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新宿のネコ  作者: Shellie May
26/32

妊娠する

兄貴の電話でビルを飛び出した俺達は、兄貴の差し向けた車の後部座席に並んで乗り込んだ。

「…大丈夫か、ナオ?」

母親の妊娠を聞いたネコは、固い表情で膝の上の手を握り締めている。

その手に自分の手を重ねる…包み込んでやった固く握られた手は冷たく、小刻みに震えていた。

東新宿駅に程近い場所に有る兄貴の自宅に到着した俺達は、直ぐ様兄貴の待つ座敷に駆け込んだ。

「どういう事だ、兄貴!?沙夜さんが、倒れたって!?」

勢い込んで捲し立てる俺と反対に、ネコは静かに兄貴の前に座り頭を下げた。

「…ご迷惑を…お掛けしました。」

「何を言っている?謝らなくてはならないのは、俺の方だ。済まない、乃良…。」

「…命は…取り止めたんでしょ?」

その言葉を聞いて、俺はギョッとした。

「気付いていたか…大丈夫だ。すんでのところでな…。」

「どういう事だ…ちゃんと説明してくれ、兄貴!?」

兄貴のこんな表情を見るのは久し振りだ…親父が亡くなった時以来だろうか?

「ここんとこ体調が優れなくてな…今日病院に行ってわかった。3ヶ月と言われたそうだ。俺が帰った時には、鬱いだまま寝込んでてな…子供は産めない、乃良に申し訳無いと泣き崩れて…目を離した隙に、以前病院から処方されてた睡眠薬を飲んだ。幸い発見が早く、胃洗浄をして今は休んでいる。」

「…子供は?無事なのか!?」

「今の所はな…ただ、精神状態が不安定だ…妊娠初期には危ない状態では有る。」

「お兄さんは…お母さんと、結婚するつもりなんでしょ?」

ネコは、兄貴を正面から見据えて言った。

「乃良さへ、承知してくれたらな。」

「お母さんは?」

「沙夜も、同じ考えだ。」

「子供は?欲しいの?」

「あぁ、欲しい!!組の為にも、絶対に欲しいのも事実だが…それよりも、俺は沙夜との間の子供は諦めていたから、嬉しくてしょうがねぇ!!」

「…それが…女の子でも?」

「…男でも女でも、関係ねぇぞ?」

じっと兄貴を見詰めるネコの瞳が揺らめいた。

「…それが…『榊の女』でも?」

「違うぞ、乃良。『榊の女』じゃねぇ…『佐久間の女』だ。例え力を持った子供が生まれたとしても、佐久間の家の娘であれば、護ってやる事が出来る。そう思わねぇか?」

「…そうだね。」

ゆっくりと頭を下げたネコが、膝の前に手を着いて身を屈めた。

「母と結婚して…籍を入れてやって下さい。」

「いいのか?」

「お願いします。」

「…お前達は?」

その質問に、ネコは顔を上げて小首を傾げる。

「私達?お兄さん、その事とは…別問題だよ。」

驚いてネコを見詰める兄貴が、俺に視線を移した。

「何だ、健司!?…説明して無いのか!?」

「…もう少し、時間をくれ。」

「沙夜が妊娠した以上、これ以上引き延ばす気はねぇぞ!?」

「…もう少し待ってくれって!!」

「説明だけでも、しておくべきだろうがっ!?」

「止めろ、兄貴!?今は何も言うなっ!!」

「…何?…何の話?」

兄弟の激しいやり取りに怯えながらも、ネコは眉を寄せ俺を窺った。

「…実はな、乃良…。」

兄貴が説明しだしすと、俺は堪らず席を立ち、驚くネコを残して座敷を出た。

兄貴や沙夜が、俺達の結婚に拘るには理由が有る…兄貴達が結婚すると、兄貴と兄弟である俺と、沙夜の娘であるネコの関係は、義理とはいえ戸籍上叔父と姪の関係になってしまうからだ。

