潜る
事務所に戻っても何も言わないネコの背中を抱くと、ネコは平気だと言って俺の手を優しく叩いた。
「…済まない。」
「何とも無いよ…何で柴さんが謝るの?」
「アレは…俺の友人だ。」
ネコは俺の腕をスルリと抜けると、事務所の窓を開け空を眺めた。
「新宿って…星が見える所無いのかな…。」
「星が見たいのか?」
「…空…明るくて、星なんか見えないか…。」
しばらく黙って空を眺めていたネコの堪え切れない涙が、眦からポタリと落ちた。
「松田先生の妹さんの話、京子さんに聞いたから…柴さんが気にする事無いよ。」
母子家庭で、水商売をしていた母親を嫌った松田の妹は、今のネコと同じ歳に家を飛び出した。
松田が発見した時には、薬欲しさに路上で袖を引く生活をしていたらしい。
どれだけ更正施設に入れても脱け出せず、最後にはHIVに感染しボロボロになって亡くなった。
その後の調査で、妹に薬を教えたのも、袖を引く生活を教えたのも、共に路上で知り合い生活を共にしていた同年代の仲間達らしいという事だったが、詳しい事は何もわからなかった。
「アイツは、ホームレスも、路上でたむろう若者の事も憎んでる…。」
「…うん。」
「それ以上に、妹を救えなかった自分を憎んでるんだ。」
「帰れないのも、待つのも…どっちも辛いね。」
「済まない。」
「…柴さん…少し、出掛けて来てもいい?」
「これからか!?」
「…うん。」
「一緒に行こう。」
俺が再び上着を手にすると、ネコは首を振った。
「1人がいい。」
「…ネコ。」
「1人じゃなきゃ駄目なの。」
「…駄目だ。」
眉を寄せる俺に、ネコは曖昧な笑顔を向けた。
「大丈夫だよ、柴さん…ちゃんと帰って来るから。」
ネコは自ら俺の懐に入り込んで、背中に腕を回す。
「私の帰る場所は、柴さんの所だけだもん。」
「ネコ…お前を追っている奴等に、ここに居る事はバレてるんだ!もし、1人で居る所を襲われたら…!?」
「…ちゃんと逃げて帰るから…ここは、安全なんでしょ?」
「あぁ…兄貴も守ってくれてる。せめて、誰か護衛を…。」
「駄目だよ、1人じゃなきゃ。携帯持って行くから…マナーモードにして音は鳴らない様にするけど、電源は落とさないから。」
「…潜りに行くのか?」
何も言わず、ネコは俺を見上げた。
「出て行っちまう訳じゃねぇんだな!?」
「違うよ…帰って来る…出来るだけ毎日帰るから。」
「…どうしても、行かなきゃならねぇか?」
「…行きたいの…駄目?行ったら、もう置いて貰えない?」
「そうじゃねぇ…だが、もしそう言ったら…行くのを止めるか?」
ネコは、小首を傾げると少し寂しそうな顔をして微笑んだ。
「…ちゃんと戻って来い…何かあったら、いや…何も無くても連絡を入れろ!!いいな!?」
「うん、出来るだけ入れるから。」
「絶対だぞっ!?」
俺はネコの躰を抱き込んで唇を奪った…ネコがこのまま眠くなってくれれば…そう思いながら舌を絡めて吸い上げ、口唇を貪った。
唇が離れると、ネコはスルリと腕を脱け寝室に籠り…出て来た時には、始めて来た時と同じ格好をしてドラムバッグを抱えていた。
「冗談じゃねぇ!!この2月の寒空に、そんな格好で…何考えてるっ!?」
「平気だって…心配症だな、柴さん…こんなの、普通じゃねぇか?」
「…ネコ、お前…。」
来た時と同じ男言葉で喋るネコに、俺は背筋が冷たくなった。
「上着だけでも、ちゃんと暖かいのを来て行け…。」
「平気だっつったろ?」
「お前…わかってねぇのか?一度飼われた猫は、野良には戻れねぇ…外の風は冷た過ぎるからな…。」
「…コレは、制服で戦闘服なんだ。もう一度捨てられた野良猫にならないと、潜れない場所も有るって事さ。平気だって…京子さんにだけは、連絡しといてくれよ?じゃないと、アンタが叱られちまうからな。」
「せめて、コレを巻いて行け…。」
俺は部屋の隅に投げてあった自分のマフラーを、ネコの首に巻いてやった。
「何しに潜りに行く?」
ネコはニヤリと笑い、質問には答えずに言った。
「2週間後の検査の結果、ちゃんと聞きに行くからさ…結果も、ちゃんと連絡するから心配すんなよ。」
「…ネコ。」
