諦める
鷹栖総合病院の一般病室、カーテンに囲まれたベッドでネコは静かに寝息を立てている。
西嶋画伯のアトリエからネコを連れ帰り、そのまま入院し手術をするに当たり、6日前から沙夜が娘の面倒を見ていた。
しかし今朝病院から連絡が入ったのだ…沙夜が倒れ、ネコが暴れていると…。
慌てて病院に駆け付けた俺は、担当医師に説明を求めたが要領を得ない。
ただ、当初入っていた個室を母親に明け渡し、自分は直ぐに退院をすると言うのを、武蔵が宥めすかして一般病室に入れたらしい。
鎮静剤を打たれて眠るネコの枕元には、手術の承諾書が置いてある。
同意者の欄には、既に沙夜の名前と住所が書かれてあった。
しかし…患者本人の欄は空白のままだ。
左頬のガムテープは綺麗に取られ、今はガーゼが貼られていた。
「さて困った…どうした物かねぇ…?」
此処に来る前に立ち寄った精神科のカウンセリングルームで、武蔵は溜め息を吐いた。
「退院するって、一体どういう事ですか!?」
「担当医が、不用意な事言ったらしくてね。沙夜さんが倒れた責任を感じたんだろうが…物凄い勢いで怒り出したんだ。いや、本当に申し訳無い…。それにしてもね…ちょっと困ってるんだよ。」
「何がです?」
「入院当初は、人を怖がるのも、相続する絵を醜い物として認識するのも、傷を付けられた事から来る、PTSDだと思ってたんだけどね…。」
「違うんですか?」
「確かにそれも有るんだよ…絵を醜いと思い込んで、燃やしてしまいたいと思っているのは、そうなんだろうけどね…。沙夜さんに会わせたのは…不味かったかなぁ?」
「どういう事です!?」
「あの母娘、関係性が複雑だから…母親の想いを受け止めると、あの娘は自分の辛さも想いも全て飲み込んで諦めてしまう。然も相続の件は…金銭的な事が絡むから、医者は立ち入れない領分だしね。」
「相続の件、何か言ってたんですか?」
「全て放棄するって言ってた…沙夜さんに何か言われたのかもしれないね。」
「…そうですか。」
「何かに、追い込まれている様でね…手術も嫌がってるし、目が離せないかな…。」
俺はその瞬間、背筋が凍り付いた。
ネコの睫毛が微かに動き、ゆっくりと瞼が開く。
「ナオ…気付いたか?」
「…柴さん……何で…仕事は?」
「大丈夫だ。」
「…嘘…武蔵先生に呼び出された?」
「気にするな。」
「気にするに決まってる!!」
「ナオ…。」
「…ごめんなさい。」
カーテンの外から、咳払いが聞こえる…面会時間前に特別に入室を許可されて、他の患者は迷惑しているのだろう。
「…柴さん、外に行こっか?」
「お前、躰は平気なのか?」
「平気だよ…多分。」
そう言うとネコはベッドを降りて、他の患者の目を逃れスルリと廊下に逃げる。
そして、自動販売機で飲物をねだりながら窓の外を眺め、天気がいいから屋上に行こうと誘った。
「気持ちいいね…でもあそことは、空気の匂いが違う。建物も車も…人もいっぱい居るからかな?」
「…何があった?」
屋上の一段高くなった段差の上に腰掛けたネコは、ウ〜ンと伸びをしてゴロリと上半身を倒した。
「武蔵先生に聞いたんでしょ?」
「詳しく話せよ。」
「…担当の先生が、お母さんの事…虐めたの。」
「虐めた?」
「手術の為の検査してたらさ、結果があんまり良く無かったらしくてね…路上生活してたからしょうがないのに…先生、お母さんの事責めるんだよ。何でこんなになる迄放っといたんだって…監督不行き届きだってさ。」
「…。」
「…お母さん、ずっと先生に謝るんだぁ。お母さんが悪い訳じゃ無いのに『申し訳ありません』ってずっと謝り続けて…お母さん、倒れちゃった。」
「だから怒ったのか?」
「…お母さん、何も悪くない…悪いの私なのに…あんなお母さんの姿、見たく無いよ。」
ネコは遠い瞳で青空を見詰めて、まるで他人事の様に吐いた。
「私、お母さんの事も…柴さんの事も…迷惑掛けてばっかりだね…。」
「ナオ?」
