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第1章 なくなった記憶と、手紙屋さん

 

 起きたら知らない場所にいた。

 右へ左へ視線を動かすと、ここが病院だということは分かった。

 だけどお医者さんが教えてくれた、私の名前。


「あなたの名前は藤村芹香です」


 これに関しては、全くピンとこなかった。





 目が覚めて、妙に気怠い体を起こす。

 すると偶然隣に立っていた看護師が、私を見て「え」と声を漏らす。


「よかった、目が覚めたんですね」


 目が覚めてよかった?

 となると今まで私は、起きることが出来なかったのだろうか?


 周りを見渡す。何も思い出せない。まるでシワのないツルツルの脳に、五感で得た情報を落とし込んでいるような感覚だ。見るもの聞くもの触るもの、これら全てが新鮮で、新しい。


「今ドクターを呼んだので、待っている間、血圧と脈を測っておきましょうか」

「よろしく、お願…………」


 しばらく寝ていたからか、喉が枯れて上手く話せない。口の中の上と下が、ピッタリとくっついてしまう。

 気づいた看護師が、「お水をもってきますね」と病室を出た。


「私……」


 何をして、病院に運ばれたんだろう?

 ……ダメだ、全く思い出せない。


 ゆっくりと、体を動かしてみる。右手、左手、右足、左足。どの部位も動くし、痛くない。つまりケガをしたわけじゃない、っていうこと?


「あ、痛っ……」


 体を起こそうとした瞬間、頭にズシンと重い痛みが走る。手を当てると、包帯が巻かれている。どうやら頭を怪我したらしい。


 現状から、少しずつ自分の状況を把握していく。

 だけど、不気味だ。


「今」から情報を得ることはできるけど、過去の記憶からは何一つ情報が読み取れない。


「あぁ、よかった。目が覚めたんですね」


 混乱しながらベッドの上で横になっていると、背の高い男性医師が入ってきた。後ろに、銀色のトレーを持つ看護師が二人いる。その中には、さっきの看護師がいて、言った通り水を持ってきてくれていた。


 脈や血圧を測りながら、ゆっくり水を飲ませてもらう。そうはいっても、口の中を潤す程度だ。それ以上は「体に負荷がかかるかもしれないから検査が終わった後に」、と言われてしまった。


「あの……どうして私は、ココにいるんでしょうか?何も思い出せなくて……」


 どうやら頭を五針縫ったらしい。傷口を確認した先生が「順調ですね」と私に微笑みかけた。

 と言っても先生の笑みは、思いもよらない私の質問を受けて、石化してしまったけど。


「えぇっと、ご自分のことは分かりますか?」

「いえ……。自分が誰かも、全く……」

「検査をしてみましょうか。――至急、検査室を確保して」


 指示された看護師は「はい」と返事をして、さっそく電話をかける。「検査室を使いたいのですが、今日空いている時間は」と言いつつ、退室した。


 頭の検査だろうか? 痛くなければいいなと、この歳になっても臆病者の自分が顔を出す。

 ……この歳って、自分がどの歳か分からないけど。


「あなたの名前は藤村芹香です。

 18歳で、この四月に明比野あけびの大学の学生になったようです」

「その情報は、どこから……。あ、家族でしょうか?」


 そう聞いた瞬間、医師たちは顔を曇らせた。どうやら違ったらしい。


「あなたの財布に学生証があったので、そちらを確認させて頂きました。病院から大学に連絡を入れています。大学経由で、ご家族にも『藤村芹香さんの入院』については話がいってるのですが……」

