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「まだ元気そうな犬なのに」

「老衰らしいよ。こう見えて、もう十八歳だって」

「マジかよ……って、なんで知ってるんだ?」

「ココを飼っていた子が、私の友達なの」

「へぇ、世の中って狭いな」

「本当にね」


 チヒロと笑い合っていると、私のスマホが鳴った。見ると、みやちゃんからのメールだった。

「ココの手紙、大事に飾っているよ」という文字と共に、ココの写真が添えられている。

 まだ子犬だった頃や、成犬になってみやちゃんとじゃれ合う姿まで。


「見て、ココ。あなたって昔から可愛いんだね」

「ワン!」


 写真に写るみやちゃんを見て、ココは尻尾をブンブン振る。今までにない大興奮だ。叶うなら、みやちゃんに会いたいと思っているのかもしれない。会っていいのか悪いのか、それは定かではないけれど。

 ココと一緒に、スマホを覗き込む。画面をスクロールしていると、見たことない可愛い女の子が出てきた。そういえば、みやちゃんには妹がいたんだっけ。

 写真を見る限り、みやちゃんに似た、元気いっぱいの妹だ。ココと一緒に、満面の笑みで公園を走り回っている。


「妹かぁ、いいなぁ」


 ポツリと呟いた、何気ない言葉。だけどその言葉は体を通って、不気味に心を侵食した。

 ザワザワと胸が騒ぎだす。

 どうしてか鼻がツンとして、泣いてしまいそうな気持ちになる。


 苦しい――なぜか、そう思った。


 もう一度スマホが鳴ったのは、私の顔の横を、一筋の汗が流れた時だった。今度は写真じゃなくて、文章のみ。


「えぇっと、『実はココは』――」


 そこには、拾ったばかりのココは病弱で、余命宣告を受けていたことが書かれていた。ココ、捨て犬だったんだ。


「みやちゃんが見つけてくれてよかった。

 拾ってくれた恩を返したくて、ココは長生きしたのかな? すごいね、ココ」


 そうして頭を撫でると、ココは目を瞑った。次に、優しいまん丸の瞳でチヒロを見る。

 当の本人は、そんなココの視線に気づいていないみたいだ。ココから話を変えて「余命ね」と、アパートへ帰りながら空を見上げる。


「俺にも余命が分かっていたら、生きてる間にもっと違うことができただろうな。

 そうすればあんな雨の中、突然いなくなることはなかったのに」


 いなくなるって、つまり「死んだ」ってこと?

 疑問に思っていると、チヒロは「悪い。不謹慎だった」と視線を下げた。

 今更だけどチヒロとフミは死んでいて、それぞれに死んだ原因がある。……詳しく聞こうとは思わないけど。

 私の前で普通に喋る姿を見ると、彼らがこの世ならざる者だとは思いにくくて。つい悲しみに鈍感になってしまう。

 余命があろうとなかろうと、死んだことに対する辛さは一緒だ。改めて、隣を歩くチヒロがもう生きていないことに胸を痛める。


「余命、か……」


 思い出したのは、父のこと。あれほど無茶な食生活をして、薬まで飲んで……。体に触ったに違いない。母がため息をつくくらいだったんだし。


『お酒は飲み過ぎるし、ご飯は食べ過ぎるし。

 だからお医者さまに、先は長くない、なんて言われちゃうのよ』


「……え?」


 ふと聞こえたのは、母の声。

 私、今……記憶を「拾った」?


 頭を整理していると、横に並ぶチヒロが「あ」と、私を見る。


「悪い、呼ばれた。手紙を預かってくる。……おい、どうした?」

「……あ、ごめん。ボーッとしてた」

「暑さでやられる前に、早く帰れよ」

「うん。チヒロもね。行ってらっしゃい」


 チヒロは「おう」と言って、来た道を戻って行く。「呼ばれる」って、差出人からかな?チヒロは、隣の配達エリアなんだっけ? ここから遠くない場所で、差出人と会えたらいいけれど。


