引越す
「この部屋、幾らで借りたんです?」
「4万だよ。」
「格安ですね!いいなぁ…俺も越して来ようかな?」
「隣に空いてた部屋も、埋まっちゃったよ。」
「敷金礼金は?」
「敷金だけだ。こんなボロアパート、礼金なんか取らせるか!?」
ネコの引越しの手伝いに駆り出された鉄也は、6帖にキッチン、バストイレ付きの角部屋の窓を開けて羨ましそうに言った。
「本当に近いんですね…殆ど斜向かえじゃないですか!?」
窓の外に見える事務所の入ったビルを見て、鉄也が笑った。
たまたま直ぐ近くのアパートに空き部屋を見つけ、知り合いの不動産屋が管理しているのをいい事に、格安で借りれる様に交渉したのだ。
「此処だと、何かあっても直ぐに飛んで来れるからな。」
「…過保護ですね、総長。」
「何もないよ、柴さん…。」
2人の冷たい視線を浴びて、俺は事務所に残った衣装ケースを取りに戻った。
「……だろ?済まない、ネコちゃん。」
「うぅん、鉄さんが気にする事無いよ。」
「だけどね…。」
「平気だよ、慣れてるんだよ。」
衣装ケースを持って部屋に戻った俺の耳に、ネコと鉄也の会話が聞こえた。
「何が慣れてるって?」
そう言いながら部屋に入った俺に、ネコが笑いながら答える。
「独り暮らしだよ。ずっと、独りで暮らして来たから。」
「母親が退院する迄、俺の所で暮らせばいい。」
「折角借りたんだもん、今日からコッチで暮らすんだぁ。」
そう言いながら、ネコは包装紙をバリバリと剥いで、布団袋に入ったままの布団を押入れに納めた。
「後は何か有りますか、総長?」
「事務所の入口に置いてある、カラーボックスだけ運んでくれるか?」
「わかりました。」
そう言って鉄也が部屋を出た途端、素早くネコの躰を抱き締めて唇を奪うと、少し膨れる顔を覗き込んだ。
「鍵、寄越せよ。」
「鍵?」
「合鍵、貰ったんだろ?」
「…貰ったよ。」
「1本寄越せ。」
「…強引だなぁ、柴さん。」
「…いいから…夜這いに来てやるから。」
「嫌だよ、上げない!」
ドタンバタンと息を上げてふざけあう俺達の姿を見て、玄関から呆れた様な声が掛かった。
「アンタ達、いい加減にしなさい!下のお宅にご迷惑でしょ!?」
「京子さ〜ん、柴さんが虐めるよ〜!」
俺に組み敷かれたネコが笑いながら声を上げる。
「しぃ〜ばぁ〜!!アンタがそうしてると、狼が子羊襲ってる様にしか見えないから、止めなさい!!」
俺はネコの手から奪った鍵を、すかさず自分のキーホルダーに付けながら言った。
「早かったな。」
「行くんでしょ、病院?車用意して来たわ。」
世話になった京子に是非会いたいという沙夜の希望で、俺達は揃って病院に向かった。
病室には、先に来ていた兄貴が沙夜のベッドの横に座っていた。
今迄居た部屋とは違い、大きな応接セットの置かれた広い部屋で俺達がソファーに座ると、兄貴は沙夜に手を添えてエスコートし対面のソファーに一緒に腰を下ろした。
一通りの挨拶と京子に対する礼を沙夜が話す間も、兄貴が甲斐甲斐しく背中にクッションを当ててやったりする姿を見て、俺と京子は目配せしあっていた。
「お母さん、あのね…。」
ネコが話を切り出した時、沙夜が静かに遮った。
「乃良…話があるの。」
「なぁに?」
「お母さんね…退院したら…。」
ネコはうっすらと頬を染め、瞳を煌めかせて次の言葉を期待していた。
「…佐久間さんのお宅で、お世話になる事にしたの。」
俺と京子は顔を見合せ、2人の間に座って色を無くしたネコを見下ろした。
「お母さん、退院しても直ぐには動けないし…乃良の世話もしてあげれない。佐久間さんがね…離れがあるから、そこでゆっくり養生すればいいって…何なら乃良も一緒にって仰って下さってるの。」
「…そぅ。」
「乃良?」
「…私もね…。」
膝に乗せたカバンの下で、ネコが手をギュッと握るのがわかった。
「…少しお世話になったんだ…とっても素敵な離れでね…いい所なんだよ。」
「しばらく、お母さんと一緒に来ないか、仔猫ちゃん?その方が、お母さんも安心するが…。」
