか吹っ飛んでしまいそうで怖かったからだ。
しかし、野々宮は素敵な笑顔で叫んだ。
「もっと眩しくなりますよ、目をつぶってて下さいっ! 開けたら、そこは魔法界です!」
野々宮の笑顔を惜しみつつ、我慢できずに目を閉じる。それでも光は問答無用で、俺のまぶたをノックする。
とてつもなく長く感じた数十秒後、唐突に光が消えた。
薄らと目を開けるが、視界が白く塗り潰されているようではっきりしない。目が慣れるまで、少しかかりそうだ。
「新藤さん、大丈夫ですか?」
「ああ……ここは何処だ?」
答えはわかりきっているのだが、あまりにも視界が悪いので訊ねてしまった。
野々宮が嬉しそうに、くすくすと笑った。
「もちろん、魔法界ですよ!」




