3.6 紫電一閃
週明けの月曜日は朝から土砂降りの雨が降っていた。
授業が終わっても降りは強く、野々宮にきつく言われたこともあって、この日は部室で時間を過ごした。
午後六時を過ぎて、だいぶ降りも収まってきていた。
靴を履き替えて、外に出て、傘を差す。このひと手間が雨を好きになれない理由である。
「あれ、傘が……あぁ、部室だ……」
後ろでは野々宮がうなだれていた。傘を部室に忘れてきたらしい。
「ひとっ走り取ってこようか」
「ありがたいですけど、新藤さん靴履き替えてますから、申し訳ないです」
確かに玄関の外まで出てしまっているのに、戻るのは面倒だった。
俺が考えているうちに、野々宮は脱ぎかけてた内履きを履き直した。
「先に歩いてて下さい。すぐに追いつきますから」
「雨降ってるし、走れないだろ。今日は一人で……」
「じゃあ、荷物持って下さい。絶対に追いつきます!」
妙な気迫に負けて、野々宮の鞄を受け取ってしまう。
野々宮は近くの階段を大きな音を立てて駆け上がっていった。教師に怒られないことを祈る。
このまま野々宮が戻るのを待ってようかと思ったが、意外と誰もいない生徒玄関は寂しい。
「……ゆっくり歩くか」
未だに決まらない必殺技の名前を歩きながら考えよう、と思った。
しかし、二つの鞄を持って傘を差すという芸当は思いのほか、鞄の持ち心地が悪い。
野々宮の鞄ということもあり、雑な持ち方はできないぞ、と気負ったのも原因だろう。
「おい」
声をかけられて、ふと辺りを見回す。不思議なことに住宅街ではなかった。
ここ数日、登下校に利用していた田舎道だ。
「……黒染?」
「今日も一人で遠回りなのか?」
雨の中を傘も差さずに立っている黒染がいた。
周囲を気にせずに歩いていたため、癖でこちらに足を向けていたらしい。
嫌な予感がする。野々宮がこちらに走ってくれるなんてことは、ないか。
「と、とりあえず、電話を……」
「何があった」
「野々宮と帰るつもりだったのに、こっち来ちまった!」
黒染は心底馬鹿にするように、やれやれと両手を挙げて肩をすくめた。
そんなものは無視して電話をかけると、息も絶え絶えな野々宮が出た。
「ど、何処まで歩いてるんですか……全然、追いつけ……ませ、ん」
「あー、悪い、つい田舎道の方に来てた。黒染もいる」
「……行きますから、もう、そこにいて下さい」
「……はい」
通話が終わり、黒染が待っていたように話し出す。
「俺がいることを言う必要はあるのか?」
野々宮への謝罪は後で考えるとして――最近、謝ってばかりのような気がする。
とにかく、黒染にサトーから聞いた情報を伝えておかなければならない。
「ちょっと話したいことがあるんだ」
俺は廃工場が組織のアジトになっており、新たな怪物を生み出していることを教えた。
黒染は反応することなく黙って聞いていたが、一通り話し終えたところで、ようやく一言。
「まさか、お前は囮か……?」
やけに真剣な声で何を今更なことを、と思った。
「いや、そうなんだろ?」
「雑魚の相手に専念させて、俺を……ちっ」
舌打ちして跳躍の予備動作を始めたので、俺はとっさに肩を掴んだ。
黒染は肩にかかる俺の手を乱暴に振り払い、苛立った様子で怒鳴る。
「止めるな!」
「理由も聞かずに行かせるか」
「……奴らの狙いは俺の無力化だ。組織に手が出せないよう、お前を囮にしてな」
「時間稼ぎってことか? そうなると――」
「ああ、ろくでもないことをしてるはずだ」
野々宮の見立てはほぼ的中していたようだ。
それではアジトで怪物が作られているのか、それとも別の何かか。何にしろ、危険なことには変わりない。
「黒染が強いのはわかってるけど、情報なしで突っ込んだって危ないだけだ!」
「こういうときに正論吐く奴と、大声出す奴は馬鹿だ」
「なっ……でも、組織が黒染をターゲットに動いてたとすれば、罠を張ってる可能性が」
「危険性を繰り返したところで、俺が止まると思うか?」
俺は黒染を引き止める言葉を考えるが、とっさに思いつくものではない。
