話す
『音戸乃良』と書いて『オトベナオ』…ネコは、そう布団の中で告白した。
そうか…『音戸』は『ネコ』と、『乃良』は『ノラ』と読める。
だから野良猫だったのかと聞くと、コクンと頷いた。
小さな頃から住居を転々とし、学校には行けなかったと言った…勉強は、親が見てくれていたらしい。
逃げ回っていたのだ…当然、住民登録等出来ない生活だったのだろう。
それでも、両親の婚姻届けと、自分の出生届けは、きちんと出してくれてるんだってと、ネコは嬉しそうに笑った。
そんな当たり前の届け出でこんな笑顔を見せる程、家族の生活は緊張の連続だったのだろう。
「そうなのかな…でも、それが普通だと思ってたから…お父さんもお母さんも、いつも笑ってたし…夜寝る時には、お父さんが私を挟んでお母さんの事ギューってして寝てたんだぁ。」
「だから、抱かれて寝るの好きなのか?」
「ん…お父さん細くって、柴さんみたいに大きく無くって、力も…喧嘩も弱かったけどね、ギューってしてくれる時は、力強かったんだよ。」
そう言ってモゾモゾと腕の中で動いて俺を見上げると、ネコは照れた様な笑顔を見せる。
「柴さんの声…ちょっとだけ、お父さんに似てる…。」
ネコは…俺に父性を感じていただけなのかもしれない…そう思うと、俺の胸は疼いた。
「父親は、亡くなったらしいな?」
「…あの日の事…思い出したく無い…。」
ブルリと身を震わせ、涙声のネコは俺の胸に顔を埋めた。
「お前が、家を出たのは?」
「…お父さんが、死んだ日。」
「…もしかしたら、変な奴等が訪ねて…。」
そこまで言うと、ガクガクと震え出した。
「ネコ…一度しか聞かない…話してくれないか?」
震える躰が段々と丸まり、ネコは自分の腕に歯を立てて唸り声を上げた。
「…落ち着いたらでいい…ゆっくりでいいから…。」
俺は声を掛け続けて、その躰を撫で続けた。
どの位の時間が流れただろう…ようやくポツリポツリと小さな声が語り出した。
「…あの日…夕食の買い物をした帰り道で、知らない男が声を掛けて来たの。音戸さんの娘かって聞いた。以前お父さんと一緒に働いていた、お父さんに会って話したい事が有るって言ったから…家に…。」
「連れて行ったんだな?」
「私がバカだったの…絶対知らせちゃいけなかった…男は家に連れて行った途端、私に…襲いかって…着てる物全部…。」
「!?」
「お母さん、叫んで止めようとしてくれた…でも、他にも男の人入って来たの。その内変な親父が私の上に乗っかって躰を触って来た。私、嫌で…大暴れしてたら、お父さんも帰って来て…お父さん怒って男達に掴み掛かって…だけど反対にボコボコにされちゃった。」
ネコは啜り上げながら、一言一言思い出しながら話し続ける。
「お父さんも捕まって、変な親父が又私に触り出した時、お母さんが…お母さん、自分が変わるって…子供より自分の方がいいだろうって、着てる物全部脱いで親父に言ったの。親父が私の事放したから、私お父さんの所に飛んで行った。お父さん…私の事抱き締めて…震えてた。」
「…それで?」
「…お母さん、お父さんと私を部屋から出してくれって言ったの…でも、男達は許してくれなかった。お父さん、畜生畜生って…私の事抱き締めて泣いてた。」
そうか…代議士の噂で出た榊の女というのは、沙夜の事…彼女は、娘の身代わりを申し出たのか。
不謹慎にも、話を聞いて胸を撫で下ろす自分が居た。
それにしても、夫と娘の目の前で、妻を凌辱したというのか!?