「よし、じゃあ私たちも帰ろうか。

 ……ん? ココ?」


 足元を見ても、ココはいなかった。どうやら、チヒロについて行ったらしい。いつの間に。


「……静かだなぁ」


 さっきまで賑やかだったのに、今聞こえるのはセミの鳴き声だけ。辺り一帯に響いているのをどこか遠くで聞きながら、さっきの記憶を思い出す。


 ――だからお医者さまに、先は長くない、なんて言われちゃうのよ。


 お母さんの言葉を察するに。

 お父さんは、きっと――


「余命宣告を受けていたのなら、ひょっとしてもうこの世にいないかも……」


 下げていたビニール袋が、風もないのにガサリと揺れる。その音は、私の推測を肯定しているようだった。


 ◇


 アパートに帰ると、ドアを開けるより先に、フミが玄関に立っていた。どうやら階段を上がる私の足音が聞こえたらしい。


「おかえり。芹香……外、そうとう暑かったの?」

「え、なんで?」

「ひどい顔してる」


 父のことを考えていたからかな?

 それにしても「ひどい顔」とは、これまたひどい言い草だ。確かに、ちょっと頭がグワングワンするけど、これはきっと空腹のせいだ。


「お腹減ってる? 今から雑炊を作るね」

「――待って」


 フミに手を握られる。

 あれだけ暑い外を歩いてきたというのに、私の手は冷たかった。発熱するフミに手を握られて、ちょうどいい温度になるなんて。

 混乱していると、今度はフミに頭を撫でられる。落ち着いてと言わんばかりの、優しい手つきだ。


「その様子だと、記憶を拾ったね?」

「……うん」


 どうやら私は、思っていることが顔に出るタイプらしい。

 フミには何もかもお見通しだろうから、私は「父が余命宣告を受けていたかもしれないこと。もう亡くなっているかもしれないこと」を包み隠さず話した。

 フミは焦らなかった。私みたいに狼狽えなかった。……いや、私だって自分で狼狽しているとは気づかなかった。フミが「ひどい顔」と教えてくれたから、自分が動揺していると初めて知ったのだ。


「お父さんが……そうか。

 それを知って、芹香はどんな気持ち?」

「……分からない。ただ、思い出そうとしていた家族が故人だったら、むなしい。私が記憶を思い出したって、意味のないことのような気がするから」

「まだ芹香の予想が正しいと決まったわけではないけど、『むなしい』と思うのは仕方ないことだよ。せっかく記憶を思い出しても『その人はもういない』んじゃ、悲しいよね。

 でもね」


 フミは私の両肩に手を置いた。いつもの優しい眼差しを、私に向けながら。


「結果がどうであれ、意味のない過程は絶対にない。

 お父さんが余命宣告を受けて、もうこの世にいなくても――

 今芹香が記憶を取り戻そうと思っていることには、ちゃんと意味があるよ」

「……うん」


 フミに言われると「そうなんだろうな」って、なぜか納得できる。説得力があるのだ。無言の圧、とでも言うのだろうか。

 キラリと光る眼光。その強さが、私に安心感を運んでくれる。


「さっきココと買い物してる時にね、前向きに記憶を拾っていこうって決めたんだ。

 だからってワケじゃないんだけど……。

 雑炊じゃなくて、違うメニューを作ってもいい?」

「もちろん。でも、どうして?」

「よく分からないんだけど、さっきからお父さんを思い出そうとすると、なぜかオムライスが頭に浮かぶの。

 だから作ってみたい。ひょっとしたら、お父さんの記憶を拾えそうな気がするから」


 お父さんを思い出す――この過程にも何かの意味があるなら、私は逃げずに立ち向かいたい。

 私のことなら楽しい記憶も悲しい記憶も、全部拾うと決めたから。


 フミは快諾してくれた。「手伝うよ」と腕まくりまでして。でも病人に料理なんてさせられない。「すぐできるから」と、待ってもらうことにした。


 そうして二十分後。

 醤油で味付けした、和風のオムライスが完成した。


「「いただきます」」


 醤油と塩コショウ、それにバターで味付けした。バターはスーパーで買った物ではなく、冷蔵庫の中に、数種類の食パンと一緒にあったのだ。どうやら私はパンが好きらしい。

 もちろん、パンの賞味期限はとっくに過ぎていたから、泣く泣く捨てたけど。


「あ、すごく美味しいねっ。和風のオムライスって、僕初めて食べるよ」


 風邪だから食べられるか心配したけど、フミのオムライスは速いペースで減っていった。足りなかったらいけないから、テーブルの上には一応、新たに切ったリンゴも添えてある。