「大丈夫だって、心配すんなよ!あ…そうだ…探したりしねぇでくれよ!それこそヤバイから…。」
ニヤリと笑い、じゃあなとネコは入口のドアをすり抜けて行った。
「連絡は?」
「…丸4日間…何も無い。」
「携帯は?」
「電源が切れた様だ…。」
電話の向こうで、京子が深い溜め息を吐いた。
最初の内、ネコは2日置き程で部屋に戻っていた。
明け方に戻ってシャワーを浴びると、俺の腕にスルリと入り込んで爆睡する。
俺は、帰る度に痩せ細って、疲れ切って行くネコの躰を抱き込んでやる。
夕方迄爆睡したネコは、何も食べずに又同じ格好をして出掛けて行く。
「柴…アンタ、あの子に何調べさせてんの?」
「俺がさせている訳じゃねぇ…ただ、無理に止めると…出て行っちまう覚悟だけはわかった…だから、好きにさせてるだけだ。」
「…私の事、誤解したまんまなんでしょう?」
「…。」
「言えば良かったのよ…そしたら、松田だって…。」
「…俺が言うべき話じゃねぇだろ…。」
松田も昔の仲間も、京子が俺の事をずっと想っていると誤解している…確かに、そんな時期もあったし、本人から直接言われた事も有る。
「柴…アタシにしときなよ…アタシならアンタの事裏切らないし、理解だって出来る…。」
「…悪いな、お京…今更お前の事を、女には…。」
「失礼な奴…。」
「俺は、ダチを失いたくねぇんだ…。」
「それ、スッゴイ残酷な事って…アンタわかってる?」
「済まねぇな。」
「あー…アンタって、昔からデカイ女にゃ興味無わよね!?」
「…あぁ…俺は昔から、小さくて可愛い女が好みだからな…。」
女に振られて族に入って荒れてる頃、京子とそんな会話をした…それ以来、2人の間に恋愛を感じさせる会話や行動は一切無い。
そういう割り切りの出来るさっぱりした気性が気に入って、中学以来ずっとつるんでいるのだ。
その京子が恋をした…相手は、当時警察で俺とバディを組んでいた男…族上がりの俺達に色眼鏡を掛けない、優しい気遣いの出来るイイ奴だった。
気が合った3人でよく飲みに出掛け、色んな事を言い合って…気が付けば、2人の間に恋愛感情が芽生え恋人同士になっていた。
問題だったのは、相手の男に妻子が居た事…警察官の不倫は御法度だ…だから、2人の関係を知るのは俺だけだった。
「…柴…人事が動いてる…。」
その男が青い顔をして、俺に告白した。
『人事が動く』とは監察が動く事…他にやましい事の無いソイツの狙われる理由は、京子との不倫以外に無かった。
「何か言って来たのか!?」
「いや…まだ、証拠固めの段階だろう…。」
監察に睨まれ証拠が固まると、上からやんわりと自主退職を勧められる。
それを断れば…年金も付かない免職処分にされてしまう。
そんな時、事件は起きた…拳銃を持った凶悪犯を追跡中、無茶な行動に出たソイツの腹に、犯人の発砲した銃弾で風穴が開いた。
「いつも慎重なお前が、何やってる!?待ってろ!!すぐに救急車を…。」
「柴…いい…どうせ助からん。このまま、逝かせてくれ…。」
「お前…まさか、わざとか!?」
「このまま殉職したら…2階級特進で、妻子に名誉と金が残してやれる…。」
「馬鹿か、お前!?そんな事…誰も喜びゃしねぇ!!」
「可哀想なのは、京子だ…俺は、京子に何も残してやれない…。」
「なら、生きて残してやれよ!?諦めるな、馬鹿野郎!!」
「柴…頼む…今迄通り京子の傍に…アイツに本当の相手が見付かる迄…傍に…。」
「わかってる!!お京は、俺のダチだ…お前に言われなくても…。」
「…頼んだ…柴…。」
そう言って、京子の恋人は俺の腕の中で逝ってしまった。
以来京子は仕事に没頭している…最近は、少しずつ肩の力が抜けて来たが、浮いた噂はついぞ聞かない。
「何を調べてるか、検討…付いてるんでしょ?やっぱり、松田の?」
「…多分な。」
「そう…私は当分署に泊まるわ…こっちに来る可能性も有るからね。」
「あぁ…頼む。」
「了解…アンタも、ちゃんと躰休めなさいよ!?」
受話器を置いて、溜め息を吐きながら窓の外を眺めた。
昨夜は冷たい雨が、今日は寒冷前線が南下し、夕方からのミゾレ混じりの雨が、夜になって本格的な雪に変わっていた。
あの薄着で…どんなに寒い夜を過ごしているだろうか?
