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その躰を手に入れた征服感、安堵感、充足感は、正直計り知れない物だった。
そして手放した途端、己が心と躰が渇望するのだ…まるで10代の頃に戻った様に、飢えた野獣の如く、愛しくて欲しくて堪らなくなる…。
ネコは、最初こそ戸惑いと恥じらいに居たたまれない様子だったが、躰を重ねる毎に必死にこちらの要求に応え、凄まじい色香を振り撒き、快楽に身を任せる事が出来る様になってきた。
腕の中で微睡むしなやかな姿態を愛で指で辿ると、擽ったそうに首をすくめて身を捩る。
その反応に目を細め、頬の傷から首筋に舌を這わせると、嫌がる声が猫の鳴き声の様で、竦める肩に歯を立てた。
「…もぅ!柴さん…エロ親父だ!!」
「何を今更…。」
「最近お兄さんに、そっくりだよ!?意地悪だしっ!?」
「そりゃ、兄弟だしな。それに…お前が、猫みたいにニャアニャア鳴くからだろ?」
「鳴かないもん!」
「嘘付け…。」
ムゥッと膨れっ面を見せるネコの鼻を摘まみ、クスリと笑いながら耳元に囁く。
「ウチの猫の鳴き声はデカイからな…新しい家は、壁が厚い所を探さないと大変だ…。」
真っ赤な顔をするネコの耳朶に歯を立てると、やはりニャアと鳴き声を上げた。
全く…このギャップは堪らない…。
「上手く行ってる様で、安心したわ。」
「…相変わらず、お前に連絡してるのか?」
「そぉよぉ〜!下手な事したら、筒抜けなんだから!」
「…全部?」
「多分ね。」
頭を抱える俺の横で、京子が腹を抱えて笑った。
「…流石の柴も、私に頭上がらないでしょ!?」
「勘弁してくれ…そうだ、俺の事以外も相談して来てるか?」
「母親の事は少しね…心配はしてる。子供の事も有るのに、籍はいつ入れるんだろうって言ってたわ。」
「…兄貴が、子供の生まれるギリギリ迄待つと言ってくれた。」
「…そう。」
「他には?」
「他?別に…何か有るの?」
「…時々、妙に怯えたりボンヤリしたり、情緒不安定気味でな。相変わらず、自分の事は何も無い…で片付けちまう。」
「まぁ、1人で外に出る気になった途端、補導されそうになったり、ストーカーされたりじゃねぇ…この間待ち合わせてた時も、男の子からナンパされてたわ。」
「1人で出るのを、楽しみにしてたんだがな。」
「綺麗になったもの…新宿に帰ったら、大変だわよ!?」
「…わかってる。」
「…家探し…進んでる?」
「いや…家も事務所も…出来るだけラピュタ書房の近くにとは考えてるんだが…中々思う様な物件が無くてな。」
「ネコちゃん中心に考えるってのが…笑える。」
優しい眼差しを送りながらもからかう京子に、俺はムッとして言い返した。
「お前だって、さっき言ってたろ!?正直、又あの楼閣にナオを監禁したいって思いの方が強いんだぞ!?」
「…やっぱり馬鹿だわ、アンタ。」
「何とでも言え…少なくとも、バイトへの送り迎えは、する気でいるんだ。」
「マジっ!?幼稚園児じゃあるまいし…過保護じゃなくて、アンタがストーカーだわ!?」
「んな事は、わかってるっ!!だが、今のアイツを見てみろ!?無防備に自覚の無いフェロモン撒き散らして、その上男に声掛けられると、怯えた目して震えんだぞ!?頭の上から食ってくれって言ってる様なもんだろうがっ!?」
「…確かにね。気になって、おちおち仕事も出来無い…って事か。」
「…あぁ。」
「…柴…私、物件に一つ心当たり有るんだけど、良かったら見に行く?」
「どこだ?」
「ん…それは、行ってみてから。話を聞いた時は、正直有り得ないって思ってたんだけど…。少し、お金も掛かるし…。」
「高いのか、家賃?」
「ん…それは、交渉次第だと思う。ただ…まぁ、駄目元で見てみる?」
「家か?事務所か?」
「柴が望めば、両方一気に手に入る…心配事も一気に解決するけど…これが最良の策なのか、正直疑問だわ…。」
躊躇する京子を追い立てて、鉄也に外出する旨を告げると、俺達は揃って事務所を出た。
「おい…ここって…。」
