その恋愛テクニック、私にだけ使ってください。
「悠真さん。次、ちょっと難しくしますね」
紬さんが、両手の中指と人差し指で、小さなハートを作った。
俺もつられて両手を上げ――かけて、止めた。
「……何の話ですか」
「いえ。なんでも」
カフェの窓際で、彼女は楽しそうに目を細めた。
おかしい。
俺は今、相手に好印象を与える心理学のテクニックを実践しているはずだった。
相手が飲み物に手を伸ばしたら、自分も伸ばす。
相手が少し首を傾けたら、自分も傾ける。
そうした仕草の同調を、昨夜読んだ本ではミラーリングと呼んでいた。
ところが、始めて五分。
俺の恋愛テクニックは、なぜか彼女の出し物になりつつある。
「まねしてました?」
「してません」
「そうですか」
紬さんはカップを持ち上げた。
俺も持ち上げた。
目が合った。
「……してました」
「はい」
彼女は唇をきゅっと結んだ。
笑うのをこらえているらしかったが、すぐに耐えきれなくなって、ふふ、と声がこぼれた。
「あと、悠真さん」
「はい」
「もう、入ってませんよ」
俺のカップは空だった。
好印象を与えるための行動が、ひたすら残り香を楽しむ男を生んでいた。
*
井上悠真。二十八歳。会社員。
仕事のメールなら、だいたい何とかなる。
お世話になっております、と始めれば、とりあえず一行目は埋まるからだ。
恋愛には、その一行目がなかった。
マッチングアプリで誰かと知り合っても、何を話せばいいのか考えているうちに会話が途切れる。
勇気を出して送った質問が、翌朝読み返すと採用面接になっている。
そんな俺と、三週間もやり取りを続けてくれたのが、瀬川紬さんだった。
二十九歳。研究職。
プロフィールには、本屋と喫茶店が好き、と書いてあった。
最初の話題はプリンだった。
彼女の写真に写っていた、少し固めの喫茶店のプリン。
そこから好きな店の話になり、好きな本の話になり、俺が自宅で作って崩壊させたプリンの写真を送る関係になった。
紬さんは、その写真をやたら気に入っていた。
『これ、どうやって食べたんですか?』
『深めのお皿と、強い気持ちで』
そんな、どうでもいいやり取りが続くのが嬉しかった。
だから、初めて会う約束ができたとき、俺は浮かれると同時に怖くなった。
メッセージなら、考える時間がある。
会って話す場合は、目の前で返事を考えなくてはいけない。
画面の向こうの俺には興味を持ってもらえても、実物の俺は、三十分で飽きられるかもしれない。
『土曜日の午後二時から、まずは二時間くらい、お茶でもどうですか?』
そう誘ったのも、最初から長い時間を提案する勇気がなかったからだ。
紬さんからは、『ぜひ。楽しみにしています』と返事が来た。
それを何度も読み返した。
読み返したところで、実物の俺の会話能力は上がらなかった。
そこで頼ったのが、恋愛心理学だった。
昨夜、本とネットを行ったり来たりして、スマホに作戦を書き込んだ。
相手の仕草を自然にまねる。
ちょっとした弱みを見せる。
誘うときは二択で聞く。
最初のデートは短めにして、余韻を残す。
目標は、二回目の約束。
使わないと決めた作戦もあった。
わざと不安にさせるとか、急に冷たくするとか、そういうものだ。
俺は紬さんに好かれたかったのであって、嫌な土曜日を過ごさせたいわけではなかった。
そして今日。
待ち合わせ場所に来た紬さんは、写真よりずっとよく笑う人だった。
紺色のワンピースに、薄いカーディガン。
耳元の小さな銀色の飾りが、首を動かすたびに光った。
待ち合わせの相手だと分かると、ほっとしたように目を細めて、俺に小さく手を振ってくれた。
その顔を見た瞬間、昨夜考えた最初の挨拶が全部飛んだ。
「初めまして。いつもお世話になっております」
仕事の俺だけが、生き残った。
紬さんは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「こちらこそ。今日もよろしくお願いします」
救われた、と思った。
その十五分後、俺は空のカップを飲んでいた。
*
ミラーリングは、いったん中止した。
代わりに、次の作戦に移る。
ちょっとした弱みを明かして、親しみを持ってもらうのだ。
「実は、このシャツ」
「はい」