実際に血縁関係には無いので、法律的な婚姻は問題無いのだが…それでも、義理とはいえ叔父と姪の結婚となれば世間体はかなり悪い。

兄貴達は、そうならない様に、俺達の結婚を見届けた上で自分達の結婚話を進めようとしていたのだ。

結婚という…婚姻届に縛られたく無いというネコの気持ちを聞いてしまった後なのだ。

出来れば、今はこの話を聞かせたくは無い…やっと、歩み寄ろうと気持ちが傾き掛けた矢先なのに…。

「…柴さん?」

背後から小さく呼び掛けられ、俯いていた視線を上げた。

目の前に広がる庭に、無造作に置かれた庭石や灯籠がボンヤリと浮かび上がる。

「…聞いたか?」

ネコは何も言わずに背後に近付き、俺の腰に腕を回した。

「焦る事は無い…世間体なんかも気にしなくていい。お前が納得する迄考えて、答えを出せばいいんだ。」

「…ん。」

俺の背中に顔を擦り寄せたネコの手を、俺はやんわりと包み込んでやった。

「お母さんの所…一緒に来てくれる?」

「あぁ…。」

俺達は揃って、離れの沙夜の元に行った。

「…お母さん。」

「乃良!?」

ネコの姿を見た途端、沙夜は娘に抱き付いて涙に暮れ、ネコはそんな母親を優しく受け止めた。

「乃良…乃良…どうしましょう?…お母さんね…。」

「おめでたなんでしょ?良かったね、お母さん。」

「良くなんか…良くなんか無いわ!?どうすればいいの!?」

「心配しないで、お母さん。お兄さん…佐久間さんが、お母さんの事も、お腹の赤ちゃんの事も幸せにしてくれるよ?」

ネコが沙夜の背中を優しく撫でると、沙夜はむずがる子供の様に頭を振って啜り泣く。

「まさか…子供を授かるなんて…もう嫌なのよ!あの時の様な、あんな不安な日々は…。」

「お母さん?」

「…女の子かもしれないと怯え…力が有るかも知れないと心配し……貴女が生まれた時、私がどんなに…どんなに…。」

何を言っているんだ…この女は…自分の産んだ娘を全否定する様な…。

それでもネコは、母親の背中を撫で続け…何度もごめんねと謝り続けた。

「怖いわ…恐ろしくて仕方が無いの…。」

「大丈夫…大丈夫よ…佐久間さんが約束してくれたの。男でも女でも関係無いって!お母さんとの間に子供が出来て嬉しいって言ってくれたんだよ。大丈夫、今度は護って貰えるから…お母さんも…赤ちゃんも…ちゃんと佐久間さんが護ってくれるよ。」

「本当に?…産んでも大丈夫なの?女の子でも?」

「大丈夫!『榊の女』じゃ無い『佐久間の女』だって言ってくれたよ!佐久間さんの事…好きなんでしょ?」

「…それは…。」

「護る事の出来なかったお父さんより…好きなんだよね?」

「…そう…あの人は…私を連れ出してくれたの。でも…。」

「知ってたよ、私…お父さん、弱かったもんね…でも、一生懸命だったでしょ?許してあげてね?」

「乃良っ!!許して貰えるかしら…あの人にも、貴女にも…。幸せになる価値が有るのかしら…私達は…?」

「お父さんも、佐久間さんと結婚するなら、許してくれるよ…今度こそ幸せになってね。佐久間さんと、お母さんと、赤ちゃんの……3人で、幸せになれる…大丈夫、大丈夫だから。」

