消える
「酷でぇ顔してるが、休めてるのか、健司?」
鉄也が入れた珈琲を啜りながら、兄貴が俺の顔を覗き込んだ。
「沙夜さんには?」
「言えるかよ…避暑地にバイトに行ってるって事にした。連絡は、一切来てない様だ。」
「…そうか。」
「死体が出た訳じゃねぇ…生きてるさ。身の危険を感じて、逃げ回ってるんだろうよ?逃げるのは得意技だし…今は夏だ…外で生活していたとしても、凍え死ぬ事も無い。」
「あぁ…。」
気の無い返事を返す俺を見詰め、兄貴は鉄也に話を振った。
「仕事の方は、大丈夫なのか?」
「一応、前から依頼があった分に関しては、全て捌けました。今は、自分が回れそうな都内の小さな依頼のみ受けています。」
「済まねぇな…当分使い物になりそうにねぇし…宜しく頼むわ。」
「承知致しました。」
「所で健司、問い合わせて来たアキって娘だがな…。」
「何かわかったか!?」
「チビ政の所の、戸越の妹の娘だと。」
チビ政とは、兄貴の組の本部長…その身内の姪という事か。
「チビ政が恐縮してなぁ…沙夜の娘でも有るし、戸越の首持って来そうな勢いだったんだがな、俺が止めといた。チビ政と戸越が、お前の所に詫びに来るっていうのも、お前に殺されっから止めておけと言っといたぞ。」
「で、娘は?」
「結構なアバズレでな…遊び歩いてるらしくて、母親も行き先は知らないとよ。まぁ、直に見付かる…ウチと警察、自警団も動いてんだろうが?」
「…。」
「でもまぁ、今回はお前が悪い…何故乃良の身分をちゃんと示してやらなかった!?」
「身分って?」
「お前が嫁に貰う予定の女だと、皆に言って置けば防げた話じゃねぇのか?」
「それは…。」
「お前は自覚がねぇのかも知れねぇがなぁ…組の中でも、お前の嫁にどうだって話を持って来る奴は、掃いて捨てる程居るんだ…特に正月からこっち、お前にロリコン趣味が有るってんで、今迄諦めてた小学生の娘を持つ奴等からも話を持って来られて、俺は大変なんだぜ!?」
「何だそれ…。」
「それだけ次期組長に望まれてるってこった。本物の身内になりたい奴はごまんと居る…娘達の方で暴走する今回の様なケースも、今後起きる可能性が有るってこった。ちゃんと公表した上で守ってやるんだな。」
「だが、本人はまだ…。」
「いいじゃねぇか?お前の気持ちが固まってるなら…乃良がどうしても嫌なら、お前が振られて終いになるだけの話だろうが?」
事も無げに言い切る兄貴を見ながら…呆気にとられながらも、俺は感動していた。
「俺達みたいな立場の人間はなぁ…そうやって、大事なモノ守って行くしかねぇんだよ。」
「あぁ…。」
「何かあったら連絡して来い。こっちも情報入ったら知らせるから…。」
兄貴はそう言うと、颯爽と事務所を去って行った。
「失踪人届けは、きちんと受理されてたわ。」
「そうか。」
「放り込まれていた猫の死骸…死後5日って事は、12日に事件が起こったと考えていいみたいね。」
「事件になったのか!?」
「一応ね…色々出て来たから。」
「…何が出た?」
京子は眉を潜め、俺を窺うとポツリと問う。
「柴…冷静に聞ける?元刑事として聞くか、ガイシャの縁者として聞くか…どっち?」
「大丈夫だ…元刑事として。」
「…わかった。玄関のドアの鍵は壊されてたわ。土足で踏み込んでたから、下足痕も取れた。ホシは、女1名を含めた4人組。1人はパンプス、残りはスニーカ痕だった。付近の聞き込みでそれらしい男女が目撃はされているけれど、身元もホシなのかも不明。12日はお盆の初日で、下の部屋の住人も帰省していて無人だった。隣の住人は会社に泊まり込みで留守だったそうよ。隣の人の会社で、ネコちゃんバイトしてたって知ってた?」
「いや、そうなのか?」
「えぇ。夜に会社の掃除のバイトしてたらしいわ。12日も来る予定だったのが連絡も無く休んだんで、携帯に連絡を入れたらしいけど、繋がらなかったって。」
「隣なら、家に訪ねなかったのか?」
「出版会社でね…校了前で今も泊まり込んでいて、家には戻って無いらしいわ。目撃証言もバッチリ。」