覚悟を決めた男ほど馬鹿なものはなく、そいつを止められる言葉というのは限りなくゼロに等しい。
それでも何か言わなければ。苦し紛れでもいい。
「……黒染は相手を馬鹿にする側だろ、冷静になれよ」
「冷静に手遅れを待つより、馬鹿になって突撃した方がマシだ」
「誰に聞いたって単純だって言うぞ、人助けってのは自己犠牲すればいいってものじゃない!」
「熱くなってる奴に熱い言葉ぶつけたところで、昂らせるだけなんだよ、馬鹿」
黒染は、一瞬息が止まるほどの力で俺の胸を押した。
よろけて荷物を落とし、咳き込んでいる俺を見下すように、捨て台詞を吐く。
「煽りたきゃ勝手に喚いてろ。俺に言うことを聞かせたければ、もっと綺麗な言葉を並べるんだな」
それだけ言い残すと黒染は雨の中を駆け抜け、一度の跳躍で姿も見えなくなった。
俺は息を整え、落としてしまった鞄と傘を拾う。
すぐに追いかけなければ、そう思っていると、誰かが走ってくる音が聞こえた。
「し、新藤さんっ! 遠目に、見えて、黒染さんは……?」
何処から走ってきたのか、謝りたいほどに野々宮の声は息切れしていて聞き取りづらい。
しかし、今は悠長に野々宮の回復を待っている時間はなかった。
「悪い、黒染を追う。廃工場だ。サトーにも連絡してくれ、鞄と傘は任せた」
思いつく限りの連絡事項だけを一方的にまくし立て、野々宮の返事も聞かずに飛び出した。
俺も人のことは言えない。今、野々宮に止められて、止まるはずがない。
「――くそっ」
俺が馬鹿なのはある程度自覚していたが、お前だって馬鹿じゃないか、黒染。
+ + +
雨の中を全速力で走ったつもりだったが、全身びしょ濡れで廃工場に辿り着いたときには、辺りはすっかり真っ暗になっていた。
午後七時くらいか。そうだとすれば、三十分は経っているだろう。時間を確認する暇はない。
町の外れまで来ると電灯は少ないが、戦闘の大きな音がたびたび聞こえるので迷うことはなかった。
それに戦っているということは、まだ無事だということだ。
「黒染っ!」
音がしていた廃工場に飛び込むと、黒染よりも先に怪物が目に入った。
当然だ。
「……でけぇ」
象のような亀。ゾウガメではない。象のような大きさの亀の怪物がいた。
正確には亀なのかすらわからない。巨大な黒い甲羅が緩慢な動きをしているだけだ。
床には黒い犬の怪物がごろごろと転がっており、ほとんどが潰れている。
亀が移動する先には、果敢に攻撃を続けている黒染の姿があった。
「黒染!」
「……そりゃ、来るだろうな」
二人で壁際まで走る。亀はあまりにも遅く、それだけで息を整える余裕ができる。
戦っていたはずの黒染は俺よりも真っ直ぐ立っており、疲労の色も見えない。
しかし、衣服はボロボロで腕の包帯も裂けている。顔の包帯だけは巻き直したように見えるが、黒染がここまでやられるとは思わなかった。
「お前が来るまでに始末するつもりだったが……」
「どうして、そんなボロボロに……」
「さっきまでは犬も元気に駆け回って、噛みつき回ってたんだ」
言うまでもなく亀と同時に相手をしてたのだろう。
俺がもう少し早く到着していたら、入った瞬間に噛み殺されてたかもしれない、俺が。
「あの亀は硬くて重い。殴っても蹴っても、ビクともしない」
黒染の攻撃が効かないのであれば、俺がどんなに殴ろうと無駄な気がする。
一応、必殺技の原型らしきものはあるが、それを試すには亀は重量級すぎる。
「動き回っていれば、時間は稼げるのか?」
「今のところはな。だが、一生、廃工場の中で亀とレースする気はない」
「……情けないけど、野々宮が来れば魔法で」
そのとき、廃工場の入り口で物音がした。
野々宮とサトーが来たのかと思ったが、そこに立っていたのは知らない奴だった。
服を着て人の形をしているが、明らかに顔は犬――と、いうよりは青い目をした狼。
狼男はそこら中に転がっているのと同じ犬の怪物を数十匹は引き連れている。
「ガルルルル……」
不気味な唸り声に思わず後ずさる俺に対し、黒染が一歩前に出た。
「威嚇したけりゃ、人間の言葉で話せ。ワン公」
「……キサマヲ、コロシテ、ホカクスル」
