①オヅマと害獣。
35歳という微妙な年齢の「新米」教師、小津 真・通称オヅマは頭を抱えていた。昨夏、いくつもの困難を共に乗り越え婚約したはずの恋人が、結婚式の前日に忽然と姿を消した。その上それらの後始末をしている最中に、多額の借金があることが田舎の両親に知られてしまった。以来オヅマは、毎日のようにかかってくる母親の嘆きの電話攻撃にさらされている。
母親ときたら、日ごろ黒板の前で教え子相手に熱弁をふるうオヅマのことを完全に子供扱いし、「かわいそうに」だの「今度はきっとうまくいく」だの、まるで幼子に言って聞かせるように繰り返すのだ。
「もういいから。仕方ないよ、彼女とは縁がなかったのさ」
今夜もいつものとおりに同じセリフで応戦し、テストの採点をするという名目で話を終わらせ、ついでにケイタイ電話の電源も切ってしまった。
そして、気づいたのだ。狭い玄関から続く短い廊下で、もぞもぞ動き回る物体がいることに。やつは長いしっぽをちろちろさせて左右に行き来し、オヅマなんかまるでいないかのように振舞った。
「害獣!」
頭の中をよぎったのは、田舎の土蔵に仕掛けてあった罠だ。オヅマの田舎は日本有数の米どころで、「やつら」を見ない日はないというほどだった。
「……ネズミ」
ぶるりと身を震わせる。オヅマはネズミや昆虫、果ては犬猫でさえ触ることができない。幼いころから「情けないやつ」と散々ばかにされてきたものの、嫌いなものはやはり、どうあっても、嫌なのだ。
「どうしよう」
あたふた視線を泳がせたあと、オヅマはゆったりとケイタイ電話に目を落とした。こんな理由で呼び出せる気の置けない仲間をオヅマは持っていなかった。
「だとしたら……害獣駆除の業者に、電話……」
たしか、古い電話帳があったはず。それは、この借家の前の住人が残した大量の日用品と共に狭い裏庭にまとめてあった。
電話帳、と夢見るようにつぶやいて、廊下に顔を向ける。
「……いる。まだ」
わななく指先で、確認する。このままここに落ち着かれては、安心して眠ることもできない。
かさかさかさ。
独特の微細音をさせて、ネズミは狭い廊下をずんずんこちらに向かってくる。
「おわわわわ」
全身をあわ立たせて、渾身の力をしぼり出す。コトバにならない悲鳴を口の中で爆発させたまま、オヅマは古い床板をけり上げた。重たい体が、わずかに宙にはね上がる。
――今! おれの真下をネズミが走っている!!