「そうか…続けてくれ。」
「聞き込みで、嫌がらせの話しもアパートの住人から出て来たわ。玄関前に煙草を吸いながら若者がたむろしていたり、生ゴミがぶちまけられたり…猫の死骸置かれて、玄関に血文字書かれた事もあるみたいよ?」
「…。」
「バイト先に大挙して押し掛けて、あの子のツケで飲み食いされたり、商品を滅茶苦茶にされてクビになったりね。」
「…そうか。」
「部屋に散らばってた洋服や布団を裂いたのは、鋭利な刃物であるのは間違い無い。猫の死骸から、多分ナイフだろうって…それと…。」
「何だ?」
京子は幾分顔を歪め、一息置いて話を続けた。
「血痕が見付かったわ…畳と血染めのタオルが数本…調べた結果ガイシャの物と判明した。で、傷害事件に格上げになったの。」
「怪我してるって事か…。」
「それだけじゃない…少量だけど肉片と体液、焼け焦げた跡が発見された。」
「体液?」
「主にはリンパ液…それらが発見されたのと同じ場所で、サラダ油の容器も発見された…。」
「…焼かれた…って事か!?」
「範囲は小さいけれど、多分間違い無い…彼女、失禁してるのよ…。」
「!?」
「…拷問…受けたのかもしれない…。そのまま拉致されたか、自ら消えたか…鋭意捜査中よ。」
「…続けろ。」
腹の底から響く様な声に、京子は一瞬たじろいだ。
「…柴やバイト先の人にも確認して貰ったけど、ガイシャの荷物…いつも持ち歩いてたドラムバックから無くなっているのは、財布と携帯電話、通帳と、多分印鑑も紛失してる。部屋からも見付からなかったしね…バイト代を狙っての犯行って線も上がってはいるけれど…怨恨が有力ね。本人が持ち出した線も捨て切れないけど…。」
「それなら、バックごと持って行ってるだろう?」
「情報貰ったアキって娘の行方と、連んでた仲間の身元と行方を洗い出してるわ。多分、族仲間の名前や自警団の連中の名前も上がる…自警団の方には、聞き取りに刑事が向かうわ…いいわね?」
「あぁ…徹底的にやってくれ。」
「柴…大丈夫?」
「…お京…お前、気付いてたか?」
「虐めの話?」
「あぁ…。」
「まぁね…女の嫉妬は怖いから…。情が絡むと、女って生き物は時に残酷な事も平気でやってのける…私は昔から、ごまんと見てきたわ。」
「いつの間にか…寂しい顔してしか笑わなくなってた…わかってたのに……全く気付いてやれなかった。」
「我慢強いのも考えものだわ…泣き言一つ言わなかったんでしょ?」
「気ぃばっかり遣いやがって…。」
「鉄也から聞いたわ…2人で引越す予定だったって?」
「ずっとすれ違いの生活してたしな…あの女の嘘の芝居で…俺が別れたい為の画策をしたと誤解された。」
「それで?」
「一緒に居られない事に…俺が堪えられないと…。」
「それ、ちゃんと伝えた?」
「あぁ…。」
「そう…アンタ昔から言葉足らずだから…でも伝えたならいいわ。」
「これから、どうする事になってる?」
「付近の病院には、治療に来る事を想定して連絡を入れてあるわ。後は、交友関係を洗い出してる。逃げ込める場所とかね…。」
「…お前、伊庭鈴って知ってるか?」
「誰、それ?」
「向こうはお前の事を刑事だと知っていた。ネコは『リンさん』と呼んでいたが、新宿でバーを経営してると言っていた。」
「あぁ…『Bell』のマスターね。知ってるけど…アンタ、会った事有るの?」
「一度な…俺の甥と結婚すると言っていた。」
「嘘ぉ!?聡さんって、柴の身内!?」
「知らなかったのか…佐久間の…兄貴の息子だ。」
「…世間って…案外狭いわ。さっき話した、ネコちゃんのバイト先の出版社…夜の掃除してたっていう。」
「それがどうした?」
「私、そこの社長と飲み仲間でね…名前が上がった時には驚いたんだけど…『Bell』は、彼女のビルの地下に有るのよ。」
数日後、俺と京子は『Bell』のカウンターに座っていた。
「申し訳ありません。」
鈴は俺の顔を見た途端、カウンターの中で頭を下げた。