「店員さんに選んでもらったんです」
紬さんが、俺の袖口を見た。
「今日のために?」
「……はい」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
店員に選んでもらった話は準備していた。
今日のためかどうか聞かれた場合の答えは、準備していなかった。
「服を選ぶの、苦手なんですか?」
「かなり。初デートだって言ったら、店員さんが一人増えました」
「二人体制」
「最終的に店長さんも来ました」
「大事にされましたね」
「俺の知らないところで、俺の服装方針が決まっていきました」
紬さんが口元を押さえた。
笑ってもらえた。
これは、成功ではないだろうか。
「帰るとき、全員に応援されたんです。『頑張ってください』って」
「ふふ。じゃあ、今日は責任重大ですね」
「その言い方は、ちょっと困ります」
「似合ってますよ」
不意に、声が柔らかくなった。
「袖のところ、かわいいです。悠真さんに似合ってる」
彼女は言ってから、もう一度袖口を見た。
俺は、さっきまで何のためにこの話をしていたのか、少し忘れた。
「私も、実は今朝、三回着替えました」
「え」
「この服でいいかな、気合い入りすぎかな、でもこっちは仕事みたいだなって。出る前に、部屋が大変なことになりました」
紬さんはカーディガンの端をつまんだ。
「なので、悠真さんだけじゃないです」
俺が弱みを見せたら、彼女も自分の話をしてくれた。
昨夜読んだ内容が頭に浮かぶ。
いける。
心理学、いけるぞ。
「すごく似合ってます」
「……ありがとうございます」
彼女はカーディガンから手を離し、膝の上に置いた。
その笑顔を見ていると、好印象だの親近感だのという言葉が、ずいぶん遠くに感じられた。
もっと簡単に言えばいい。
かわいい。
もう一回、笑ってほしい。
追加で頼んだコーヒーが届いたところで、俺は次の話題を探した。
「そういえば、お仕事のこと、ちゃんと聞いてなかったですよね」
「仕事ですか?」
「研究職って書いてありましたけど、どういう分野なんですか?」
紬さんはカフェオレを一口飲んだ。
「心理学です」
俺の頭の中で、何かが止まった。
「……心理学」
「はい。博士号も心理学で取って、今も大学で研究しています」
博士。
その二文字が、脳内でやたら大きく表示された。
こっちは昨夜、文庫本に付箋を三枚貼った人間である。
「悠真さん?」
俺はゆっくり両手を膝に置いた。
「大変、申し訳ありませんでした」
「急にどうしたんですか」
「専門家を相手に、とんだご無礼を」
「何の謝罪ですか」
紬さんが笑う。
俺はもう笑えなかった。
「……もしかして、さっきから俺がやってたこと」
「ミラーリングかな、とは思ってました」
「いつからですか」
「二回目くらいから」
ほぼ開始直後だった。
「じゃあ、さっきのハートは」
「どこまで付き合ってくれるのかなって」
「付き合ってたの、そっちですよね?」
「途中から、お互いさまです」
彼女は悪びれずに笑った。
思い返せば、こちらの動きを待つみたいな間があった。
カップを上げる速度も、妙にゆっくりだった。
俺は好感度を上げていたのではない。
遊んでもらっていたのだ。
「シャツの話も、少し格好悪いところを教えて、親しみを持ってもらおうとしたのかな、と」
「……はい」
「でも、店長さんのところは予想してませんでした」
「あれは本当です」
「なら、なおさら嬉しいです」
俺は顔を上げた。
「嬉しい?」
「今日のために、準備してきてくれたんでしょう?」
紬さんの目が、俺の袖口に戻った。
「似合ってるって言ったのも、本当ですよ」
テーブルの下で、指を組み直した。
笑われているのとは、少し違う気がした。
けれど、どう違うのかを考えるには、彼女の声が優しすぎた。
「……ちょっとでも、よく見られたくて」
「はい」
「昨日、恋愛心理学の本を買いました。それで、使えそうなことをスマホにメモしてきたんです」
「予習してきてくれたんですね」
「そう言ってもらえると、いくらか尊厳が戻ります」
紬さんは、また笑った。
「ちなみに、その本に『自然に』って書いてありませんでした?」
「ありました」
「そこ、けっこう大事だったかもしれませんね」