「私さぁ、物知らずだから…知らなかったんだけどさ。遺産って相続すると、お金掛かるんだって。あの屋敷なんていらない。敏文って人、お金に困ってるって…本宅は借金で取られちゃうってさ。」
「抵当に入ってるって事か?」
「何か、そんな事言ってた。画家のおじいさんの絵も売ってたみたいで、よく親子喧嘩してたから…だからおじいさん、私に呉れる気になったんじゃない?」
「そうだったのか…。」
「でも、絵もね…貰うとお金掛かるんだって。燃やしたいだけなのにね…。」
「いいのか、お前…あんなに嫌がってたのに。諦めるのか?」
「払えないよ…凄い金額になるんだって。それに連城さんにも、お金払わなきゃいけないし、此処の支払いも有るし…又頑張って働くよ。」
「ちょっと待て!?弁護料や入院費は、俺が…。」
「嫌だよ、柴さん。」
「何故!?」
ネコは話しながら、一切俺に目を合わせなかった。
「お母さんの入院費は、柴さんのお兄さんにお願いするね。お兄さん…お母さんと結婚するんでしょ?」
「…。」
「お兄さんなら、お母さんの事お願いしても安心だしね…お母さんも幸せになれると思うんだ。お互いに、好きみたいだし。」
「お前、自分の事は…俺達の事は、どうするつもりだ!?」
「お母さんさぁ…。」
ネコはスンと鼻を鳴らし、目を細めた。
「私が近くに居ると…幸せになれないんだよ。ずっと、ごめんねって…私に遠慮して、お父さんの事死なせたのも、自分だって責めてる。榊の家の事も、病気の事も…私の傷の事も、自分のせいだって思ってる。それに、今迄お兄さんと結婚しなかったのも、私の為でしょ?ずっと我慢してさ…。」
「ナオ…我慢してるのは、兄貴や沙夜さんだけじゃ無い…わかってるだろうが!?」
「柴さんもさ…私に拘わってから、気持ちザワザワして落ち着かなくて…仲間の人達とも別れちゃって…迷惑掛けてばっかりでごめんね。」
「ナオ!?」
ネコはチラリと俺を見て、寂しそうに笑った。
「お母さんに聞いたの…『榊の女』って、昔は巫女だったんだって。昔から神様の声を聞いたり、『気』を操って病気を治したり、占いしてたんだってさ。」
「それがどうした?」
「私ね…見える様になったの。榊から帰ってから、色んな物に流れる『気』が見える…人や物や、森羅万象の『気』が見えるの。人に流れる『気』位なら、操ることも出来る。」
「…え?」
「『気』ってね、それぞれ違うの…色も濃さも、強さも違う。柴さんのは、白くてサラサラしてて…とても強いの。渾々と溢れてて…とっても綺麗。」
目を細めながら、ネコは憧れを込めた視線を寄越し、直ぐに寂しそうに俯いた。
「『気』を操る者は、強い『気』を発するモノに引寄せられるんだって。…私が…柴さんと一緒に居たいって思ったのも…本当は『気』に引寄せられたのかもしれないって思ったらさ…何か凄く悲しくて、申し訳無くて…惨めでさ……一緒に…居られないって思ったの…。」
「そうと決まった訳じゃないだろう!?」
「吸い取るんだって……何かさ…蛭とか…寄生虫みたいで…気持ち悪いよね。…気持ち悪いの…もう無くなっちゃえばいいよ…このまま空に溶けちゃえばいい。そしたら、あの絵だって見ずに済むし…。」
俺は慌ててネコの腕を掴むと、屋上の出入口に向かって歩き出した。
「痛いよ、柴さん!」
「病室に…いや、カウンセリングルームに行くぞ!!」
「柴さん、私狂った訳じゃないよ!?」
「そんな事は、わかってる!!今は、お前を1人にしたくないだけだっ!!」
半ば叱り付ける様にしてネコを引き摺り、精神科のカウンセリングルームで武蔵に説明をしてネコを預けると、俺はその足で沙夜の病室を訪ねた。
「…お待ちしてました。」
沙夜はベッドの上に座ると、開口一番でそう言った。
「乃良に、お聞きになったのね?」
「貴女は…何故、ナオが不安になる様な事ばかり吹き込むのですか!?ナオは、貴女の娘でしょう!?」
「だから…言わなくてはなりません。あの子に伝えて遣れるのは、私しかいないのです。それに、今なら貴方がいらっしゃる…貴方があの子を支えて下さるでしょう?」
