⑤ルイとオヅマと的場君。
オヅマがこの借家に移り住んできてから、ひと月ほどになる。隣に住むのが、オヅマの勤める小学校に通うルイの家だということは、後から知った。互いの存在を確かめ合うと、隣人夫婦は急に愛想よく、そして同じくらいによそよそしくなった。
百瀬ルイ。彼女はだれとも話をしない。級友たちとも、家族とも。もちろんオヅマの問いかけにも、最初はなかなか応じてはくれなかった。皆といっしょに行動することができない彼女は当然のように孤立し、別室で取り出し授業を受ける時間が長くなった。
昨年まで講師の立場だったオヅマは、空き時間のすべてをルイと共に別室で過ごし、多少の信頼を得ることに成功していた。年度が変わり、新採としてクラスを受け持つようになると、忙しさにかまけて彼女と顔を合わす機会がぐんと減った。
だれもいない階段に座り込むルイの姿を、何度も見た。長い影をグラウンドに伸ばした内履き姿のルイが、ランドセルの中をかき回しながら何かを探しているのを見ると、胸が締め付けられた。たまらず、現担任の不興には気づかないフリをして、強引に両親とルイとオヅマで話し合いの場を設定したのだ。
「小津先生? いらっしゃいます?」
擦りガラスの向こうでオヅマを呼んだルイの母親は、続けて呼び鈴を鳴らし、返事がないと見るや夫に文句を言った。しばらく相談し続ける夫婦の背後で、玉砂利を踏む音が響いた。
「あら、ルイ。お帰り。的場君のお家は楽しかった?」
猫なで声。反応がないと分かっているというのに、なんとか機嫌を取ろうとやっきになるのは、なにも悪い兆候ではない。
くふん、とルイが咳をするのが聞こえ、母親が駆け寄る気配が続いた。くふん、くふん、と徐々に小さくなっていく咳の音を遠くに聞きながら、オヅマは高い天井と小さな自身の手のひらを見比べていた。
「おれに……おれなんかに、何ができるんだろう」
人生経験はもちろん、教師としての力量もない自分が、ほんの少しルイとうまく接したからといって何を浮き足立っているのだろう。
「でも」
何もしないで知らぬふりを決め込むのは、違うのではないか。
「……でもなぁ」
腕組みをして天井を仰いだオヅマは、擦りガラスとアルミ戸の障壁をにらみ据え、「でも、でも」と口の中で繰り返した。
それでもやるしかないのだ。できるところまで。
「夜が明けたら、普通のサイズに戻れるかも知れないし」
楽観的なのは、悪いことではない。笑いがこみ上げてくるほどに大きなスニーカーの小山によじ登り、廊下の向こうを何度も確認した。全身を使ってクツ紐の結び目を解き、穴から引っ張り出す。それをくるくる肩先で丸めると、電話台の突起に飛びついた。これを伝っていけば、玄関の引き戸に付けられた新聞受けから外に出られるかも知れない。