ネコは沙夜を寝かせ目を閉じさせると、頭の先から足先迄スルスルと撫で…腹から胸に手を当てて、円を描く様に何度も撫で続け、布団を被せた。

「休んで、お母さん…。」

「…な…お…。」

「…大丈夫だよ…これからは、佐久間さんが居てくれる。」

沙夜は大きな息を吐き、穏やかな顔をして眠りに着いた。

付き添いの家政婦にお願いしますと挨拶をしたネコは、そのまま静かに部屋を出た。

離れから母屋への渡り廊下で追い付いた俺は、ボンヤリと庭石を見詰めるネコに声を掛けた。

「…ナオ…。」

「ごめんね、柴さん…お母さん、興奮してたんだよ。柴さん居たのに…悪かったね…。」

「大丈夫か?」

「……あの庭石…取っ払って、あそこ池造ったらいいのに…。きっと…元気な子供が生まれるよ。お兄さんに、教えて来て上げれば?」

「…わかるのか?」

「何となくね…早い方がいいよ…。」

「一緒に言いに行こう。」

「…私…しばらく此所に居るよ……風が、気持ちいい…。」

ネコは柱にもたれ、震える瞼を閉じた。

俺はネコをその場に残し、兄貴の待つ座敷に戻ると、沙夜との会話の全てを話した。

「沙夜は、弱い女だ…誰かに護られなければ、自分の足で立つ事も出来ねぇ。」

「あれじゃ…どっちが母親なのか、わかりゃしない。自分の産んだ娘を、生まれる前から疎ましいと言ったも同じ事だぞ…。」

「普段は、娘の事を考えて涙する優しい母親だ…『榊の女』にとって子供を産むという事は、それだけデメリットが強いって事なんだろうよ。」

「ナオも…欲しくないと言った。特に女は嫌だと…。」

「…だろうな。大丈夫なのか、乃良は?」

「…多分、今頃は逃げ出してるだろう。」

「おいっ!?」

「大丈夫だ。GPSも有るし…多分、行き先は決まってる。」

「健司…。」

「一人で思い切り泣きたい時だって有る…大丈夫だ。ちゃんと迎えに行く。」

「そうか…。許してやってくれ、沙夜は…乃良に許して欲しかったんだろう…大丈夫だと言って欲しかったんだ。」

俺は立ち上がって、座敷の障子を開けながら言った。

「今回限りだ、兄貴…これ以上ナオを傷付けるのは、許さねぇからな。」

「わかってる。籍は…子供が生まれるギリギリ迄待つ。」

「あぁ…それと、ナオから伝言だ。庭石退けて池造ったら、元気な子供が生まれるとよ。」

「…直ぐ様、造らせよう。」

照れた様な顔で笑顔を見せる兄貴を残して、俺は座敷を辞した。



兄貴の家の玄関先で、佐久間組の若頭に声を掛けられた。

何でも屋敷を飛び出そうとしたネコを、深夜で電車も動いていないからと説き伏せて、車で送り届けたという事だった。

「悪かったな…。」

「いえ…様子がおかしかったので。先程、広尾駅の前で下ろして欲しいと言われて下車されたと、連絡が入りました。」

「そうか…悪いが、俺も同じ所迄送ってくれ。」

「承知致しました。」

思っていた通りだ…GPSで確認を取り、広尾駅の前で車を降りてコンビニに寄り、俺は有栖川宮記念公園に向かった。

迷わず以前ネコと座った池沿いのベンチに向かうと、暗闇の中で小さな影が座っていた。

「…やっぱり此所に来てたのか。」

俺を見上げて驚いた様に見開く目は、既に涙で赤く腫れていた。

「…何でぇ?」

「ん?それだけ、お前の事を理解してるって事だろ?」

そう言ってネコの隣に座ると、コンビニの袋から肉まんを取り出してネコに見せた。

「食うか?」

ネコは何も言わずに受け取ると、大きくガブリと食い付いた。

「…お母さんね、一つ考え出すと…他は見えなくなっちゃうんだ…。」

「そうみてぇだな?」

「お父さんはね…ずっとお母さんの事が好きだったの。…だから、お母さんを連れて逃げたんだよ。でも、お母さんは…連れ出してくれるなら…誰でも良かったんだ…。」

「沙夜さんに聞いたのか?」

ネコは首を振り、お父さんと答えた。

「お父さん、いつも『乃良は、お父さんがお願いして、お母さんに産んで貰ったんだ』って言ってた…お母さん私の事産むの、ずっと怖かったんだね…。」

「ナオ…。」

「お父さんがね…『お母さんを頼んだよ』って、最後に言ったの。救急車に乗る時に…。でも、もうお兄さんにバトンタッチしていいんだよね?」

「あぁ…沙夜さんの事は、兄貴に任せればいい。」

「お母さんも…赤ちゃんも、幸せになれるよね?」

「…お前…あの時、何故自分を人数に入れなかった?」

「え?」

「沙夜さんと、腹の子と、兄貴の3人でって言ったろ?」

急に黙り込んで肉まんを食べるネコに、ペットボトルのお茶を開けて渡してやる。

ゴクゴクと半分程飲み干すと、蓋を閉めながらネコはボソリと吐く。

「…よく聞いてるね?」

「ナオ…幸せになる価値は、お前にも有るんだぞ?」

「…。」

「お前を幸せにするのは、兄貴じゃ無く俺だってだけの話だ。」

「…ん。」

ネコの肩に腕を回し、冷え切った小さな躰を抱き寄せた。

「…甘えろって言ったろ?一人で泣いてんじゃねぇよ…。」

胸にコトンと頭をもたげるネコの体温が、フワリと上がる。

「何かね…私…疲れちゃった…。」

「休めばいい…俺の胸で休めばいいから…。」

ネコは俺の胸で啜り上げ、やがて声を上げて泣き出し、俺はその背中と髪を撫で続けた。

どの位の時間そうしていただろうか…やがてネコの手を引いて、ゆっくりとビルに向かって歩き出した。

「今度の休み、横浜行くか?」

「…横浜?」

「中華街に、旨くて大きな肉まんが売っててな。店先で蒸籠蒸ししてるのを、並んで買うんだ。皆、それをかぶり付きながら街を散策する…お前の顔ほどデカい肉まんだぞ?」

ネコはクスリと笑いながら、いいね…食べ切れるかなと小さく呟いた。



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