「そ、真のビルよ。」
京子に着いてエレベーターを上がると、会社の中はどこもかしこも慌ただしい。
「真!?入るわよ〜?」
京子が奥まった部屋のドアを開けると、中で髪を縛ったスウェットスーツ姿の真が、段ボールと格闘していた。
「あぁ、京子さん…手伝いに来てくれた…んじゃ無さそうね。いらっしゃい、柴さん。」
「お邪魔します。何だか…凄い状態ですね?」
真はアハハと笑い、応接セットに俺達を誘った。
「引越準備で、大わらわなのよ!」
「新宿から引越すんですか!?」
「あぁ…仮の宿にね。このビル、建て直す事にしたの。古いし、耐震面でも少し問題があってね。リホームも考えたんだけど…耐震リホームって高くって…それならいっそ建て直そうって事になってね。」
クリスマスの大虎事件以来、真は俺に対しても、京子同様かなりフランクに接して来る様になっていた。
「そうなんですか…。」
「今度は10階建てにして、下の階は立体駐車場にするのよ!今迄来客用の駐車スペース確保出来なかったし、この場所立地はいいからコインパーキングとしても収入見込めるし…借金もとっとと返したいしね…。」
「あの…天宮さん、こちらに戻られるのは?」
「春の予定よ?あ、ネコちゃんも春からバイト入れるって言ってくれてたから、当てにして待ってるわね!?そういえば…今日は、その件でわざわざ?」
「違うわ、真!全く…アンタの話が終わる迄待たなきゃならないなんて…新ビルの件よ。空いた階…もう借り手着いたの?」
「あぁ…その件。まぁ、色々話しは来てるけど…ちゃんと家賃払ってくれる、安心した人に貸したいんだけどね。最近この辺りも物騒だし…やっぱり、柴さん借りてくんない?」
「はぁ!?」
「事務所、探してるんでしょ?なんなら、住居込みで構わないわよ?そうしてくれたら、同じ階に私の住居持って来れるし…。」
「真はねぇ…柴の事、番犬にしたいのよ!!」
「だって…元警察官で佐久間組の身内なんでしょ?流石に女1人で此処に住むの怖いし。私個人だけじゃ無く、会社にとって防犯の意味でも、対暴力団って意味でも、柴さんに事務所だけでも借りて欲しいんだけど…どう?」
「…此処に…住んでもいいんですか?」
「今なら、設計変更可能よ?柴さんもネコちゃんも、通勤0分!これって、美味しく無い!?」
真が俺を見上げてニヤリと笑った。
荷物を出し終わった部屋を見て、ネコが溜め息を吐いた。
「案外、荷物少なかったんだね。」
「そうだな…備え付けの物が多かったからな。」
「柴さん…お金、大丈夫なの?」
「お前が心配する事じゃ無い。」
そう言った途端、ネコの目がスッと細くなった。
ネコがこういう顔付きをする時は、ろくでも無い事を考えている…肩に回した手を背中に下ろし、そっと抱き込んでやり俺はネコの髪に顔を寄せた。
「そんな顔するな…大丈夫なんだ。新しい事務所も、連城さんが出資してくれる事になった。」
「でも連城さん、こっちの事務所も残すんでしょ?弁護士事務所の人が引き継ぐって…。」
「こっちの事務所の調査対象は金持ちで、新しく開く俺の事務所の調査対象は庶民って事だ。だから心配すんな…大丈夫だから。」
「本当に?」
「あぁ…だから、もう離れようだなんて思うな…わかったな?」
少し目を見張り、ネコは俺の腰に腕を回した。
「…そんな事思って無い…柴さんが…もう終わりって言う迄…傍に居る…。」
「馬鹿野郎…言う訳ねぇだろ!?」
腕の中で、ネコの躰が小刻みに震える。
「…お前…まだ…。」
「…何でも無い。」
スルリと腕を逃げ出したネコを、後ろから捕まえ抱き込んだ。
「まだ…まだ駄目なのか?なぁ、ナオ…まだお前は、俺のモノにならないのか?」
「何言ってるの、柴さん!?」
俺は腕の中のネコを反転させ、噛み付く様な勢いで唇を重ねた。
ガチリと歯がぶつかる音がして、口の中に鉄臭い味が広がる…それでも勢いは止まらず、壁に押し付け舌を絡めて吸い上げた。
顔を離した時、唇を切ったネコが少し困った様に笑っていた。
「…悪い。」
「いいよ…それより、時間平気?電気もガスも、電話も今日来るんでしょ?」
