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【完結】桜のような恋でした  作者: 木風


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第五話 関山の春

紗代宛ての手紙を読んだあと、凛はしばらく何も言えなかった。


便箋を封筒へ戻し、写真帳の上へそっと重ねる。

たった数行の手紙だったのに、指先にはまだ別の時代の熱が残っている気がした。


春になったら、今度こそ迎えに行く。


知らない人の約束だ。

会ったこともない兄妹の、間に合わなかった春の話だ。

そう思えばいいのに、胸の奥だけがその言葉を自分のことみたいに抱え込んで離さない。


「少し、休みますか」


榊が控えめに言った。


凛は顔を上げた。

さっきから彼の視線が、手紙ではなく自分へ向いていることに気づく。


「平気です」


言ってから、同じ返事を何度目だろうと思った。


榊はそれ以上は言わない。

ただ、写真帳を閉じる代わりに、畳の上へ一枚の紙を広げた。

簡単なメモだった。年代ごとに見つかったものを整理するための一覧らしい。


「今日は無理に読み進めなくていいので、まず分類だけしましょう」

「分類?」

「写真帳、書簡、家計簿、蔵書、裁縫関係、居住者不明の遺品。ざっくりそれで」


仕事の声だった。

静かで、一定で、こちらが息を整えやすい声。


凛は封筒をもう一度見下ろした。

朔と紗代。

大正十四年四月。

記録として見れば、それだけの情報だ。


けれど今は、それだけと思えない。


「……手伝います」


榊は小さく頷いた。


その日は結局、手紙の中身をそれ以上読まなかった。

代わりに、家中の棚や引き出しや押し入れから出てきたものを、時代ごとにゆるく分けていく。

古い家というのは不思議なもので、使う人がいなくなっても、暮らしの癖だけは隅々に残る。


文机の奥からは、大正期のものらしい和綴じの本が数冊。

居間の箪笥からは、昭和の帳面と端切れ。

二階の物入れからは、平成らしいプラスチックケースと、写真の入った封筒。

年代も用途もばらばらなのに、どれもみな、この家でいったん誰かの手を温めたことだけはわかる。


途中、榊が台所で湯を沸かし始めた。

やかんの音を聞きながら、凛は少しだけ肩の力を抜く。


「勝手に使ってすみません」


流し台のほうから声がする。


「お茶淹れるくらいなら、どうぞ」

「ありがとうございます」


そのあと少し間を置いて、


「ほうじ茶でよかったですか」


と訊かれた。


その言い方が妙に可笑しくて、凛は思わず息を漏らす。

家を資料として扱うように見えていた人が、こういうときだけやたらと生活に触れてくる。


「選べるんですか」

「たまたま見つけた缶が二つありました」

「じゃあ、ほうじ茶で」

「了解です」


しばらくして、湯呑が二つ運ばれてくる。

片方を受け取ると、掌がようやく自分の温度を取り戻した気がした。


「榊さん」

「はい」

「この家、やっぱり昔は別邸だったんでしょうか」


榊は湯呑を持ったまま、窓の向こうの桜を見た。


「たぶん。庭の造りと、写真帳にあった記録を見るかぎりは」

「じゃあ、大正の写真の人たちは……」

「当時の住人かもしれません。もしくは親族」

「朔と紗代」

「ええ」


名前を口にした瞬間、胸がまた少しだけざわつく。

榊も同じように感じているのかと思って見たが、彼は表情を変えなかった。

ただ、湯呑の縁へ視線を落としただけだった。


「調べれば、もう少しわかるかもしれません」

「調べるんですか」

「役所の古い台帳や土地の記録で、所有者の変遷くらいなら」

「そんなことまで」

「気になるので」


さらりと言われて、凛は一瞬言葉に詰まる。

仕事だからではなく、気になるので。

その率直さが、意外に思えた。


「榊さん、こういう家、よく見るんですか」

「よく、というほどでは」

「じゃあ、全部にそんなふうに……気になってるんですか」

「全部に、ではないです」


きっぱり言い切られると、なぜかそれ以上訊きづらい。

それでも凛は、湯気の向こうの横顔を見ながら思った。

この人はたぶん、気になるものだけは簡単に手放せない人だ。


翌日も、その次の日も、二人は桜坂の家で顔を合わせた。


文化保存課からの確認は、本来なら一日か二日で済む程度の作業だったらしい。

けれど見つかるものが思ったより多く、榊の上司も「資料化できるならしておきたい」と言い出したらしい。

凛にとっては、家を早く片づけてしまいたい気持ちと、もう少しだけ見ていたい気持ちの両方があった。