「逆効果だ…ナオは貴女の話を聞いて、俺から離れようとしています!!」
「それは…それはいけません!!あの子は目覚めてしまった…神降ろしは成功し、あの子は巫女になってしまったのに…。」
「一体、何を話したんです!?」
俺が一通りネコの話した事を伝えると、沙夜はハラハラと涙を流しながら被りを振った。
「違います!そんな積もりで話したのではありません!!知って置かなくては…あの子の命に係わる事だから…。」
「どういう事です!?」
「私の祖母は、とても強い力を持つ巫女でした。しかし母は普通の…少し『気』を感じる程度の『榊の女』でしか無かった。母は自分に無い力に…祖母の力に強い憧れを持ち、独自に古い文献等を色々と調べ研究していました。父が『榊の女』に拘ったのは、多分に母の影響が強かったのです。やがて兄が生まれて…母は落胆しました。男に力は宿らない…ましてや次に女が生まれたとしても、力は削がれているだろうと。実際、私にも母と同様の力しか授からなかったのです。」
「ナオには?」
「あの子の力が強いのは…乃良の小さな頃から予感していました。だから逃げる様に言ったのです。もしも力が発動してしまったら、乃良は死んでしまうかもしれません。」
「何故です!?」
「強い力は大量の『気』を消費します。ですから代々『榊の女』には、『気』を補充する者が付き従っていました。小柄な乃良自身の『気』は、決して大きな物では無い。しかし大きな力を持つ巫女には、大きな慈悲の心が宿ると言います…弱っているモノに、自然と力を放出してしまう。」
「そんな…。」
「あの子は、今迄も人からの『気』を吸収せず、自然界の『気』を吸収し生活して来た…だから、貴方を選んだのかもしれません。貴方の『気』は、とても強く清浄ですから。」
「どうやって与えればいいのです!?」
「同じ空間に居ても与える事は出来ますが、触れ合う事が一番でしょうね。『榊の女』と床を共にすると、運気が上がり幸運が訪れるという話を聞いた事はありませんか?」
「以前、兄がその様な事を…しかし…。」
「強ち、間違いでは無いのですよ。『榊の女』は、房中術が出来るのです。」
「房中術?」
「身体を強健にし、生命力を高め、身心に潜在する力を開発し、不老長生、智慧の果を得て、運命を超克する事を可能とする…。」
「不老長寿という事ですか!?」
「普通の性行為とは一線を画するのですが、そうとは知らぬ方々が多くて困ります。ともあれ『榊の女』は、『玉女採戦』が出来るのです。」
「何ですか、それは?」
「本来、互いの『気』を巡らせ交わりを持たせるのが房中術なのですが、片方が一方的に『気』を与える『玉女採戦』が出来るのです。しかし、奪われる側は体をひどく損ねてしまう…だから、補う為に強い『気』を持った男達から与えて貰っていたのです。」
「房中術で?」
「そうなりますね…一番確実で、多くの気を巡らせ注ぎ込む事が出来ます。」
「しかし…。」
「まだ…交わりを持たれていませんね?それどころか、触れるのも儘ならない…というか、あの子は貴方の『気』を受け取る事を…拒んでいる様ですね。」
「わかるのですか?」
「私には、読み取る位しか出来ません。乃良の中に貴方の『気』は少ししか感じられない…でも、貴方の中には感じるのです。乃良は…貴方に施術を行っていたのでしょう。」
「えっ!?」
「躰が楽になったり、軽く感じたり…具合が悪いのが、突然平気になったりした事が…乃良と暮らし始めて、そんな経験はありませんか?」
「…それは。」
「無意識に施術していたのかもしれません…貴方が近くに居るならそれも良いでしょう。しかし、離れるなら…乃良は命を削る事になります。慈悲の心が強いだけに、何とかしてやりたいと命を削ります。然も『気』が弱れば、己が病になり心も弱る…人は癒せても、自分に対しては何も出来ません…与えて枯れるだけの存在なのです!」
「そんな…。」
「健司さん、どうか…あの子の手を離さないでやって下さい!!」
沙夜は悲痛な叫びを上げて、俺に取り縋った。




