■ 第91話「実る日」
三日目の朝。
メアの部屋に入った。
寝台が——空だった。
「え」
「おはようございます、カイン様」
声が後ろから聞こえた。振り返った。
メアが立っていた。
自分の足で。壁にも何にも掴まらず。まっすぐ。
薄いピンクの髪が肩に流れていた。昨日より色が濃くなっていた。頬にも色があった。唇にも。淡いピンクの瞳が、朝日を受けて光っていた。
「……立てるのか」
「はい。朝起きたら——身体が軽くて。立てました」
メアが少し笑った。昨日の弱々しい笑みじゃなかった。ちゃんと笑っていた。
「約束、覚えてますか」
「果樹園を一緒に歩く」
「はい」
―――――
果樹園を歩いた。
メアとカイン。二人で。
メアの足取りは危なかった。三年間寝ていた身体だ。筋肉が落ちている。よろめいた。
「大丈夫か」
「大丈夫です。——歩きたいんです。自分の足で」
メアが木々の間を歩いていた。裸足だった。靴がなかった。三年間寝ていたから。
土が温かかった。息吹が染み込んだ土。メアの足の裏から、息吹が身体に入っていくのがわかるようだった。
「……この果樹園、好きでした」
「ああ」
「小さい頃、ここを走り回ってた。果物をもいで、その場で食べて。お父さんに怒られて」
「怒られるのか」
「もぐのは収穫の日って決まってるんです。でも我慢できなくて」
メアが木の幹に触れた。
「この木——実ってる」
見上げた。
枝の先に——小さな実がついていた。まだ青い。でも確かに実だった。昨日まではなかった。
「灯火の効果だ。息吹が木に届いて、実をつけ始めた」
「……本当だ。実が——」
メアが隣の木を見た。そこにも実があった。その隣にも。
果樹園全体を見渡した。
あちこちの枝に、小さな実がついていた。青い実。まだ熟していない。でも——実っていた。
そして——一本の木だけ。
奥の方の、大きな古い木。
そこに——色づいた実があった。赤い実。一つだけ。熟していた。
「あれは——」
「甘い赤い実。子どもたちが一番好きだった、ってお父さんが言ってた木だ」
メアの目が見開かれた。
「……お父さんの一番好きな木だ」
メアが走った。
よろめきながら。裸足で。土を踏んで。
木の下に着いた。見上げた。赤い実が一つ、枝の先に光っていた。
手を伸ばした。届かなかった。背が足りない。
俺が後ろから手を伸ばして、実をもいだ。メアに渡した。
メアが両手で受け取った。赤い実。小さい。手のひらに収まるサイズ。
一口かじった。
目を閉じた。
涙が流れた。
「……甘い」
声が震えていた。
「甘い。——お父さんがいつも言ってた通り。甘くて、皮がぱりっとしてて。——この味だ」
メアが泣きながら笑っていた。赤い実を両手で持って。裸足で。果樹園の真ん中で。
三年間の絶望が——溶けていた。
―――――
ゴルドが果樹園に来た。
メアが立っているのを見た。歩いているのを見た。赤い実を持って泣いているのを見た。
膝から崩れた。
「メア……」
「お父さん! 実がなってる! 赤い実! 一つだけだけど! 甘い!」
メアがゴルドに駆け寄った。よろめきながら。赤い実を差し出した。
「食べて!」
ゴルドが受け取った。大きな手で。農夫の手が震えていた。
一口かじった。
目を閉じた。
「……甘い」
同じことを言った。同じ顔をした。
父と娘で同じ顔をして泣いていた。
母親が走ってきた。昨日より足取りがしっかりしていた。母親も回復していた。命の灯火と息吹石の効果は、軽度の息吹虚症である母親にも効いていた。
「メア! メア! 歩いて——!」
三人で抱き合っていた。果樹園の真ん中で。
―――――
午後。ゴルドの家。
ゴルドが俺の前で正座した。妻も隣に正座した。
「カイン様」
「はい」
「フルーテの族長として、一生の忠誠を誓います」
ゴルドが額を地面につけた。
「娘を救ってくれた。果樹園を蘇らせてくれた。妻の身体まで——。この恩は何があっても返せない。だからせめて、この命を魔王様に捧げます」
「顔を上げてください。命を捧げるとかそういうのはいらないです。——一緒に果物を育てましょう。王都にここの果物を届けてください。それが一番嬉しい」
ゴルドが顔を上げた。泣いていた。大きな男が。
「……はい。必ず。最高の果物を、王都に届けます」
―――――
そのあとだった。
ゴルドが少し言いにくそうに口を開いた。
「カイン様。もう一つ——お願いがあります」
「何ですか」
「……妻と、子を成していただけませんか」
——は?