どちらが本音なのか、自分でもよくわからない。


三日目の午後、奥の和箪笥から一冊の大学ノートが出てきた。

表紙に「昭和三十八年 仕立帳」とある。

中は布の種類や寸法の控えで埋まっていたが、後半になるにつれ文字が乱れ、数字の横に何度も計算し直した跡が残っている。

最後の頁にだけ、ぽつんと一行。


春 入学金

教科書代

下宿初月


それを見た瞬間、凛はノートを持つ手に力を入れた。


昭和の章で見た、母と娘の名が胸に浮かぶ。

もちろん現実には、その話を知っているはずがない。

けれどこの家の中にいると、見つかるものの順番まで、こちらの知らない感情に導かれている気がした。


「どうしました」


榊が隣へ来る。

凛はノートを差し出した。


「これ、たぶん」

「ええ」


榊が頁を見て、小さく頷く。


「仕立ての帳面ですね」

「最後だけ、急に」

「進学費用、でしょうか」

「……たぶん」


その夜、凛は帰宅してもなんとなく落ち着かなかった。

スマートフォンを見ても上の空で、夕飯も簡単に済ませ、結局また紗代の手紙のことを思い出す。

そして昭和の帳面の最後の頁を思う。

誰かが、自分の手元の小さな数字を積み上げて、別の誰かを遠くへ送り出そうとした痕跡。


祖母の家だと思っていた。

けれど桜坂の家は、もっとずっと前から、誰かの「待つ」と「送る」が積もってできている家なのかもしれない。


その週の終わりごろ、今度は二階の押し入れから平成のアルバムが見つかった。


市販のフォトブックだった。

表紙には英字で簡単なタイトルが入っている。


Spring House


真帆が作ったものだと、凛はなぜだか直感した。


一頁目には、縁側に座る学生たち。

二頁目には、台所で笑っている女の子たち。

三頁目には、庭の桜。

そして四頁目で、凛の指先が止まる。


若い女の子が一人、縁側に座って文庫本を読んでいる写真だった。

風が吹いて髪が揺れ、伏せた目元がどこか寂しそうで、でもやわらかい。


「……きれい」


思わず呟く。

榊が少し覗き込むようにして隣へ来た。


「この人が」

「由芽、でしょうか」

「たぶん」


写真の余白に、小さな文字で日付が入っている。

二〇一〇年四月。


その次の頁には、同じ子が笑っている写真。

台所で鍋をよそっている写真。

駅のホームらしい場所で、こちらに振り返った横顔。


最後の頁だけ、写真ではなく短い文章になっていた。


何かいいものを見たとき、

いちばん最初に見せたいと思う相手がいることは、

たぶんとても幸せなことだ。


名前はない。

けれどそれが誰へ向けた言葉か、凛にもわかった。


「これも、出せなかったんでしょうか」


気づけば訊いていた。


榊はしばらくその文章を見つめていたが、やがて静かに答える。


「出したのかもしれませんし、出さなかったのかもしれません」

「曖昧ですね」

「そういうもののほうが、案外残るので」


凛はページを閉じた。

その言い方が、事実を言っているだけなのに妙に胸へ染みた。


言えなかったこと。

渡せなかったもの。

間に合わなかった約束。

そういうものばかりが、この家には残っている。


「嫌な家ですね」


ぽつりと言うと、榊は意外そうに凛を見た。


「嫌?」

「だって、どれもこれも、惜しいところで終わってる」

「……たしかに」

「今さら見つかっても、本人たちはもういないし」

「はい」

「誰にも届かなかった気持ちばっかり、きれいに残ってる」


そこまで言って、凛は息を吐いた。

ただ家に八つ当たりしているだけだと思った。


けれど榊は否定しなかった。

代わりに、窓の外の桜を見ながら言う。


「それでも残ったから、今ここにあるんでしょうね」

「慰めですか」

「いえ。事実として」


その声にはいつもの温度しかなかったのに、凛の胸は少しだけ静かになった。


四月に入ると、桜坂の家の庭は一気に花を開いた。


凛は仕事のあとに家へ寄ることが増えた。

最初は片づけのためだったはずが、今ではもう半分以上、桜と、家と、その中に積もった時間を見に来ている気がする。

榊もほぼ毎日いる。

書類をまとめ、写真を撮り、時々はパソコンを開いて記録を入力している。


ある晩、気づけば榊が夕方からずっと何も食べていないことに気づいた。


「お昼、食べました?」

「……たぶん」

「たぶん、って」

「忘れました」


あまりにも普通に言うので、凛は呆れる。

冷蔵庫には祖母が最後に使っていた調味料と、最近凛が持ち込んだ最低限の食材しかない。

それでも米はあるし、卵もある。


「ちょっと待っててください」


