④遅刻は厳禁!
違う、とオヅマはかぶりを振った。周りが大きくなったのではない。自分が小さくなっているのだ。どういう理屈か知らないが、オヅマは転んだ拍子に小人のように縮んでしまったものらしい。
「ネズミ!」
弾かれたように飛び上がる。自分が小さくなったのであれば、対峙していたネズミはどうなのか。息を殺して辺りをうかがうが、爆撃機のような電話の呼び出し音に阻まれて、他には何も聞こえない。とりあえず電話台の側まで走り寄って、身を隠せる場所を探した。転んだ拍子に玄関先まで飛ばされているのが幸いし、ネズミのいるコートからは距離がある。
普段ならなんとも思わないような段差が、今のオヅマには断崖に思える。自身の何倍もあるかと思えるスニーカーにへばりついて石のタイルに降り立つと、巨大な擦りガラスの壁を見上げた。
「なんだよ、これ。外には出られないじゃないか」
このままここにいては、ネズミがかぎつけてこないとも限らない。オヅマは内カギの辺りに狙いを定めて飛び上がったが、まるで届かない。
黒電話はすでに鳴り止んでいる。オヅマは尻ポケットに手をやって、ケイタイ電話を引っ張り出した。オヅマのケイタイ電話には、赤青ふたつのトンボ玉のストラップが付いている。そう言えばそれが引っかかって転んだのだ、とオヅマは舌打ちする。よくよく見ると、赤いほうのトンボ玉が消えていた。
「やっぱり、ガスコンロに引っかかったときに取れたんだな」
電源を入れる。ところが、何度押してもディスプレイに変化は無い。半笑いだったオヅマの口元が、すぐに固まった。唾を飲み込む音が、ごきゅり、と響く。急に心細くなって、ひとつきりの青いトンボ玉を握り締めた。
そのとき、オヅマのすぐ近くでだれかの息づかいが聞こえた。ケイタイ電話に気を取られていたオヅマは、はたと動きを止める。
(ネズ……ミ? いや。違う?)
その規則正しい呼吸音は、家の中ではなく擦りガラスのすぐ向こう側から聞こえてくる気がした。
「どうして今さらそんなことを言うのよ! 先生だって忙しい中、わざわざルイのために時間を割いてくださっているのよ」
「先生がルイに親身になっているように見えるのは、それが仕事だからだよ」
鼓膜が破れるかと思うほどの大音量で飛び込んできたのは、隣に住む夫婦の会話だった。
「結局あなたは、ルイのことなんてどうでもいいのね!」
「そんなことはない。ただ、明日は無理かも知れないと言っているだけで……」
オヅマが必死で設定してきた面談は、今までにも何度も流れてしまっている。
「マズい。明日を逃したら、次にいつ引っ張り出せるのか、分からないぞ」
オヅマは唇を噛み、そびえ立つ擦りガラスをにらみ据え、ため息を取り落とした。