「自然にできるなら、本を買ってないんです」
今度は、彼女がコーヒーを飲んでいなくてよかった。
口元を押さえ、肩を震わせている。
目尻に浮かんだものを、指先でそっと拭った。
「……すみません。そうですよね」
「全部バレてるとは思わなくて」
「全部ではないですよ」
笑いを収めた紬さんは、少しだけ身を乗り出した。
「心理学をやっていても、考えていることが勝手に分かるわけじゃないので。今、悠真さんが話してくれて、分かったこともあります」
彼女の目が、まっすぐこちらを見る。
「教えてくれて、ありがとうございます」
俺の作戦メモには、こんな場合の対処法がない。
運ばれてきたプリンには、つやつやしたカラメルがかかっていた。
紬さんは最初の一口を食べると、少し黙った。
真剣な顔だった。
研究者の顔かもしれない、と思った。
「……おいしい」
「分析してたんですか」
「味わってました」
普通にプリンの好きな人だった。
彼女は俺のチーズケーキを見て、それから自分の皿を見た。
「一口、交換しませんか?」
「いいですよ」
店員さんに小皿をもらい、少しずつ分ける。
彼女が差し出したプリンを見て、俺はつい聞いた。
「これは、何か心理学的な」
「両方食べたかっただけです」
「すみません」
「私の行動、全部に名前をつけなくて大丈夫ですよ」
紬さんはチーズケーキを食べた。
また、少し黙った。
分かってきた。
この人は本当においしいものを食べると、ちゃんと忙しい。
「……こっちもおいしいですね」
「よかった」
「次は、こっちを頼もうかな」
その「次」が、俺と来る次なのか、そうではない次なのか。
博士号のない俺には、分からなかった。
*
店を出る頃には、緊張の種類が変わっていた。
沈黙が怖いというより、何か言うたびに顔を見られるのが恥ずかしい。
しかも紬さんは、俺が困ると、少し嬉しそうにする。
たぶん、性格がいい。
たぶん、少しだけ悪い。
「このあと、本屋と川沿いの散歩だったら、どっちがいいですか?」
口にしてから、しまった、と思った。
作戦メモの三番目だった。
紬さんが俺を見る。
俺も紬さんを見る。
彼女は、何もかも分かっている顔で言った。
「どっちも」
想定していない答えだった。
「本屋に寄ってから、お散歩したいです」
「……選択肢が」
「増えましたね」
「分かってて、乗ってくれるんですか」
「だって、どっちも楽しそうなので」
彼女は駅前の案内板を指さした。
「本屋、あっちですよね?」
「はい」
「じゃあ、まずは本屋から」
俺が上手に誘導するはずだったデートは、彼女によって順調に進んでいた。
本屋に入ると、紬さんは本当に楽しそうだった。
新刊の平台で立ち止まり、背表紙を眺め、知っている本を見つけると、そっと表紙に触れる。
俺が好きだと話した小説を覚えていて、似た雰囲気の短編集も教えてくれた。
「この人の文章、好きなんです。意地悪な人が出てくるんですけど、ちゃんと、その人にも好きな食べ物がある感じで」
「どういうことですか」
「悪いことをするためだけに生きてる人じゃないっていうか。あ、ごめんなさい。説明、変ですね」
「いや、読んでみたくなりました」
俺が本を手に取ると、紬さんは少し嬉しそうに口元を緩めた。
心理学の話をしているときとも、俺をからかうときとも違う顔だった。
好きなものを、好きな人に分かってもらえた顔。
――いや。
好きな人、は勝手につけ足した。
危ない。
自分に都合のいい補完をする能力だけは、博士課程まで進んでいる。
料理の棚の前を通ったとき、紬さんが立ち止まった。
一冊のプリンの本。
帯には、大きく「誰でも失敗しない」と書かれている。
「悠真さん、これ」
「俺の前で、あまり強い断言をしないでほしいですね」
「挑戦されてますよ」
「俺一人で、この『誰でも』を崩せます」
紬さんが本を胸に抱えた。
肩が小さく震える。
唇を結んで、こらえようとして、それでも笑いが漏れる。
「……そんな、誇らしげに」
「実績がありますので」
「写真、もう一回思い出しちゃった」
目尻を指で押さえながら、彼女は笑っていた。
その顔を見ていたら、言葉が出た。
「その笑い方、好きです」
紬さんの肩が止まった。
「……え」
「笑う前に、一回こらえるでしょう。で、結局、笑っちゃうところ」