台所へ立つと、榊が後ろから言う。


「大丈夫です」

「大丈夫じゃないです。顔色悪いので」

「そこまででは」

「そこまでです」


自分でも驚くくらい、言い切っていた。

卵雑炊しかできなかったが、湯気の立つ器を前にすると榊は少しだけ困った顔をした。


「すみません」

「そういうときだけ素直なんですね」

「反省しています」

「してる顔には見えません」

「してます」


そんなやりとりをしながら、二人で台所の小さな卓を挟んで座る。

古い家の夜は、灯りの届く範囲だけが世界みたいに見える。

外では風に花が揺れていた。


「雨宮さんも、よく来ますね」


雑炊を食べ終えたあとで、榊が言った。


「私の家でもありますから」

「そうですね」

「……でも、最初は早く終わらせたかったんです」


正直に言うと、榊は頷いた。


「今は?」

「まだ、わかりません」

「壊すのが惜しくなりましたか」

「惜しい、というより」


凛は少し考える。


「放っておくのが嫌、かもしれません」

「放っておくのが」

「このままなかったことみたいに壊して、終わりにするのが」

「……そうですか」


榊はそれ以上踏み込まなかった。

けれどその沈黙は、どこか安堵しているようにも見えた。


何日かあと、凛のもとへ一本の電話が入った。

金沢の小さな美術館からだった。

以前応募していた学芸員枠の採用について、正式な打診をしたいという内容。

条件は悪くない。

むしろかなりいい。

東京を離れることにはなるが、ずっとやりたかった仕事に近い。


電話を切ったあと、凛はしばらくスマートフォンを見つめていた。

うれしいはずなのに、すぐには何も感じない。

その夜、桜坂の家へ行くか迷って、結局行った。


榊は縁側で資料を読んでいた。

凛の顔を見ると、なぜかすぐに気づいたらしい。


「何かありましたか」

「顔に出てます?」

「少し」


凛は苦笑する。


「仕事の話です」

「転職?」

「まだ決めてませんけど」

「そうですか」


そこで終わると思ったのに、榊は珍しく少し間を置いてから訊いた。


「どこへ」

「金沢です」

「遠いですね」

「そうですね」


たったそれだけの会話なのに、妙に空気が変わる。

榊は資料へ視線を戻したが、その手元がほんの少しだけ止まっているのを、凛は見逃さなかった。


「榊さんは」


なぜか、自分も訊き返したくなった。


「異動とか、ないんですか」


今度は榊が黙る番だった。

数秒後、ごく小さく息を吐く。


「あります」

「え」

「五月から、別の自治体へ。まだ正式発表前ですが」

「……どこへ」

「長崎です」


金沢よりずっと遠い。

そう思った瞬間、凛は笑いそうになった。

この家で、どうしてこう、皆そろって遠くへ行こうとするのだろう。


「言わなかったんですね」

「聞かれなかったので」

「聞けば答えるつもりだったんですか」

「たぶん」


たぶん。

その曖昧さが妙に腹立たしかった。


「そういうところ、よくないと思います」

「すみません」

「またそれですか」

「……すみません」


凛は思わず吹き出しそうになる。

けれど笑えなかった。

笑ってしまえば、胸の奥の焦りまで軽くなってしまいそうだったからだ。


その日の帰り際、玄関で靴を履きながら、凛は何気ないふりをして言った。


「また春になったら、この家のこと思い出すんでしょうね」


言った瞬間、自分で少し驚く。

どうしてそんな言い方をしたのか。

来年の春の話なんて、まだ何も決まっていないのに。


榊の手が止まった。


振り返る。

静かな目が、まっすぐ凛を見ている。

けれどその中にだけ、今まで見たことのない揺れがあった。


「……そうですね」


答えた声は、いつもより少し低かった。


凛はそれ以上何も言えず、玄関を出た。

門を閉めるとき、庭の桜から一枚だけ花びらが落ちるのが見えた。


次の春。

また春に。


そうやって先へ延ばしてしまう言葉ばかりが、この家には残っている。


そのことが、なぜだか急に怖くなった。


第九章 春を待たない


桜が満開を過ぎるころには、桜坂の家の取り壊し日程もほぼ決まっていた。


完全に更地にするのではなく、庭の桜と縁側の一部、それから一室だけを資料室として残せないか。

榊はそう提案し、上司や所有者側と掛け合ってくれていた。

凛も相続関係の書類を揃え、保存に必要な条件を確認し、気づけば完全に当事者になっていた。


最初は終わらせるために来ていたのに、今は残すために動いている。


変わったのは家だけではない。

榊と会うのも、もはや特別なことではなくなっていた。