ネコに急かされ、地下駐車場に停めてあったレンタカーに乗り込む。
「この車も、今日返すんでしょ?」
「あぁ…急がないと…。」
港区の役所で転出届を済ませ、新宿に急ぐ道すがら、助手席からネコが声を掛けた。
「柴さん、新宿の役所なら私わかるから、手続きして来るよ。序でに郵便局も行って来る。」
「…。」
「私、荷物運びも役に立たないしさ。車の運転も出来無いからさ。」
「だが…。」
「…少し、寄りたい所も有るの。行ってきちゃ駄目かな?」
「…ちゃんと…帰って来るんだな?」
「信用出来無い?」
ニッと悪戯そうに笑うネコを見て、あの時腕の中で震えていたネコの様に、今度は自分が震えていた。
路肩に車を停めると、俺は黙って財布から金を出してネコに握らせた。
ネコは震える俺を抱き締めて、顎の下にキスして車を降りた。
「少し遅くなるかもしれない…でも、心配しないでね。私が帰るのは…柴さんの所だけだから。」
電話やガス、電気の手続きを済ませ、荷物を運び適当な場所に納める。
ネコの衣類の他には、俺の衣類と少しの生活雑貨、タオルやシーツ等しかない。
以前の事務所を畳む時、全て売り払ったからだ…あの事務所の匂いを引き摺りたくは無かった。
持って出たのは、少しの衣類と鉄也だけだった。
新居には、まだベッドと照明しか置いていない…家具も電化製品も、明日2人で買いに行く予定だが…。
何度も何度もGPSを確認し、ネコの居場所を追う。
役所から郵便局…繁華街からネコが次に向かったのは…多分、榊の屋敷跡だ。
榊大善の事も、その後ワイドショー等で大騒ぎしていた『榊の女達』の遺体発見の事も、ネコは何一つ尋ねては来なかった。
きちんと、話してやるべきだったのだろうか…GPSの地図を指し示す赤い十字の点滅を撫でながら、俺は逡巡していた。
迎えに行った方がいいのでは無いか!?
だがネコは、『信用出来無い?』と言ったのだ…『私が帰るのは…柴さんの所だけだから。』と言ったのだ!!
その後、新宿の街を徘徊している様なネコの足跡を見て、俺は携帯を閉じた。
春は、直ぐそこまでやって来ている筈なのに…何故こんなにも寒いのだろう?
寒いのは躰じゃ無い…心だ…。
このまま、この何も無い部屋で、心も凍り付いてしまうのでは無いか…そう思った時、玄関で小さな音が鳴った。
「…ただいま…柴さん?居ないの?何で真っ暗?電力会社来なかったの?」
俺は何も言わずに玄関に走ると、帰って来たネコを抱き締めた。
「ごめんね、本当に遅くなって…明日のパンは買って来たけど…柴さん?」
「…遅い。」
「ごめんって…これでも、急いだんだけどね…晩御飯は?食べた?何か買って来ようか?」
「…何故電話しなかった?」
「したよ?帰りにしたけど…繋がらなかった。ごめんなさい、心配した?」
ネコを抱え上げベッドルームに連れ込み、そのまま何も言わず貪る様にネコを求めた。
驚いたネコは、それでも何一つ抵抗せず、少し強張った躰は甘い吐息と喘ぎに溶かされていった。
「…俺のモノだ…この躰も…心も……俺だけの…。」
飛び散る汗と甘い嬌声、誘う様な微笑みに煽られる。
スルスルとネコの指が俺の躰を這うと、得も言われぬ快感に蕩けそうになる。
「…ナオっ…。」
「駄目よ…もう少し…。」
「…や…めろ…。」
「大丈夫…全て受け止めて……後で、少し分けてね…。」
ネコの甘い吐息が吐かれると同時に躰の中に流れ込む暖かな光…やがてその光が渦巻き、躰の隅々迄染み渡る。
…これは『気』だ…『榊の女』の房中術。
初めてネコを抱いた晩、その流れ込み渦巻く光に驚いた…そして、その後の自分の体調に目を見張った。
躰を重ねる毎にその術を体得したネコが、俺の上で身を仰け反らせる…まるで蓮の花が咲き、中から現れた天女の様な姿…。
後から後から送り込まれる光…竜巻の様に逆巻く渦が、躰の細胞迄も活性化させて行く様な感覚…。
「…綺麗だ…ナオ…。」
我が身に納まり切れず噴火する様に噴出する『気』に慄くと、パタリと胸の上でネコが倒れた。