「お母さんね…ずっと前から心臓悪くて…発作起こしたの。お父さん慌てて心臓マッサージしながら、男達に救急車呼ぶ様に言ったの。自分は弁護士だって、もしお母さんがこのまま死んだら、傷害遺棄致死で訴えてやるって叫んでた。」
「男達は、救急車呼んだんだな?」
「うん…私は、お母さんと一緒に救急車で病院に行ったの。お父さんは…車で追い掛けるからって…でも、お父さん…来なかった。」
俺は静かにネコの腰を抱き寄せて、髪を撫で続けた。
「…お母さんが病院で治療してる時…警察が病院に来て…お父さん事故で死んだって、確認して欲しいって…警察の車で連れて行かれて…冷たくなったお父さんと会った。」
「警察は、何て言ってた?その…お父さんの死因について?」
「…交通事故ですって…駐車場に行く前の道で、飛び出して来た所を跳ねられたって…即死でしたって言われた。」
「…それで?」
「警察が…病院迄送ってくれた。治療終えて、病室に移ったお母さんに…言えなくて…。」
グスグスと泣き出したネコの眦の雫を親指で拭き取ってやると、その手に顔を擦り寄せて来る。
「でも…お母さんわかってた…『お父さん死んだの?』って私に言ったの。頷いたら、私の事抱き締めて…今から言う事、よく聞きなさいって…絶対誰にも、話しちゃ駄目って…。」
「何て言われた?」
「…今日来たみたいな男達が、私の事追って来るって…捕まったら犯されて閉じ込められるって、乃良の自由は無くなって、一生牢屋に入れらるって言ったの。お母さんが、ずっと牢屋に入れられてた事聞いてたから…凄く怖かった。このまま…家にも帰っちゃ駄目って、お母さんに会いに来ても駄目って…人の沢山居る所で、逃げて逃げて生き延びろって言って、持ってたお金全部くれた。」
「…。」
「多分、お父さんも殺されたって…知らない人にも、身内だって言って来る人にも、絶対に捕まるなって…自分の名前も、親の名前も絶対言うなって言われたの。言ったら、今日みたいな目に合うって…警察にも、絶対に何も言うなって言われた。」
「…それから、ずっと逃げ回ってたのか?」
「最初は、病院の近くをうろついてたの…そしたら、黒い大きな車が来て…お母さん乗せて行っちゃった。ナンバープレートに『新宿』って書いてあったから、東京に連れて行かれたんだと思って…。」
「ちょっと待て、お前…それ何処で起きた話だ!?」
「…仙台。」
「仙台から、電車で来たのか?」
「…お金、そんなに無いもん…。」
「…歩いて…来たのか?」
コクンと頷いたネコの躰を思わず力一杯抱き締めると、小さく苦しいと喘ぐ声がして、慌てて腕を弛める。
「お前、どうやって生活してたんだ?」
「旅の間?お寺とか神社とか探して…お掃除とか手伝うから、一晩泊めて下さいってお願いしてた。運が良ければ、お風呂も食事も、布団にも寝かせて貰えたよ?」
「…そうか。」
「東京に来て…最初はね、渋谷に居る事が多かった。若い人が沢山居て、紛れてわからないかと思って…警察にも何度も捕まったし、変な男達にも…追われて…それで…。」
縋り付くネコを抱いた手がピクリと反応するのに気付いたのか、ネコが小さく謝る。
「ごめんね、柴さん…気持ち悪いよね?」
そう言って、躰を離そうとするのを、俺は腕に抱え込んだ。
「お前が謝る必要は無い!!悪いのは、お前じゃ無いだろう!?」
躰を固くしたネコが、フニャリと俺の胸に躰を添わせた。
「…渋谷のね…赤十字センターでね…HIVの検査…怖くて、何度も何度も調べたんだよ。そこのお姉さん優しくて…普通だと結果は自宅に送るらしいんだけど、そこで預かってくれたの。犯れたら、いつでも調べにおいでって…無料だからって。ハンバーガーも食べれるし、お菓子もジュースも飲み放題で…雑誌とかも置いてあって…私みたいな子…男も女もいっぱい居たの。そこで、色んな事教えて貰ったよ。」
「…そうか。」
「渋谷のホームレスの人達にも助けて貰った…女のままだと危ないからって、男の子の格好させて貰って…古着屋さんで、商品にならない洋服貰ったり、ホームレスに賞味期限切れのおにぎりとか差し入れてくれる人が居たり…でも、炊き出しとかに行くと、ボランティアの人達が未成年者だって警察に連絡しちゃうの…参ったよ。」