鍵を開ける音がして、ああ来たのだと思う。

台所から湯の音がすれば、今日もいるのだとわかる。

遅い時間になれば、何か食べたか気になる。

そんな日常めいたことが、いつの間にか増えすぎていた。


だからこそ、五月という言葉が近づくたびに、胸の奥が落ち着かない。


金沢からの返事の期限も迫っていた。

榊の異動も、正式にはまだ出ていないとはいえ、ほぼ覆らないだろう。


ある夕方、凛は資料室として残す予定の一室で、由芽のフォトブックを整理していた。

ページの間に、一枚の小さなメモが挟まっているのに気づく。


紙は新しい。

平成の遺品にしては傷みが少ない。


開いてみると、たった一行だけ、丸い字で書いてあった。


帰ってきたら見せたい写真が、まだある。


宛名も署名もない。

出したのか、出していないのかもわからない。


凛はしばらくその紙を見つめていた。

何かいいものを見たとき、いちばん最初に見せたいと思う相手。

帰ってきたら見せたい写真。

この家には、最後の一歩だけ間に合わない言葉が本当に多い。


「雨宮さん」


廊下から榊の声がする。


振り向くと、襖の向こうに立っていた。

相変わらず静かな顔なのに、今日は少しだけ疲れて見えた。


「どうしました」

「役所と話がつきました」

「え」

「桜と資料室、残せます」

「本当に?」


凛は思わず立ち上がる。

榊は小さく頷いた。


「予算は最小限ですが。完全保存までは無理でも、春季だけ公開するかたちなら」

「……すごい」

「雨宮さんが協力してくれたからです」

「そんな」

「本当です」


あまりにもまっすぐ言われて、凛は少しだけ目を逸らす。

うれしい。

それと同時に、苦しい。

残るものが決まるほど、自分たちのほうが残れないかもしれない現実がはっきりするからだ。


「榊さん」

「はい」

「もし私が、金沢へ行ったら」

「はい」

「この家のこと、お願いします」


言ってから、ひどくつまらない頼み方だと思った。

お願いします、ではない。

本当に言いたいのは別のことだ。


けれど榊は、すぐには返事をしなかった。

長い沈黙のあとで、ようやく言う。


「嫌です」


凛は息をのんだ。


「……嫌?」

「はい」

「どうして」

「それを、俺だけの仕事にしたくないので」


その答えは卑怯だった。

仕事の話みたいに聞こえるのに、そうではないことがわかってしまう。


凛は唇を結ぶ。

榊のほうも、言いすぎたと思ったのか視線を落とした。

けれどもう遅い。

言葉は出てしまったあとだ。


「榊さんは、行くんでしょう」


気づけば責めるみたいな言い方になっていた。


「長崎」

「行きます」

「じゃあ」

「でも」


榊がこちらを見る。

これまででいちばん、迷いのない目だった。


「行くことと、黙って手放すことは別です」


凛は返せなかった。


その日の夜、凛は家へ戻ってからも落ち着かなかった。

金沢の雇用条件のメールを何度も開き、閉じる。

学芸員としての仕事は魅力的だ。

ずっと求めていた場所に近い。

けれど、今になってその「ずっと」が少し変わってしまった気がする。


自分は何を求めていたのだろう。

遠くへ行くことか。

好きな仕事をすることか。

何かを残す側に回ることか。

それとも、隣にいてほしい人のいる場所で生きることか。


答えは簡単ではない。

けれど、少なくとももう、何も失わずには選べない。


数日後、桜坂の家の最終確認の日が来た。


取り壊し前に残す部分の範囲を決め、搬出するものと残すものの札を貼る。

庭の桜は満開を過ぎ、風が吹くたび花が散る。

明るい昼のうちは淡い春そのものみたいなのに、夕方が近づくにつれて、散り際の匂いが濃くなる。


作業が終わったのは、日がかなり傾いてからだった。

他の担当者たちは先に帰り、家には凛と榊だけが残る。


縁側に腰を下ろすと、庭じゅうに花びらが落ちていた。

石畳にも、踏み石の隙間にも、濡れた土の上にも。

散る桜は、満開のときよりもずっと現実味がある。


「終わりましたね」


凛が言うと、榊が小さく頷く。


「はい」

「でも終わってない」

「そうですね」

「残るから」

「ええ」


そのあとはしばらく、二人とも何も話さなかった。


風が吹く。

花びらが縁側へ流れこんでくる。

その一枚が、凛の膝に落ちた。


昔の人たちも、こうして花の散る気配を見ていたのだろうか。

紗代も。

春も。

由芽も。

みんな、この一枚を取りこぼす前に何か言えたなら、少しは違ったのだろうか。


「榊さん」


凛は膝の上の花びらを見たまま言った。


「もし、また春になったら」