「オムライスを作ってくれるなんて、料理が得意なお父さんなんだね」

「うん……。でも、子育てに積極的ってわけじゃなかったんだ。お母さんに押し付けていた。

 女の人が家事・育児をするっていう、古い考えを持つ人だった」


 オムライスを作っている時。少しずつ父のことを思い出した。

 玉ねぎを切っている時に、ズッと鼻をすすりながら包丁を握る父の姿を思い出した。

 卵を割る時に、父の武骨な手が繊細な手つきで動く様を思い出した。

 だけど料理を作ったら、「食べろ」とそれだけで。テレビの音だけが、その場をつないでくれていた。さして面白くないバラエティ番組を、父と一緒に見た記憶が蘇る。

 もちろん、食事が終わったら、それぞれ別の部屋へ行った。お父さんは晩酌をしながらご飯を食べていたから、決まって私の方が早かった。私の「ごちそうさま」と言う声は、父が開けた缶ビールのプルタブ音に、何度かかき消された。


「父とは、料理を通してのみコミュニケーションを図っていた気がする。

 一時、お母さんの体調が悪かった時。お父さんが私のお弁当を作ってくれたんだ。あの時の幼稚園は、まだお弁当の制度が残っていたから」

「毎日、欠かさず?」

「毎朝、四時に起きてお弁当を作っていた。自分は五時半に家を出るから、それに間に合うようにって」

「遠くの仕事に行っていたんだね」

「土木をする父だったから、その時その時に、出勤する場所が変わるの。父は遠くの現場へ行かされることが多かった。……口数の少ない父だったから、会社で浮いていたのかもね。嫌われててもおかしくない」


 家族にさえ「料理を通して」でしかコミュニケーションを図れない人だ。仕事の人へは、もっとひどい有様だったろう。そんな父を遠くの現場へ行かせて敬遠したい会社の気持ちは、残念ながら少し分かる。


「そういう日常が嫌で、食べることや飲むことで鬱憤をはらしていたのかもしれない。とはいえ、お母さんのアドバイスに聞く耳を持たなかったのは許せないけど」

「でも芹香はもう半分以上、お父さんを許している顔だ」

「……そんなことないよ」


 いくらコミュニケーション下手な父とはいえ、家でのことを母に押し付けたのは許しがたい。それに昔の私が言うには、家を出たそうじゃないか。


 ――出て行ったの。お家から。


 確かに、幼稚園のお弁当を作ってくれて嬉しかった。でもそれは、捨てられた猫を不良が拾う姿に胸を打たれるのと同じで、心が「ギャップ」に惑わされているに過ぎない。


「家庭をかえりみなかったお父さんに、完全に許しを与えることはできないな」


 そう言い切ると、フミは「そっか」と。オムライスを完食した後、リンゴに手を伸ばす。

 そんな彼の後ろには、フミがいつも携帯している星空バッグがあった。ずっと見ていると何度も流れ星が横切っていく。モヤモヤした心が、星を見て行く内に少しずつ癒されていった。


 同時に、バッグからずっと目が離せない。

 頭が逡巡し続ける。

 そして一つの可能性を閃いた。


 あのバッグに入ってる私宛の手紙。

 差出人は父ではないだろうか、と。


 育児に介入しない、勝手に家を出て行ったなど、私たち家族に後ろめたいことをした。

 そして暴飲暴食を続けた父は、余命宣告を受けていた。もうこの世を去っている可能性がある。


 もしお父さんが死んでいて、娘の私に少しでも「悪かった」と思っているなら……私に手紙を書いてくれるんじゃないかなって、そう思ったのだ。


 

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