兄貴は、いつに無く優しい声音でネコを誘った。
「…私は、いいよ…私は…柴さんの所がいいから。お兄さん、母の事…宜しくお願いします。」
「いいのか、ネコ!?」
俺が堪らずネコを見下ろして問いただすと、ネコは俺に手を重ねて寂しさを堪えて笑った。
「いいんだよ、柴さん…お兄さんの家大きいし、お母さんのお世話してくれる人も沢山居るし…お兄さん優しくしてくれると思う。そしたら、お母さん幸せだしね。」
「…ネコ。」
ネコは無言で何も言わないでくれと俺に懇願し、震える手で俺の手を握ると、努めて明るく言った。
「遊びに行くね、お母さん!!美味しいお菓子沢山…持って行くから…。」
「…乃良。」
「私、もうすぐアルバイトの時間なんだぁ。そろそろ行くね。」
立ち上がったネコに続いて、京子が一緒に立ち上がった。
「私もこれで失礼します。送って行くわ、ネコちゃん。」
京子は俺を制して、ネコと一緒に病室を出て行った。
「…無理強いだったかな?」
ボソリと兄貴が言うのを聞いて、俺は堪らず唸り声を上げた。
「…話してあったろうが…アイツの行動も、想いも…。」
「健司…だからこそだ。」
「何だと?」
「柴さん…佐久間さんからお話を聞いて…私が…お願いしたのです。」
「何故です!?ナオは…。」
「乃良の世話になる事は…出来ません。」
沙夜は、涙を溜めながら俺を見詰めた。
「先程話した様に…退院出来たからと言って、私の躰が直ぐに動ける訳ではありません。乃良と一緒に暮らした所で、日々の生活も私の世話も…全て乃良に頼る事になってしまう。それでは、あの子が…あの子が余りに不憫です。」
「…沙夜さん。」
「アルバイトも私の為にしている事でしょう?昔からそう…あの子は、私の為にずっと我慢のしどおしなんです。私は…あの子に普通の子供らしい生活をして欲しい…あの子に幸せになって欲しいんです!」
「親心だ…わかってやれ、健司。」
「…子供の心は…どうなります?ナオは…自分の力で貴女を幸せにしたいと思って…。」
「無理させた所で、生活が破綻すれば辛い思いをするのは仔猫ちゃんなんだぞ!?それに、沙夜だって…折角手術して良くなったのに…負担を掛けれねぇだろうが!?」
「柴さん…きっと乃良は、全てわかった上で何も言わないでいてくれたのだと思います。」
「そっとしておいてやれ、健司。」
「…失礼します。」
俺は沙夜に一礼して、病室を出た。
「待て、健司!!」
兄貴の呼び止める声に、俺は振り向かずに歩を止めた。
「…わかってやってくれ。」
「わかってたなら、何で俺に言わなかった!?ナオは…今朝、引越し済ませちまったんだぞ!?」
「…そうか。」
「兄貴…沙夜さんの事…。」
「お前達にも相談してからと思ってな…聡にはもう話した。別に構わないとよ。」
「沙夜さんには?」
「まだ…仔猫ちゃんさへO.K.してくれたら…な。」
「ナオには、まだ言わないでくれ…動揺が大き過ぎるだろうが!?」
「お前達は…どうなんだ?」
「申し込んださ!!だが、結婚より先に自分の手で母親を幸せにしたいと言ったんだ!!」
「なら、母親は俺に任せろと言ってやってくれ。」
「そんな簡単な話じゃねぇだろうが…。」
俺は今度こそ兄貴を置いて、病院を後にした。
12時を過ぎても、ネコの帰って来る気配は無い。
俺は溜め息を吐きながら、ネコのアパートの部屋の前に座り煙草を燻らせていた。
「泣いてたわよ…。」
夕方、京子が電話を掛けて来た。
「何も言わないで、景色を眺めて涙だけ流して泣くのよ…佐久間さんの気持ちも、気付いたみたいよ。」
「あれだけ、あからさまじゃな…。」
「本気だって?」
「そうみてぇだな…。」
「兄弟揃って…まぁ、兄弟だから好みも似てるのかもしれないけど…沙夜さんって幾つなの?」
「確か…41かな?」
「反則だわね、あの若さ!?同じ位かと思ったわ!…庇護欲をそそるのも遺伝かしらね?」
「さぁな…。」
「聞き捨てならない事…言ってたわよ。」
「何を?」