俺は事務所の入口の鍵を開けたまま、寝室のベッドに入った。
夜半、妙な音が聞こえた気がして目が覚めた。
何か、濡れた雑巾を引き摺る様な…事務所の中を確認し、入口のドアを開けた途端に、俺は叫び声を上げた。
「ネコっ!?どうしたっ!?」
廊下の壁を背に、崩れ落ちていたネコの躰は、今水から上がって来たかの様に頭の先から爪先迄グズグズに濡れていた。
「…ただいま…柴さん。」
「何て格好だ、お前…。」
慌てて抱き上げ、風呂場に運んでやる…濡れそぼった躰は氷の様に冷え、ネコは眉を寄せてガクガクと震えていた。
「…脱がせるぞ。」
そう断って洋服を脱がせると、背中や腰、足や腕に至る迄、暴行の後が見られる。
「どうしたんだ、コレ!?」
「…ちょっと…ドジっちまった…大丈夫、腹は遣られて無いから…。」
「大丈夫って…。」
「ちょっとさ…前から目ぇ付けられてた…奴等に…フクロにされて…川に捨てられただけだよ…。大丈夫…今回は…犯られなかったし。」
「…お前…。」
足先からぬるま湯を掛けてやり、段々と熱い湯に慣れさせて躰と髪を洗うと、抱いて布団に連れ込んだ。
「病院行かなくて平気なのか?」
「…ん…。」
「待ってろ、今湿布を…。」
「…いい…要らない…これ以上冷えたら…死んじまう……それより…来て…。」
ベッドの上で、力無く横たわった全裸のネコが、潤んだ瞳を投げ掛ける。
「…暖っためてよ…柴さん…。」
「……馬鹿野郎…真ッパで誘うな…エレクトしちまうだろうが!?」
「……悪りぃな…そんなつもり…。」
「わかってる…。」
俺はネコの隣に潜り込み、いつもの様に腕枕をして抱いてやる。
「…調べ物は…終わったのか?」
「…。」
「まだ寝るな、ネコ!躰が暖まる迄、寝るんじゃねぇ!!」
「…ん……もう少しで…金貸して…柴さん…。」
「幾ら?」
「…3000。」
「3000万か!?」
首筋で、クスリと笑うネコの息がくすぐったい。
「3000円だよ…ハンバーガー奢るって…約束したんだ。デッカイハンバーガー…そしたら…最後の話……聞け…る…。」
「ネコ、寝るなって!」
俺はネコを仰向きに寝かせ、上から躰を密着させて覆い被さった。
「苦しくねぇか?」
「…ヘーキ…あった…かい…。」
耳許で本当の名前を呼ぶと、俺の胸の下でネコの心臓がドキンと跳ねる。
そのまま唇を奪おうとすると、冷たい手で俺の口を塞がれた。
「駄目……口ん中…切れて…。」
仕方無く首筋に唇を這わせ、鎖骨に下りて来ると、ネコは力無く抵抗した。
「…嫌だぁ。」
「怖がるな…最後迄しねぇから…躰暖めるだけだ…。」
「柴さん…怖いょ。」
「ネコ…触ってるのは俺だから…。」
スルリと躰を撫で下ろすと、触れる毎にネコは息を上げていく。
「…柴さん…何か…。」
「力抜いて…感じてろ…。」
「…足に何か…当たって…。」
「…そっちは、気にするな。」
震えながら息を上げるネコの躰が、ほんのりと暖かみを増していく。
「柴さんっ…柴さんっ…。」
切羽詰まった様な声を上げるネコの腕を、自分の首に回す様に導いてやると、俺の首にしがみつきながら、ネコは悩ましい声を上げ続けた。
「…柴さぁ…ん…。」
「お前…反則だぞ…。」
啜り泣きながら腰を持ち上げ、喉を仰け反らせるネコの首筋を甘噛みしてやると、ネコはカクカクと震えて布団に沈んだ。
「…大丈夫か?」
すっかり暖まり、しっとりと汗を滲ませる躰を抱いてやると、そのままネコは深い眠りに落ちて行った。
「柴さん…行って来るね。」
翌日の昼過ぎ、俺から金を受け取りながら、ネコは恥ずかしそうに言った。
「帰りに、松田先生の所行って来るね。」
あの時、何故付いて行かなかったのか…俺は後々迄後悔した。