そこまで言ったところで、隣の気配が動いた。


「その言い方」


榊の声が、ひどく近い。


凛が顔を上げると、榊はもうこちらを見ていた。

静かな人だと思っていた。

感情をあまり表へ出さない人だと思っていた。

けれど今の目だけは違う。

ひどく強く、ひどく切実で、少し怒っているようにも見えた。


「その言い方、やめてください」


凛は息を止める。


「どうして」

「また春に、じゃなくて」


榊は一度だけ目を伏せ、それから言った。


「今、あなたが好きだ」


世界が、急に音を失う。


風の音も、葉擦れも、遠くの車の音も、いったん全部消えたみたいだった。

好きだ、という言葉だけが、遅れて胸の奥へ落ちていく。


「次の春を待って、また何も言わないまま終わるのが嫌です」

「……榊さん」

「金沢へ行くなら止められない。俺も長崎へ行くかもしれない。仕事もあるし、生活もある。だから簡単な話じゃないのはわかってます」

「……うん」

「でも、それと、何も言わずに離れるのは違う」


凛は何も言えない。

言えないのに、胸の奥で何かがほどけていくのがわかる。

ずっと焦っていた。

でも何に対してか、認めないふりをしていた。

次の春に。

落ち着いたら。

今決めなくても。

そうやって先へ延ばして、たぶん平気な顔をしたまま別れてしまうのが、いちばん怖かったのだ。


「俺は」


榊の声が少しだけ掠れる。


「たぶん最初にここへ来た日から、あなたに対して変でした」

「変って」

「初対面のはずなのに、遅かったと思った」


凛の目が見開く。

同じだ、と思った。

自分も門に手をかけた瞬間、ここへ帰ってくるのが遅すぎたみたいだと思った。


「この家のことも、資料も、もちろん大事です。でも」


榊はまっすぐ凛を見る。


「あなたがいなくなるのが、嫌です」


それ以上は要らなかった。


凛はふいに、笑いそうになる。

泣きそうでもある。

どちらも本当だった。


「ずるいです」


声にすると少し震えた。


「何がですか」

「そういうこと、先に言うの」

「先に言わないと、あなたはまた春にって言うので」

「言うつもりでした」

「知ってます」


凛はとうとう笑った。

泣きながら笑うみたいな、どうしようもない笑いだった。


「私だって」


やっと言葉が出る。


「私だって、嫌です」

「はい」

「この家だけ残して、全部終わったみたいになるの」

「はい」

「榊さんがいなくなるのも、嫌」


言い切った瞬間、胸の奥の何かがすっと定まる。

ああ、自分はこれを認めたかったのだと思う。

仕事のことも、家のことも、大事だ。

でもそれとは別に、この人を失いたくない。


榊が、ひどく静かな顔で息を吐いた。

それからようやく、少しだけ笑う。


「よかった」

「何が」

「片思いではなかったので」

「……いま確認したんですけど」

「十分です」


凛は膝の上の花びらを見下ろした。

散る前に触れたら壊れてしまいそうな薄さなのに、指先へ乗せるとたしかにここにある。


「金沢」


榊が言う。


「行きたいなら、行ったほうがいいです」

「うん」

「でも、行く前提で諦めるのは、違うと思う」

「うん」

「俺も、異動の希望を出し直します。通るかわからないけど」

「そんなこと、できるの」

「最後まで粘るくらいは」

「……仕事、好きなんですよね」

「好きです」

「私も」

「知ってます」


凛は少し考え、それから言った。


「金沢の返事、少し待ってもらいます」

「はい」

「この家の資料整理と公開計画、ちゃんと形にしたい」

「はい」

「それと」

「はい」

「離れたとしても、終わりにしない」


榊は目を細めた。

その表情は初めて見るのに、なぜかずっと前から知っていたみたいに安心した。


「それなら」


彼が言う。


「今度は間に合います」


凛はその言葉に、少しだけ目を見張る。

どうして彼がそんな言い方をしたのか、たぶん本人にも説明できないだろう。

けれど不思議と、凛にはよくわかった。


間に合わなかった春が、この家にはたくさんあった。

だから今度だけは、そうしない。


凛はそっと手を伸ばした。

榊も同じように手を出す。

触れた指先は、思ったよりも温かい。


散る桜の下で、ようやく手を取る。


それは遅すぎた告白ではなかった。

たぶん、やっと間に合った春だった。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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