「『私、又捨てられちゃったのかな?』って…不味いわよ、柴!?」
明け方、階段を登る音に顔を上げると、少し驚いた様な顔をしてネコが帰って来た。
「…来てたの?」
何事も無かった様に鍵を開けながらネコは言った。
「…中に入ってればいいのに…鍵持ってるでしょ?」
スルリと部屋の中に入ったネコを追い掛けると、何も言わずにいる俺を振り向かずに、ネコは言葉を紡いだ。
「大丈夫だよ、柴さん…私、案外平気かも。」
「ネコ…この部屋、解約しよう。戻って又一緒に暮らそう!」
「何言ってるの、柴さん…契約したんだから駄目だよ。それに、私この部屋出る気無いよ?」
「…ネコ。」
俺は、後ろからネコの肩と腰を抱き締めた。
「お前の居場所は、俺の所だろう?お前の帰って来るのは、俺の腕の中だろうが?」
「…そうだね…柴さんの腕の中にいられたら…それでいい…それだけでいいよ。」
腕の中でクルリと振り向くと、ネコは自分から抱き付いて来た。
「…柴さん…ギュッてして…キスして…。」
「あぁ…お前の望むだけしてやる。」
俺はネコを抱き締めたまま腰を下ろすと、膝に乗せてやんわりと唇を重ねた。
いつもより切羽詰まった様なネコの舌使い…幾分熱をもった唇は、少し塩辛い。
絡める舌も口腔内も、縋り付く躰も直ぐに熱を増し、息を上げたネコが潤んだ瞳で俺を見上げた。
「…柴さん…私…。」
「ネコ…お前は後悔しないのか?寂しさを紛らわす為に俺に抱かれて…それでいいのか?」
見合せた瞳が揺れて、ネコはスンと鼻を鳴らして俺の胸に顔を埋めた。
「…ごめんなさい、柴さん…。」
「謝るな…わかってるから…。」
もう一度唇を重ねる…先程とは違い、穏やかな甘える様な柔らかな唇と息を呑み込むと、ネコは俺の頬に擦り寄り首に腕を回して囁いた。
「…好き…柴さん…大好き…。」
「…ナオ…。」
やがて腕の中で穏やかな息を立てて眠るネコを撫でながら、俺は白々と明ける朝焼けに溜め息をついた。
「ちょっと貴方…あの2階に住んでる女の子の、お知り合い?」
アパートの前で、俺は2人の中年女性から棘の有る声を掛けられた。
「そうですが、何か?」
「…あの子、どういう子なの?学校にも行って無いみたいだけど?」
「独りで暮らしているみたいだけど、親御さんは?」
「事情があって、親とは別に暮らしていますが、彼女はちゃんと働いています。」
「実は私達…困ってるのよ…ねぇ?」
「そう…何か…ねぇ?」
「何か有りましたか?」
「いぇね…実は…。」
「止めましょう?今日だって、あんなモノ…報復されても怖いし…。」
「それもそうね…問題起こさない様に言って貰える?頼んだわよ!」
何だと、慌てて退散する女達を訝しく思いながら、俺はアパートの外階段を上がって行った。
「よぅ。」
「柴さん!どうしたの?」
「休みだろ?昼飯でもどうかと思ってな…掃除か?」
玄関のドアを雑巾掛けしていたネコは、嬉しそうに笑いながらバケツの水を排水溝に流した。
「夕方からバイト入ってるから、それ迄ならいいよ?」
「夕方から?聞いてねぇぞ。」
「紹介して貰ったの。ちゃんとした所だから、心配無いよ。」
「何の仕事だ?」
「ビルの掃除…あんまり大きくないビルなんだけど、オーナーさんがいい人でね。紹介して貰ったの。」
「誰だ?」
「柴さんの知らない人…大丈夫、出版社の入ってる2フロア分だけなんだぁ。働いてる人達もいい人ばっかりだよ!」
「…遅くに、そんな会社員が居る様な環境…若い女が危ないだろうが!?」
「大丈夫だって…大丈夫な環境だからって、オーナーさん紹介してくれたの。それにオーナーさん女の人だし…。」
「本当に大丈夫なのか?」
「心配性だなぁ〜、オーナーさんも同じフロアで仕事してるから、平気だよ!」
ネコは遣る気満々な笑顔を見せて、ガッツポーズを決めた。
「そういえば、アパートで何か有ったか?」
「えっ!?」
「さっき下で、ここの住人らしきババァ共が、何か言ってたが?」
「そう?別に何も無いよ。」
そう言って、ネコは部屋に入った。