②絶対に踏まない!
人類が地球上で生活するのに、もっとも大切なもののひとつ――それは、オヅマの体ときしむ床板とを密接に関連付けるもの――重力。
なぜか突進してくるネズミを避けようと、ぶかっこうな姿勢で躍り上がったオヅマの体は、ものの見事に下降した。ふてぶてしい害獣は、ぴたりと動きを止め、黒々としたひとみで、きゅ、とオヅマを見上げた。
ネズミというものは、本来、人間を恐れるのではなかったか。
「マズい!」このままでは、踏んでしまう。
手当たり次第に腕を伸ばし、傾いていく視界の中で無我夢中に何かをつかみ取った。壁に打ち付けたクギ――から伸びた針金ハンガーだ。
(よかった……あぁ?)
それもつかの間。手の中にあった感触が、急に不確かなものに変わる。頼りないハンガーが外れ、かけてあった春物コートがぬるりと落ちた。
はじめに。宙をもがいていたむき出しの左足が、タワシのようなものに触れた。ひやりと背筋に寒気が走り、右足が床に着くや否やそれを軸足に、もう一度飛び上がった。
(嫌だ。踏みたくない。絶対に……絶対に!)
膝を抱えて滞空時間をかせいだオヅマより先に、カーキ色のコートが床に落ちた。腕を伸ばしうつ伏せ状態に広がったコートは、窮屈な廊下を占領しネズミの姿を完全に隠してしまった。
これ以上は無理、という限界ぎりぎりの可動範囲で股関節を広げ、腕を壁に突っ張ってみる。あとは、できるだけ遠くに足を落とした。
「ちょっとなんか踏んだかも!」
涙目になって振り仰いだオヅマが見たものは、コートの下でもぞもぞ動き回る膨らみだった。
「なんでこんなところに、ネズミがいるんだよ」
どこから入ってきたのだろうか。
古びた平屋の借家とはいえ、窓には網戸が張られ、玄関は擦りガラスのはめ込まれたアルミ戸でふさがれている。心配性のオヅマが施錠を忘れるはずはなく、この害獣がどこから入ってきたのか、まるで分からない。
「いや……もしかしたら」
たったひとつ、思い当たるところがあった。
開かずの四畳半。この家には、和室・洋室の続き部屋のほかに、廊下の奥まったところにカギのかけられた和室があるらしい。住人であるにもかかわらず、推定でしかものが言えないのには訳がある。オヅマはその四畳半に入ったことがないのだ。
大家が言うには、前の住人の落ち度で畳の床を腐らせてしまい、新しく工事するには資金が足りないのだそうだ。ならば前の住人が調達するのが筋というものであろうが、だいぶ歳を重ねていたらしき彼に厳しいことを言うのも酷とのことで、そのままカギをかけてしまうことに落ち着いたものらしい。