静かにスタンダードジャズが流れる店内は、照明を幾分落としてあり大人の雰囲気を漂わせている。
店内の奥に広がるバーカウンター、店の壁面をぐるりと巡らせたカウンター席。
中央には小さなソファー席が幾つか置かれ、そこかしこに置かれたモニターには、昔のハリウッド映画が無音で流されていた。
客は、京子以外は全員男性客…それもその筈で、『Bell』は新宿ではちょっと知られたゲイバーなのだそうだ。
「…3日程、此処に居ました。」
「今は!?」
「わかりません…買い出しに出ている間に、居なくなってしまって…。」
兎に角、ネコが生きている…しかも自分の意思で逃げている事がわかり、俺と京子は顔を見合わせて安堵した。
「どういう状態だったか、教えて貰えるか?」
「…申し訳ありませんが…絶対に話さないと約束しましたので…。」
「怪我の具合は?」
「…命に係わる怪我では無いと思います…丸2日間は…高熱を出していましたが。」
要領を得ない鈴の答えに、苛々が募る。
「何故俺に連絡しなかった!?聡に聞けば、連絡先は知れたろうが?」
「約束したんです…それに、彼女の気持ちを考えると…貴方に一番知られたく無いだろうと判断しました。」
「リンさん…警察に来てもらっても駄目?」
「申し訳ありませんが、黙秘権を行使させて頂きます。」
「そう…。」
その時カウンターの奥に続くバックヤードから、幽霊の様にフラフラと歩く女が出て来た。
「リン〜、飯食わせて…ガツンと腹に溜まるヤツ〜。」
「真、仕事終わったの?」
京子が、女に向かって声を掛けた。
「…京子さん、来てたの?まだ駄目…今日で3日寝てないよ…口から魂が抜け出そう…。」
「大変ね…いつなの、校了明け?」
「上手くいけば、明日の夕方…ずれ込むだろうけど…明日中には終わる。そしたら飲もうよ?」
「そうね…疲れてる所悪いんだけど、紹介したい人がいるのよ。」
「なぁによぅ…イイ男連れちゃって…彼氏?」
「私のじゃないわ。ネコちゃんの彼氏。」
カウンター内のスツールに座り込み、死んだ様にカウンターに突っ伏していた女は、ガバリと起き上がると俺の顔をマジマジと見詰めた。
「嘘ぉっ!?マジ!?噂の柴さん!?…イイ男じゃない…じゃなくて、はじめまして!私、ラピュタ書房の天宮真です。」
「はじめまして、柴健司です。ナオが、お世話になっていたそうで…。」
「いえ…こちらこそ。ネコちゃん、まだ行方不明だそうで…ご心配ですね。」
「その後、連絡ありませんか?」
「京子さんにも話したんですが…こちらには何も…。」
「…そうですか。」
「あの…。」
真は、俺の顔を覗き込む様にカウンターから身を乗り出した。
「11日に…ネコちゃんが最後に来た日に、夜の掃除のバイト辞める事になるかもしれないって言ってたんです。何かあったのって聞いたら、嬉しそうに笑ってたんですけど…関係あります?」
「あ…いえ…それは、関係無いと思います。」
「そうですか…まぁ、嬉しそうにしてましたしね…。」
2人で暮らす部屋に引越す事を、ネコは受け入れて夜のバイトを辞めようとしていたのだ…。
鈴が出したパスタに手を付けながら、真は話し続ける。
「高い所が好きで、よくウチのビルの屋上に登ってました。何か少し…自分を見失ってたみたいで。」
「自分を見失う?」
「そう…大きな目標が無くなって安心出来たのはいいけど、この先自分が何をしたらいいのか、わからないって。」
「…。」
「貴方の事を好きなだけに、迷惑掛けなく無いって…健気な子ですね?」
「そうよね…今時珍しいわ。」
「学歴も無いし、何をしたらいいのか全くわからないって言うから、何ならウチの会社手伝ってみる気ないかって誘ったのよ。」
「掃除のバイト?」
「違う違う…出版の方。掃除は、出版の仕事がどういった物か、見学がてらのバイトだったの。収入も入って、一石二鳥って喜んでたんだけど…。」
「そうでしたか。」
「戻って来たら、真剣に出版の仕事考えてみないかって聞いて貰えます?」
真はパスタを食べ終えて、ニヤリと笑って見せた。