「魔王様の血を引く強い子を成したいのです。魔王様の魔力なら、きっと強い子が生まれる」
ゴルドの目は真剣だった。冗談じゃなかった。
妻を見た。母親が——頬を赤くしていた。恥ずかしそうにしていた。でも拒絶の顔じゃなかった。
「……私も、お願いしたいです。カイン様の子を産めるなら——光栄です」
頭が混乱した。
——いや、待て。
魔族の文化だ。ノアの両親にも同じことを言われた。強い魔力の男が子を多く残す。魔王なら尚更。男が少ない。種族の存続のために。
わかっている。理解している。
でも——母親からも申し出があるとは思わなかった。しかも夫が同意している。むしろ夫から申し出ている。
これが魔族の常識。人間の常識とは違う。
「……お気持ちはわかります」
「では——」
「申し訳ないですが、お断りします」
ゴルドの顔が少し曇った。
「こういうことは慎重にやりたいんです。メアさんが回復したばかりだし、果樹園もこれからです。——今は、この集落を元気にすることが先です」
「……そうですか」
「魔族の文化は理解しています。魔王として、種族のことを考えなきゃいけないのもわかっています。でも——俺の考えで動きたい。焦らず」
ゴルドが頷いた。
「……わかりました。無理なお願いをしました」
「無理じゃないです。——ただ、今じゃない」
母親が少し寂しそうに微笑んだ。でも納得した顔だった。
部屋を出た。
廊下で息を吐いた。
——魔族の世界は、まだ俺の常識を揺さぶってくる。
―――――
夕方。果樹園。
メアが一人で座っていた。木の根元に。
顔色がよくなっていた。薄いピンクの髪に艶が出てきた。頬がふっくらしてきた。三日前の死にかけの少女とは別人だった。
「メアさん」
「あ、カイン様」
メアが立ち上がった。少しよろめいた。俺が手を伸ばした。メアの手を掴んだ。
——メアの手が温かかった。三日前は氷みたいに冷たかったのに。
「……ありがとうございます」
「もう転ばないか」
「大丈夫です。——でも、もう少しだけ」
メアが俺の手を離さなかった。
「もう少しだけ、こうしていていいですか」
「……いいよ」
二人で果樹園を見ていた。夕日が木々を照らしていた。あちこちの枝に青い実がついている。一ヶ月もすれば色づくだろう。
「カイン様」
「ん」
「……私、死ぬんだと思ってました」
「昨日も言ってたな」
「はい。でも今日は違うことを言います」
メアが俺を見上げた。淡いピンクの瞳。夕日を映していた。
「——生きたいと思えるのが、こんなに嬉しいことだと知りませんでした」
「……」
「果樹園を歩けた。果物を食べた。お父さんとお母さんと抱き合った。全部——カイン様がくれた」
メアの目が潤んでいた。
「……私の命を救ってくれた人に、何て言えばいいかわかりません。ありがとうじゃ足りない。一生かかっても足りない」
「足りてるよ。十分だ」
「……足りてないです。だから——」
メアが俺の手を両手で握った。
「——ずっと、恩返しさせてください。ずっと。一生」
メアの頬が赤かった。息吹虚症の蒼白さはもうなかった。健康的な赤み。
——でもこの赤さは、健康の色だけじゃない気がした。
「……一生は長いぞ」
「長くていいです。——長い方がいいです」
メアが笑った。薄いピンクの髪が夕日に透けていた。
シアが遠くからこちらを見ていた。銀色の瞳が——鋭かった。
「……また増えた」
シアの呟きが、風に乗って微かに聞こえた気がした。
帰ったらまた怒られる。