解釈したくない言葉に嫌気が差す。組織には美的センスどころか、倫理観を持った人間もいないらしい。
黒染は振り向かずに俺に言った。
「亀の世話してろ。俺は犬のしつけをしてくる」
「……わかった」
黒染が飛び出す。その動きに反応し、群れから抜けだした一匹を、軽くかわして蹴り飛ばす。
そのまま乱戦に突入したが、いつまでもよそ見をしてはいられない。
俺は亀とのレースを任されて、奴に追いつかれてはいけないのだ。
「こっちだ!」
必死に自分を奮い立たせ、巨大な黒い亀を呼び寄せる。
俺は怪物に好かれる性質らしい。黒猫のように亀が俺に向かって移動を始めた。
動きは遅いが、巨大な生き物が接近する迫力は、根源的な恐怖が込み上げる。
それでも慣れれば右往左往しているだけの作業だ――と、思ったのだが。
「……まずいな」
黒染は犬と狼男を片付けるまで引き付けておけ、という意味で言ったのだろう。
俺も下手なことはしないつもりだが、このままでは確実に追いつめられる。
入り口付近での乱戦が激しくて、俺が逃げ回れる範囲は敷地の半分になっていた。
黒染も苦戦していた。狼男の強さは本物だったし、犬も統率のとれた動きをしている。
あのままではジリ貧だろう。そして、俺は一撃でぺしゃんこだろう。
壁際を背に、転がっていた金属片を亀に投げつける。甲羅にぶつかり、鈍い音で弾かれた。
生半可な攻撃では効果がなく、俺は瞬く間に潰されてしまうだろう。
果たして、俺の必殺技は亀の甲羅を貫けるのか。
ゴゴゴ、と重低音を響かせ、亀が迫る。もう考える時間も残されてはいない。
拳を振りかぶった。必殺技、ヒーローらしく、格好よく、その名は。
「え、えっと、くそっ――ヒーローパンチ!」
センスの欠片も感じられないネーミング。
俺は破れかぶれに叫び、これでも最強の技なんだという気持ちで、精一杯に殴った。
拳が甲羅に触れる。貫く感触もなければ、ひび割れることもなかった。不発か、駄目か、諦めない。様々な感情は巡るが、ダメージは通らない。
――だが、亀の巨体が浮き上がる。
「えっ!?」
俺も驚いたが、視界には吹っ飛んでいく亀とその先で行われている乱戦。
「黒染っ、避けろ!」
俺の声が届いたのか、死闘を繰り広げていた黒染と、狼男もその場を離れる。
その数秒後。ドスン、と隕石でも落ちたのではないかという爆音と衝撃。
戦場に数匹残っていた犬たちは完全に下敷き。
ひっくり返った亀も身動きが取れないようで、無力化したと言っていいだろう。
「……やった」
ヒーローパンチ。
思い返せば情けない名前で、威力も低いようだ。ただ、どんな相手でも確実に吹っ飛ぶ。
あの黒猫を吹っ飛ばしたときと同じ感覚がした。威力が下がったのは、ネーミングの問題だろうか。
俺は周囲の状況を把握しようと動き出す。
狼男は姿を消しており、これ以上、戦闘になることはないと判断してよさそうだ。
「黒染は……」
亀の巨体は倒れていても邪魔で、黒染の姿がなかなか見つからない。
最悪の事態が脳裏をよぎり、思わず亀の下を覗く。いや、確かに避けていた。
狼男を追ったのかと思い、廃工場を出ようとすると、身体を引きずって入り口まで辿り着こうとしている黒染がいた。
「おい、何処に……」
俺は目を疑った。
後姿の黒染の後頭部に髪が見える。ボロ布のように散り散りになった黒包帯、引き裂かれて使い物にならないジャケットが近くに落ちていた。
黒染の上半身は黒シャツ一枚、それも所々が裂けて、地肌が露わになっていた。
心配して駆け寄り、黒染を止めようと前に立ちはだかる。
「くろ、ぞっ……ぁ」
俺は黒染の素顔を目にした。
醜いと自己申告されて覚悟はしていたが、正直舐めていた部分もあった。
俺はもし顔を見ることがあったら、何と言おうか考えていた。
意外とイケメンなんて褒めるつもりはなく、ブサイクだなぁと笑い飛ばすつもりもなかった。
いや、無反応でもいいか。ふーん、と興味なさそうにするだけでもよかっただろう。
まさか、戦いを終えた後の一番格好いいヒーローの顔から――目をそらしてしまうなんて。