「そんなに見ないでください」
「見ますよ。笑ってくれると嬉しいので」
彼女が視線を落とした。
さっきまで楽しそうに持っていた本を、なぜか丁寧に持ち直す。
「……それは」
「はい」
「メモの、どの項目ですか」
俺は一瞬、考えた。
そんなものは、どこにも書いていなかった。
「どこでもないです。今、思ったので」
紬さんは黙った。
耳元の銀色の飾りが、小さく揺れた。
その上が、少し赤かった。
「それは、急にやらないでください」
「予告したら変じゃないですか」
「変でも、心の準備はできます」
俺も黙った。
困らせた、と思った。
でも、嫌な困り方ではなさそうだった。
さっきまで全部お見通しだった人が、一冊のプリンの本を盾みたいに持っている。
もう一度かわいいと言ったらどうなるのか、ものすごく知りたかった。
けれど、言う側にも心の準備が必要だった。
「……その本、買うんですか」
「買います」
「プリン、作るんですか」
「はい」
「失敗したら、写真送ってください」
「成功しても送っていいですか?」
「そっちも、すごく見たいです」
ようやく彼女が顔を上げた。
「じゃあ、どっちでも送ります」
今度の二択は、どちらも俺に都合がよかった。
*
川沿いの遊歩道は、駅から歩いてすぐだった。
風で水面が揺れていた。
並んで歩いていると、買った本の袋が、ときどき互いの膝に当たった。
紬さんは仕事の話も少ししてくれた。
人が相手に伝えたつもりのことと、相手が受け取ったこと。
そこに、どんなずれが生まれるのか。
研究内容を俺にも分かる言葉にしようと、途中で何度か言い換えていた。
「すみません。こういう話、長くなっちゃうんです」
「聞いてて面白いです」
「本当に?」
「はい。自分が伝えたつもりでも、相手には違う意味で届くって、仕事でもしょっちゅうあります」
「ありますよね」
彼女の声が、少し弾んだ。
そこから話が広がった。
メールの句点が怖く見える話。
丁寧に書きすぎて、かえって距離を感じさせてしまった話。
俺が取引先に送った、やたら長いお礼メールの話をすると、紬さんは「その慎重さ、ちょっと分かります」と笑った。
話しているうちに、いつの間にかベンチに座っていた。
紬さんが腕時計を見る。
俺もスマホを確かめた。
午後三時五十分。
事前に約束した二時間が、もうすぐ終わる。
紬さんは本の袋の持ち手を、指できれいに揃えた。
「……そろそろ、駅に向かったほうがいいですよね」
俺は、わずかに返事を遅らせた。
「そうですね」
ここから駅までは、歩いて十分ほどだ。
今出れば、約束どおり四時には解散できる。
昨夜のメモにも、短めに切り上げると書いた。
物足りないくらいで終えて、余韻を残すのだと。
でも、今は少しも切り上げたくなかった。
買った短編集の、どの話が好きなのか。
プリン以外には何を作るのか。
仕事で疲れた日は、どんなふうに過ごしているのか。
話題がなくなることをあんなに恐れていたのに、聞きたいことがいくつも浮かんだ。
けれど、彼女は時間を気にしている。
引き留めて、困らせたくはなかった。
俺たちは立ち上がった。
駅までの道は、来たときより短かった。
あと一つくらい、交差点があればいいのに。
もう少しだけ、信号が赤になればいいのに。
そんなことを考えているうちに、改札が見えた。
紬さんが足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
きれいな笑顔だった。
「楽しかったです」
俺も楽しかった。
ものすごく。
だからこそ、聞きそびれたまま帰りたくないことがあった。
この人は、俺が緊張していることを知っていた。
好かれたくて、下手な小細工をしていることも知っていた。
だから、俺が傷つかないように、ずっと上手に付き合ってくれていたのかもしれない。
知識がない俺には、そこが分からない。
いや。
知識があっても、聞かなければ分からないのだと、さっき教えてもらったばかりだった。
「紬さん」
「はい」
「ひとつ、テクニックなしで聞いてもいいですか」
彼女が、まっすぐ俺を見た。
「今日、合わせてくれてたのって……どこまでですか」
言ってから、慌てて付け足す。
