■ 第92話「メアという子」
四日目。メアが走れるようになっていた。
朝、果樹園を見に行こうとしたら、メアが家から飛び出してきた。
「カイン様! おはようございます!」
走ってきた。全力で。そして俺の胸にぶつかった。
「おはよう」
「おはようございます!」
「もう言った」
「もう一回言いたかったんです」
メアが俺の腕にくっついた。離れない。薄いピンクの髪が揺れていた。淡いピンクの瞳がきらきらしていた。
三年間寝ていた少女とは別人だった。
―――――
ゴルドが朝から果樹園にいた。
木の根元に水をやっていた。一本一本。丁寧に。
「ゴルドさん、毎朝やってるのか」
「三年間、毎日欠かさずやっています」
「三年間?」
「ええ。実がならなくても。花が咲かなくても。毎朝、水をやって、枝を切って、根元の草を抜いて。——俺にできることはそれだけだった」
ゴルドが木の幹を撫でた。
「メアが動けなくなってから、この果樹園を世話することだけが——俺の生きる理由だった」
「……」
「メアが死んだら、俺はどうなるかわからなかった。だからせめて、この木だけは枯らさないようにと。メアが目を覚ましたとき、果樹園が生きていると見せてやりたかった」
ゴルドの手は荒れていた。農夫の手。毎日の手入れで、爪の間に土が入り込んでいる。三年分の土。
「メアが好きだった木は特に気をつけました。あの赤い実の木。メアが小さい頃、勝手にもいで食べて怒ったんです。でも——本当は嬉しかった。娘が俺の果物を美味しいと言ってくれたのが」
「……いい親父ですね」
「親父なんて大層なもんじゃない。——ただの、果物しか育てられない男です」
ゴルドが立ち上がった。次の木に移った。水をやった。
この男は三年間、毎日これをやっていた。娘が死にかけている間も。果樹園が実をつけない間も。
命を捧げるとはこういうことだ。大げさな誓いじゃない。毎日、一本ずつ水をやること。
―――――
母親がメアの髪を梳いていた。
家の前のベンチに座って。二人で。
母親の手つきが優しかった。薄いピンクの髪を、ゆっくりと。
「お母さん、もういいよ」
「もう少し。三年分、梳いてあげたいの」
「三年分は長いよ」
「長くていいの」
母親の目が潤んでいた。笑っていた。
「髪が艶々になってきたね。前はぱさぱさだったのに」
「息吹石のおかげだと思う」
「ううん。生きてるからだよ。生きてる人の髪は、艶が出るの」
メアが母親の手を掴んだ。
「お母さんも。手が温かくなってる」
「……そうね。身体が軽いの。朝、起きるのが辛くなくなった。お父さんにも言ったんだけど、十年ぶりくらいに」
「お母さんも息吹虚症だったから」
「軽いけどね。メアほどじゃない。——でも灯火のおかげで、こんなに変わるとは思わなかった」
母親がメアの額にそっと唇を当てた。
「生きてて、よかったね」
「……うん」
メアが泣きそうな顔をした。でも泣かなかった。笑った。
―――――
昼食をゴルドの家で食べた。
ゴルドが作った料理だった。果物の煮込み。まだ数が少ない実を使って。
「果物だけで煮込みを作れるのか」
「うちの家系のレシピです。玉梅を潰して、赤い実を刻んで、水と一緒に煮る。塩を少し。——昔はこれが毎日の食卓に並んでいた」
一口食べた。
甘くて、少し酸っぱくて、温かかった。
「……美味い」
「ありがとうございます。——メアが一番好きな料理です」
メアが隣で同じものを食べていた。目を閉じていた。
「……この味。三年ぶり」
「果物がなかったから作れなかったんだ」
「うん。お父さんがずっと作りたがってた。でも実がならなくて」
「今日は一つだけ実った赤い実と、干してあった玉梅を使いました」ゴルドが言った。「来月には——もっと作れます。もっとたくさん」
ゴルドの目が光っていた。農夫の目。果物が戻ってきた喜び。娘が食べている喜び。
「お父さん。おかわり」
「何杯でも食え」
ゴルドが器に煮込みを盛った。山盛り。
「食べすぎだよお父さん」
「三年分食え」
メアが笑った。ゴルドも笑った。母親も笑った。
家族だった。三年間止まっていた食卓が、動き始めていた。
―――――
午後。果樹園を歩いた。メアが一緒にいた。
メアは俺の袖を掴んでいた。自然に。離さない。
「カイン様」
「ん」
「お父さんのこと、どう思いますか」
「いい親父だと思う。果樹園を三年間守り続けた人だ」
「……うん。お父さんは強いんです。見た目も強いけど——中身がもっと強い」
「わかる」
「私が動けなくなってから、お父さんは一度も弱音を吐かなかった。毎朝果樹園に行って、毎晩私のそばにいて。——泣いてたのは知ってます。毎晩。でも私の前では泣かなかった」
「……」
「お母さんも。身体が辛いのに、毎日私の髪を梳いてくれた。枕を直してくれた。寝返りを打たせてくれた。——二人とも、私のために全部使ってくれた」
メアが立ち止まった。果樹園の真ん中。
「だから——私も、誰かのために全部使いたい」
「……」
「カイン様が来てくれなかったら、私は何も返せないまま死んでた。でも生きてる。——生きてるから、返せる」
メアが俺を見上げた。淡いピンクの瞳。
「カイン様に。お父さんに。お母さんに。この集落の人たちに。——全部返したい」
「……いい子だな」
「いい子じゃないです。甘えん坊です」
「知ってる」
「知ってるんですか」
「くっつきすぎだ」
「……嫌ですか」
「嫌じゃない」
「じゃあもう少しくっついていいですか」
「……いいよ」
メアが俺の腕にくっついた。頬を俺の腕に押しつけた。
「……あったかい」
甘えん坊だった。三年間、甘えられなかった分が全部出ていた。
―――――
夕方。ゴルドが俺のところに来た。
一人で。真剣な顔だった。
「カイン様。少しだけ」
「はい」
「今日のメアを見ていただけましたか」
「ああ。元気だった。走れるようになって、食欲もあって。もう大丈夫だ」
「……ありがとうございます」
ゴルドが少し黙った。
「メアは——甘えん坊です。小さい頃からそうでした。でも三年間、甘えられなかった。身体が動かなかったから」
「ああ」
「今、全部出ています。カイン様に。——すみません。ご迷惑をおかけしている」
「迷惑じゃない」
「……カイン様。俺は——この命を魔王様に捧げると言いました。あれは本気です」
「……」
「果樹園も。この集落も。俺の身体も。全部、魔王様のために使います。何でも言ってください。何でもやります」
「ゴルドさん——」
「今日、果樹園を見ていて思ったんです。木が実をつけ始めた。メアが笑っている。妻が元気になった。——全部、カイン様のおかげだ。三年間待った甲斐があった」
ゴルドの目が濡れていた。でも泣いてはいなかった。笑っていた。
「俺は果物しか育てられない男です。でも——最高の果物を作ります。魔族領で一番の果物を。それが、俺の忠誠です」
「……十分です。それで十分です」
「ありがとうございます」
ゴルドが頭を下げた。深く。
この男の忠誠は、言葉じゃない。毎日の水やりだ。三年間の手入れだ。娘の枕元で泣いた夜だ。
全部が、ここに集まっている。