クスリとネコは笑い、上目遣いで俺の顔を窺った。
「その内にね、渋谷より新宿の方が襲われたりする確率が低いって聞いて…酔っ払いの親父が多いけど、若い人が少ない方が安全だっていうんで、新宿に来たの。2丁目では、男の子って間違えて誘われる事多かったけど…新宿で補導されて、京子さんに会った。」
「新宿御苑で、木に登ってたって?」
「聞いたの?何度も補導されて…その内に、路上生活してる人達にクスリ売ったり、売春斡旋してくる奴等の情報買ってくれる様になったの。私達にしても、そんな奴等は追っ払って欲しかったから…一石二鳥だったよ。それに…いい事もあったしね。」
「いい事?」
フフフと笑った後、ハァと溜め息を吐き、ネコは恥ずかしそうに胸に顔を擦り寄せた。
「私ね…好きな人がいたの…。」
ツキリと胸に痛みが走る…そうだ、京子が以前言っていた…ネコには、初恋の相手がいると…。
「京子さんに会う時には、その人にも会えるかもしれないって、いつもドキドキしてた。」
「…どんな奴だ?」
「スーツ着てたから…サラリーマンだと思う。いつも、遠くから見るだけだったから、顔もよくわからないんだけどね…。」
「顔もわからなくて、どこに惚れたんだ?」
「その人ね…いつもって訳じゃないけど、公園の決まったベンチにお昼頃に座ってて…その人が座ると、決まって猫がね…寄って来るの。餌もやらないし、抱き上げたりもしないのに、猫の方からその人に擦り寄って行くんだよ…不思議でしょ?」
「…。」
「柴さんみたいに躰も手もおっきくて、指が長くて…足元にじゃれついた猫を撫でるの…柴さんがするみたいに…。」
そう言って、俺がネコの頬を撫でる手に顔を擦り寄せる。
「優しい人なんだなぁって…あんな風に撫でて欲しいなぁって、ずっと思ってた。2月頃から、寒いのにしょっちゅう姿見せる様になって…何だか、ちょっと背中が寂しそうで気になってたんだけど…3月も、結構会えたんだよ…でも、4月になってパッタリ姿が見えなくなったの…ずっと待ってたんだけどね…どっか行っちゃったんだ…。あの人…どうしてるのかな…。」
ネコの頬を撫でていた手を外すと、俺は自分の口を覆った。
「…どこだ?」
「何が?」
「どこの公園だ?」
「新宿中央公園だよ?中央公園のねぇ…北口の花時計ん所から入って…区民ギャラリーの有る所知ってる?その外れ…あんまり人の通らない所にあるベンチでね…。」
そこまでネコが話した時、俺は堪らずその唇を奪った。
ネコは驚いた様に身を引こうとしたが、俺は腰をしっかりとホールドして離さなかった。
「…柴さんって…。」
唇を離した時、トロンとしながらもネコは不思議そうに俺の目を覗き込んだ。
「…どうして、私にキスするの?」
眉を寄せて見下ろした俺の顔を、ネコの細い指が撫でる。
「…嫌なのか?」
「うぅん…私は嫌じゃ無いよ…でも、柴さん…何で?」
訳がわからずもう一度唇を近付けると、触れる瞬間に再び言葉を紡ぐ。
「…私の為?」
「え?」
「…私…こうやって…抱いて貰えるだけで…十分だよ?」
「何…言ってる?」
「…私の…為なら…無理…しないで…。」
話し疲れたのか、そのままスゥと寝入るネコに、俺は愕然とした。
ネコは…全く俺の気持ちに気付いていないのだ…今迄の俺の行為は、善意としか受け取って無いという事か!?
大人の狡さを駆使して行って来たのが裏目に出たか…俺は、込み上げる笑いを抑え切れなかった。
そうなのだ…いくら路上生活で、男に躰を奪われる事もあった生活をしていたとはいえ…ネコは子供で…恋愛とは遠い所で生きて来て…。
「ストレートに勝負した方が、良かったか…。」
言葉が勝手に口を突いて出た。
俺が、一番苦手とする手なんだが…。
「…お前の初恋の相手は、此処に居るぞ…。」
兄貴の組と警察の癒着が取り沙汰され、組織犯罪対策課に有らぬ疑いを掛けられてくさっていた頃、よく新宿中央公園に気晴らしに行った…人の居ないベンチでぼんやりとしていると、決まって野良猫が擦り寄って来た。
あの時、近くにネコが居たとは…一体どこから見ていたんだろう?
ネコを撫でると顔を擦り寄せる仕草は、自分がして欲しかった行為の願望だったのだ。
「…ナオ。」
胸の中で穏やかな寝息を立てるネコが、クフンと鼻を鳴らして擦り寄った。