「俺が緊張してるから、ずっと気を遣わせてたんじゃないかって」
紬さんはすぐには答えなかった。
少し考えて、それから、指を一本立てた。
「カップをゆっくり持ち上げたのは、わざとです」
「はい」
「ハートを作ったのも、わざと」
「ですよね」
「でも、服を三回着替えたのは本当です」
指が止まった。
「本屋とお散歩、両方って答えたのも、本当に両方行きたかったからです。悠真さんと」
駅の中を、人が行き来している。
その気配が、少し遠くなった。
「似合ってると思ったのも、楽しかったって言ったのも、本当です」
彼女はそこで、困ったように笑った。
「……私も、ちゃんと言えてなかったですね」
紬さんが、スマホを取り出した。
「恥ずかしいもの、見せてもいいですか」
「え」
「悠真さんも教えてくれたので」
画面を操作し、俺に向ける。
メモが開かれていた。
タイトルは、『悠真さんと会う日』。
仕事の話をしすぎない。
楽しかったら、楽しいと言う。
褒められたら、否定せずにありがとうと言う。
最後に、自分からまた会いたいと言う。
俺はその画面を、何度か読み返した。
「紬さんも、メモ」
「作りますよ。緊張して忘れそうだったので」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「特に、最後」
「……また会いたいって」
「はい。言おうと思ってたんです。でも、帰る時間が近づいたら、急に難しくなって」
そう言って、腕時計を見た。
「このあと予定があるなら、引き留めちゃいけないなって」
「予定?」
「二時間くらいって言ってたでしょう」
「……ないです」
「え」
「このあと、何もないです」
「私も、ないです」
俺たちは見つめ合った。
「じゃあ、なんで帰ろうとしてたんですか」
「悠真さんが、帰る時間かなって」
「俺は、紬さんが帰りたいのかなって」
紬さんが目を閉じた。
「研究の題材みたいなすれ違いを、普通にやってしまいました」
「実地は難しいですね」
「難しいです。すごく」
彼女が笑った。
俺も、ようやく笑えた。
改札へ入っていく人の邪魔にならないように、二人で少し端へ移動する。
別れるために来た場所で、俺たちはもう一度向き合った。
「私、あのプリンの写真をもらった日、悠真さんに会ってみたいって思ったんです」
スマホをしまった紬さんが、ぽつりと言った。
「あれを見て?」
「はい」
「成功したほうじゃなくて?」
「成功した写真、もらってませんよ」
「そうでした」
成功したことがないのだから、当然だった。
彼女は小さく笑ってから、本の袋を見下ろした。
「仕事がうまくいかなくて、ちょっと落ち込んでた日だったんです」
覚えていた。
『今日は少し、仕事でへこんでいます』
そんなメッセージをもらった夜。
何か気の利いた励ましを送りたかったのに、どれを書いても、よく知らないくせにと思われそうで。
迷った末に、俺は前日に作った、崩れたプリンの写真を送った。
『とりあえず、俺の失敗を置いておきます。笑えそうだったら笑ってください。返信は大丈夫なので、今日はゆっくり休んでください』
今考えても、それでよかったのか分からないメッセージだった。
「あのとき、ひとりで声に出して笑っちゃって。あ、今日はまだ笑っていいんだな、って思ったんです」
紬さんは顔を上げた。
「返信は大丈夫って言ってもらったのに、すぐ、何か返したくなりました。もうちょっと、この人と話したいなって」
「……プリン、あんなことになってよかったです」
「ふふ。作った人が言うことじゃないですよ」
彼女の手が、本の袋を持ち直した。
「だから今日は、悠真さんにも笑って帰ってほしかったんです。せっかく会えたから、一緒に楽しく過ごしたくて」
そこで言葉を切った。
耳元の飾りが、小さく揺れた。
「あと」
「はい」
「私のことも、かわいいって思ってもらえたら、いいなって」
「思ってます」
準備していない返事が出た。
「さっきから、ずっと」
紬さんの指が、袋の持ち手をきゅっと握った。
「……そういうこと、もっと言ってください」
「全部、見透かされてるのかと」
「分かりませんよ」
初めて、少しだけ拗ねた声だった。
「分からないから、今、すごく頑張って聞いたんです」
俺は紬さんを見た。