「……」


 歯切れの悪い言葉に違和感を覚え、ぐるりと病室を見回す。荷物がほとんどない。すなわち、家族が来ていない、ということだ。


「……分かりました。ありがとうございます」


 目を瞑って、お礼を言った。

 ちょうど血圧も測り終え、ベリッとマジックテープがはがされる。

 さっき締め付けられるような痛みが走ったのは、これのせいだったのか――軋んだ胸を落ち着かせるよう、ゆっくり擦る。その動きに合わせて、点滴の管がゆらりと揺れた。


「先生、一時間後に検査室を確保できました」

「了解。それじゃあ藤村さん、また少ししたら看護師が迎えにきますね。頭の検査をします。その結果を踏まえて、ゆっくりお話させてください」

「……はい」


 初めにお医者さんが退室し、続けて点滴の様子を確認した看護師がいなくなった。

 ここは個室。誰もいなくなった部屋が、私が一人であることを強調するように静まり返る。


「……」


 自分の名前も分からなかった。もちろん明比野大学なんて名も初耳だ。


「四月から入学……。今は、何月なんだろう?」


 窓の外は、空に浮かぶ雲が見えた。それだけでは今が何月か分からない。私は半袖を着ているけど、病院の温度は一定に保たれているというし、正確な判断材料にはならない。


 もしかして、ずっとこの状態なのかな?

 いつか思い出せる日が来る? あと何日で?

 私の記憶、どこに埋もれてしまったのだろうか?


「最悪だ……」


 体の内側で不安の埋火が勢いを上げた、その時だった。


「本当だよね、僕も困っちゃったなぁ」


 一人きりだと思っていた病室に、見慣れない白髪が現れた。

 いつ、入って来た? 音はしなかった。ドアの音も、足音も。


「だ、れ……?」


 もしかして私の家族? 今さらになって現れた?

 だけど白髪の男は「違うよ」と、私の心の声に返事をするように言った。透き通るような紫色の目が、私へ向く。


「僕は手紙屋。残念ながら、君の家族じゃない」

「て、がみ……?」

「そう。君宛てに一通、手紙が届いているんだ。今日はそれを渡しに来た」


 背はかなり高いけど、柔らかい眼差しが特徴的な男性だ。

 着ているのは白いシャツに、黒いパンツ。かなり大きな紺色のカーディガンを、ゆるく羽織っている。どのくらい緩いかというと、今にも肩からずり落ちそうなほど。


「手紙屋って、つまり……郵便局の人ってことですか?」

「あはは、違うよ。手紙屋は手紙屋だ。といってもマイナーな職業だから、知らなくて当たり前だよ」


 手紙屋の男性は、その名の通り、肩から長いショルダーバッグを下げている。そのカバンは星空の模様をしていて……なぜか動いている。あ、今カバンの中で、流れ星が流れた。


「きれい……」


 起き上がれないから、目だけをカバンに向ける。すると男性は、そんな私に気づいたのか近づいてくれた。今となっては、視界いっぱいに一面の夜空が広がっている。……ちょっと近づきすぎじゃないだろうか。


「あの……」

「あぁっと、失礼。ちょっとイスを拝借しよう」


 男性は、近くにあったパイプイスを広げる。ベッド脇に据えられていたものの、ずっと使われてなかったのだろう。広げる時に、ギギギと妙な音がした。


「……」

「……それで、君宛ての手紙なんだけど」


 男は、星空のカバンから、一枚の封筒を取り出した。

 だけど……その封筒は外郭のみ金色に縁どられているけど、それ以外は透明だ。透明といっても、ミルキーウェイのように白と透明のマーブル模様、それにラメが散りばめられている。


「これは、手紙が開封されない時に出てくる天の川だよ」

「天の川……手紙に?」


 でも、よく見るとラメだと思っていた物は星だった。男が持つカバンのように、チカチカと瞬いている。これも、動いている。まさか本物だろうか? この天の川も、男のカバンに施された星空も。……いや、そんなわけないか。


「ところで、『開封されない』って……?」


 聞き間違いじゃなければ、男はそう言った。せっかく手紙を持って来てくれたのに「読めない」、ということだろうか?

