■ 第93話「約束の果実」
五日目の朝。
果樹園が変わっていた。
青かった実が——色づき始めていた。赤、橙、黄色、紫。あちこちの木で。一斉に。
メアが果樹園の真ん中に立っていた。
「全部——色づいてる」
ゴルドが果樹園に入ってきた。足が止まった。
「……嘘だろう」
木を見上げた。赤い実。橙の実。紫の実。星実柿まで光っていた。
ゴルドが膝をついた。
「……戻った。果樹園が——戻った」
「ゴルドさんが木を守り続けたからです」
「俺は何もしてない——」
「三年間、毎朝水をやった。実がならなくても。花が咲かなくても。——それが守るってことだ」
住民総出で収穫が始まった。老人たちが笑っていた。籠に果物が山盛りになっていく。
―――――
出発の準備をしていた。
ゴルドが果物を山のように積んだ荷車を用意していた。
「第一便です。最高の果物を王都に届けます」
俺はゴルドを見た。大きな男。農夫の手。三年間の土が爪の間に残っている。
——この男に、伝えなければならないことがある。
「ゴルドさん」
「はい」
「俺は——壁で守れたと思っていた。でも違った」
ゴルドが顔を上げた。
「壁の中で、まだ苦しんでいる人がいた。メアが三年間寝たきりだった。ゴルドさんが毎朝木に水をやり続けた。果樹園が実をつけなかった。——その三年間を、俺は知らなかった」
「カイン様——」
「壁で囲んだだけで終わりだと思っていた。でも壁は盾だ。灯火は命だ。盾だけ渡して命を届けなかったら、何のための魔王だ」
ゴルドが黙っていた。住民たちが足を止めていた。
「知らなかったことはせいじゃないかもしれない。でも知った今、何もしないのは俺のせいだ。——これは俺が魔王になった日から決めたことだ。俺のたった一つの決まりごとだ」
俺はゴルドを見た。
「灯火を届ける。全部の集落に。一つ残らず。壁で囲んだだけで終わりじゃない。中に息吹を満たして、初めて守ったことになる」
「……」
「灯火が一つ遅れるたびに、誰かがもう一日苦しむ。メアみたいに。ゴルドさんみたいに。——だから急がなきゃいけない」
ゴルドの目から涙が流れた。
「カイン様——」
「約束します。全部の集落に灯火を届ける。ここと同じように。一つずつ。丁寧に。でも急いで」
ゴルドが頭を下げた。深く。
「……魔王様。あなたは——本物の王だ」
「王なんて大層なもんじゃない。遅れた分を取り返しに行くだけだ」
住民が全員、頭を下げていた。
―――――
メアが門の前に立っていた。
薄いピンクの髪が風に揺れていた。息吹石のペンダントが胸元で光っていた。靴を履いていた。ゴルドが買ってきた靴。
「カイン様」
「ん」
「……行っちゃうんですね」
「ああ。でもまた来る」
「約束ですか」
「約束だ」
メアが少し黙った。
「カイン様」
「ん」
「……好きです」
静かに言った。甘えん坊の声じゃなかった。
「死にかけて、生き返って。目を開けて最初に見たのがカイン様だった。声を聞いて最初に聞こえたのがカイン様の声だった。——最初から全部、カイン様だった」
「メア——」
「返事はいらないです。勝手に好きなだけです。でも言いたかった。ちゃんと」
メアの淡いピンクの瞳が潤んでいた。
「生きたいと思わせてくれた人を好きになるのは、当たり前だと思います」
「……」
「だから——また来てください。果物を持って王都に行きます。そのときにまた会えますか?」
「会える」
「やった」
メアが俺の前に立った。小さかった。見上げていた。
「……ぎゅっとしていいですか」
返事を待たなかった。抱きついた。
温かかった。五日前に氷みたいに冷たかった身体が。
「……あったかい。カイン様が持ってきてくれた温かさです。忘れません」
メアが離れた。泣いていなかった。笑っていた。
「行ってらっしゃい、カイン様」
「行ってくる」
―――――
馬に乗った。振り返った。
メアが手を振っていた。ゴルドが手を振っていた。母親が手を振っていた。住民が全員手を振っていた。
フルーテが遠くなっていく。果樹園の色とりどりの実が、陽光に輝いていた。
シアが隣を走っていた。
「カイン」
「ん」
「さっきの言葉。ゴルドに言ったやつ」
「ん」
「……いい言葉だった」
「……ありがとう」
「礼はいい。——次の集落に急ぐぞ」
「ああ」
王都に帰ろう。果物と一緒に。
そしてすぐに、次の集落へ。灯火を、一つでも多く。一日でも早く。