博士号を持っている人。
俺の一夜漬けを、あっさり見抜いた人。
何をしても余裕で笑って、手のひらの上で転がしてくれる人。
だと思っていた。
でも今、目の前にいる彼女は、俺の返事を待っている。
それも、明らかに緊張しながら。
「私だって、好きな人にどう思われてるかは、不安です」
少し間があった。
紬さんが、自分の言葉に気づいた。
「……今の」
「はい」
「聞き流してもらっても」
「無理です」
「ですよね」
彼女が空いている手で、顔の半分を覆った。
俺まで熱くなっていた。
こんなときに、気の利いたことを言えたらいいのに。
昨夜は、そのために本を読んだはずなのに。
頭の中に残っていたのは、一つだけだった。
「俺も、好きです」
紬さんの手が、少し下がった。
「会う前から、やり取りするのがすごく楽しみでした。今日、会って、もっと好きになりました」
言い終えた途端、足元が落ち着かなくなった。
彼女は黙っていた。
俺も黙っていた。
今度の沈黙は、埋め方を探さなくてもよかった。
紬さんが、小さく息を吐いた。
「……博士号」
「はい?」
「今日、全然役に立たないです」
そして、笑った。
唇を結んで、こらえようとして。
結局、こらえきれずに。
俺の好きな笑い方だった。
*
「まだ帰りたくないです」
今度は、迷わずに言えた。
「もう少し、一緒にいてくれませんか」
紬さんが、ほっとしたように笑った。
「私も、それ、言いたかったです」
胸の奥にあったものが、ゆっくりほどけた。
俺はスマホをポケットの奥へ押し込んだ。
もう、メモは見なくていい。
「それと、来週も会いたいです」
「はい」
「土曜と日曜、どっちが――」
止まった。
紬さんが俺を見た。
俺も紬さんを見た。
そして、今度は二人で笑った。
「違うんです。今のは普通に予定を」
「分かってます」
「本当に」
「土曜日、空いてます」
「……ありがとうございます」
「日曜日も、今のところ空いてます」
欲張っていいのだろうか、と顔に出たらしい。
彼女は、さっきまでの余裕を少し取り戻して言った。
「まずは、土曜日からにしましょうか」
「はい」
「そのあと、また誘ってください」
次の、その次。
そんな未来を、彼女のほうから口にしてくれる。
初デートの目標は達成されたのに、もう、帰る理由にはならなかった。
駅を出ると、さっきより日差しが傾いていた。
行き先は、また川沿い。
同じ場所を歩いてもいいと、二人とも思っていた。
「悠真さん」
「はい」
「その恋愛テクニック、私にだけ使ってくださいね」
紬さんは、前を向いたまま言った。
「もう、やめるつもりでしたけど」
「じゃあ、準備してこなかったほうだけ」
「準備してこなかったほう?」
「笑い方が好き、とか。また会いたい、とか」
彼女の耳が、また少し赤くなった。
「……ああいうのは、私にだけでお願いします」
「それ、テクニックじゃないです」
「知ってます」
少し歩いてから、俺は答えた。
「紬さんにしか、言うつもりないです」
彼女はこっちを見なかった。
ただ、口元が緩むのを隠すみたいに、わずかに顎を引いた。
それから、本の袋を持ち替えた。
空いた手が、俺のすぐそばに来る。
「あの」
「はい」
「今度は、私のお願いも聞いてもらっていいですか」
「もちろん」
「手、つなぎたいです」
俺は差し出された手を取った。
温かかった。
そして、少しだけ力が入っていた。
この人も緊張しているのだと、触れて、ようやく実感した。
紬さんが、俺の手をきゅっと握る。
俺も、同じくらいの強さで握り返す。
今日、いちばん自然にできたミラーリングだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
好かれたくて頑張っている姿を、好きになってもらえる。
今回は、そんな初デートを書きたくなりました。
悠真くんは心理学を予習してきましたが、紬さんも「また会いたいと言う」という、とても難しい課題を抱えて待ち合わせに来ています。
相手の仕草は見抜けても、自分に向けられた好意には、確信が持てない。
だから最後は、二人ともちゃんと言葉にしてもらいました。
なお、崩れたプリンは、本人の知らないところで大変いい仕事をしています。