 すると概ね正解なのか、男は頷いた。眉を下げて、私よりも悲しそうだ。


「もうこの世にいない人が、まだ生きている人に向けて書いた手紙。

 それを届けるのが、僕ら手紙屋の仕事なんだ」

「もう、この世にいない人……?」

「つまりこの手紙の送り主は、もう死んでいる。そういうことだ」

「……」


 言わば、死人からの手紙。ともすればホラーになりそうな設定だが、それでも不気味に思わなかったのは、手紙に流れる天の川が、あまりにもキレイだったからだろうか。


「誰から、なんですか?」

「……それは言えない。当然、封筒にも書かれていない。

 誰からの手紙なのか。それは手紙を読んで、初めて分かることなんだ」


 男性の聞き心地良い声が、耳の奥までしっかり届く。だからか、非現実的なことでも、ゆっくりと納得することができた。


「手紙は、どうやったら開きますか?」

「君が、君自身を思い出せば開く。

 この手紙は、記憶を失っていない君にあてて書かれたものだから。

 受け取る側が、『その状態』になっていないと、手紙は実体を現さない」

「……あの」


 それを聞いて、不安に思った。


「手紙に、期限はありますか? 何日までに開封しないと消えてしまう、とか」


 自分の記憶を取り戻すまでに、一体どれほどの時間がかかるのか。

 もし時間がかかりすぎて、手紙が消えてしまったら――それが不安だった。

 だけど男性が「期限はないけど……」と、意味深に答える。


「そこまでして『読みたい』手紙なの? 誰からの手紙か、もう見当がついてるってこと?」

「いえ……。私、記憶がないですし」

「それなのに、この手紙に執着するの?」

「……」


 男が不思議に思うのは、その通りだと思う。だって過去の記憶がない私は、家族構成も友達関係も、何も知らない。私と接点のある誰かが、既に亡くなっているのだろうか?


「確かに、今の私は何も分からないし、周りの人のことも何一つ分かりません。

 だけど……この手紙は読むべきだと。なんとなく、そう思うんです」


 手紙を見た瞬間、なんだか心を掴まれた気がした。キレイな天の川に目を奪われたのかもしれない。だけど実態をもたない手紙には、哀愁が漂っている気がした。まるで私に読まれないことを憂いているような、そんな雰囲気がある。


「……そう。分かったよ」


 男は、どこか諦めたように。自分のカバンに手紙をしまった。……ん?


「渡してくれるんじゃ、ないんですか?」

「僕の仕事は、『渡した手紙が読まれる瞬間を見届けること』だ。

 実は、手紙を受け取る人は『拒否権』を持っているんだけど……。

 君は『読む』と選択しちゃったからね」


 カバンに手紙を戻した男は、大事そうにカバンをポンポンとなでる。


「君が全てを思い出し、手紙を開封して読むまでは、僕の仕事は終わらない。

 全ての糸がほどけるまで、君の傍にいるとしよう」

「え……」


 傍にいる? まさか、ずっと行動を共にするってこと?

 それは、ちょっとなぁ……。相手は男の人だし。

 表情に出していないつもりだったけど、男は「安心してよ」と、へらりと笑う。


「僕、他の人には視えないから」

「生きていない、ってことですか?」

「君と同じ時間に生きていない、ってことだね」


 じゃあ死んでいるわけではない、ってことだろうか?

 もっと深く聞きたかったけど、ドアがノックされた。私よりも先に、男が「おっと検査の時間だね」と言った。この人、一体いつから、この部屋にいたんだろう?


「藤村さん、そろそろ行きましょうか」


 笑顔を浮かべた看護師さんが、車いすを持って来てくれた。私は時間をかけながら、気怠い体をゆっくり起こす。そうして退室するまで、男はずっと部屋にいたけど……。

 ニコニコと人懐こい笑みを浮かべる男の姿に、看護師が反応することはなかった。

 本当に、他の人からは視えないんだ。


 ◇

 

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