■ 第90話「生きたい」
一日目の朝。
メアの部屋に行った。
変化はなかった。まだ目を閉じている。呼吸は昨日と同じ。浅い。
でも——息吹石のペンダントが光っていた。白と紫の柔らかい光。メアの胸元で。部屋の隅の息吹の核も脈打っている。命の灯火の息吹が、家全体に染み込んでいる。
ゴルドが寝台の横にいた。一晩中ここにいたのだろう。目の下に隈があった。
「変わりませんか」
「メアはまだです。でも焦らないでください。回路に息吹が染み込むのに時間がかかる」
「……はい」
「ゴルドさん自身はどうですか。身体の調子」
ゴルドが少し驚いた顔をした。
「……言われてみれば。昨夜はよく眠れた。一晩中ここにいたのに、身体が軽い。朝起きたとき、腰の痛みがなかった。——十年ぶりくらいに」
「灯火の効果です。息吹が身体に巡り始めてる」
「……俺にも、ですか」
「ゴルドさんだけじゃない。この集落の全員がそう感じているはずです」
ゴルドが娘の手を握っていた。大きな手が小さな手を包んでいた。
―――――
午前中、果樹園を見回った。ソルスと一緒に。
すれ違う住民の顔が違っていた。昨日の死んだ目じゃなかった。
「魔王様。身体が軽いんです。こんなの何年ぶりか」老人が声をかけてきた。
「飯が美味い。昨夜の飯が、ここ数年で一番美味かった」別の男が言った。
命の灯火の効果が出始めていた。土が変わっている。昨日より湿っている。息吹が地面に染み込んで、水分を引き上げている。
「効果が出るのが早いですね」ソルスが土を触った。「この土地は元々息吹との相性がいいんでしょう。果物の産地だっただけある」
「木はどうだ」
「まだ変化は見えません。でも根は動いていると思います。地中で」
レナが果樹園の端を歩いていた。木の幹を一本一本見ていた。
「レナ、何してるんだ」
「木を見てる。あたし、こういうの好きなんだよ。畑仕事とか。——戦士じゃなかったら農民やりたかった」
「意外だな」
「意外か? あたしだって土をいじるのは好きだよ。剣振るだけが人生じゃないし」
レナが木の幹を撫でた。優しい手つきだった。
―――――
昼過ぎ。メアの部屋に戻った。
ゴルドがまだいた。妻もいた。二人で寝台の横に座っていた。
「カイン様」
「はい」
「……娘は、本当に助かるんでしょうか」
「助かります」
「……何度も聞いてすみません。でも——」
「何度でも聞いてください。何度でも同じことを言います」
ゴルドが俯いた。
「……三年間。毎日、娘が弱っていくのを見ていた。最初は歩けなくなった。次に座れなくなった。そして起き上がれなくなった。今は目を開けることもできない」
「……」
「医者もいない。薬もない。息吹も足りない。何もできない。——何もできないまま、娘が消えていく」
ゴルドの声が震えた。
「果樹園が枯れたときは——耐えられた。木は待てば戻ると思えた。でも娘は——娘は待てない。毎日弱っていく。毎日、少しずつ。手の温度が下がっていく。声が出なくなっていく」
母親が泣いていた。声を殺して。
「魔王様が来てくれた。灯火を置いてくれた。息吹石を下げてくれた。——でも、まだ変わらない。一日経って、まだ目を開けない。信じたいのに——怖いんです。また裏切られるんじゃないかと」
俺はゴルドを見た。
「ゴルドさん」
「はい」
「俺は——助けに来たんじゃないです」
ゴルドが顔を上げた。
「助けるなんて大層なことじゃない。俺はただ、助けが遅れたことを詫びている」
「……」
「メアさんは三年間戦ってきた。身体が動かなくなっても、目が開けられなくなっても。今も息をしている。心臓が動いている。——この子はずっと一人で戦ってた。俺が遅かっただけだ」
ゴルドの目から涙が落ちた。
「……遅く、なんて」
「遅かった。もっと早く来るべきだった。でも来た。——だからここから巻き返す」
―――――
夕方。
メアの指が——動いた。
母親が気づいた。
「あなた……! メアの指が……!」
ゴルドが寝台に駆け寄った。メアの右手の指が、微かに動いていた。ほんの少し。握るような動き。
「メア……! メア……!」
返事はなかった。でも指が動いた。
一日目。指が動いた。それだけ。
でもゴルドは——泣いた。指が動いただけで。三年間動かなかった指が動いただけで。
―――――
二日目の朝。
メアの部屋に入った。
メアが——目を開けていた。
薄い色の瞳。淡いピンク。天井を見ていた。焦点が合っていなかった。でも——目が開いていた。
「メアさん」
「……」
声は出なかった。でも瞳が動いた。俺の方を見た。
「俺はカイン。灯火を届けに来た」
「……」
メアの唇が微かに動いた。声にはならなかった。
「無理に話さなくていい。ゆっくりでいい」
ゴルドが入ってきた。メアの目が開いているのを見て——膝から崩れた。
「メア……! 目が……!」
メアの視線がゴルドに向いた。唇が動いた。
「……お、とう……さん」
掠れた声。三年ぶりの声。
ゴルドが寝台に突っ伏した。泣いていた。大きな身体が震えていた。
母親が駆け込んできた。メアを見て。目が開いているのを見て。声を聞いて。
「メア……! メア……!」
三人で泣いていた。
俺は部屋を出た。
―――――
廊下でシアが待っていた。
「……泣き声が聞こえた」
「目が開いた。声も出た」
「二日目で、か。……早いな」
「回路が死んでいなかったから。息吹が染み込む速度が思ったより早い」
「……よかった」
シアが小さく言った。
―――――
二日目の午後。
メアが起き上がった。
自力じゃない。ゴルドが背中を支えて、枕を重ねて。でも上半身を起こしていた。
俺が部屋に入ると、メアが俺を見た。
淡いピンクの瞳。焦点が合っていた。昨日より、ずっとはっきり。
「……カイン、様」
「声が出るようになったな」
「……はい。少し」
声が細かった。でも言葉になっていた。
「気分はどうだ」
「……身体が、温かいです。ずっと——冷たかったのに」
「息吹が巡り始めてる。もう一日経てばもっとよくなる」
「……本当ですか」
「本当だ」
メアが少し黙った。
「……私、死ぬんだと思ってました」
「……」
「毎日、少しずつ身体が動かなくなって。目が開けられなくなって。音が遠くなって。——もうすぐ終わるんだと思ってた」
「……」
「怖かった。でも——諦めてた。しょうがないって。こういう身体に生まれたんだから。誰のせいでもないって」
メアの目に涙が浮かんだ。
「でも——お父さんが泣いてるのだけは、嫌だった。毎晩、寝台の横で泣いてるのが聞こえてた。目は開けられなかったけど、聞こえてた」
「……」
「お父さんを泣かせたくなかった。でも——何もできなかった」
涙が頬を伝った。薄いピンクの髪が濡れた。
「……死にたくなかった。本当は」
掠れた声だった。
「死にたくなかった。生きたかった。果樹園を走りたかった。果物を食べたかった。お父さんとお母さんと——普通に、ご飯を食べたかった」
俺はメアを見た。
十七歳。三年間、寝台の上で消えていくのを待っていた少女。
「メアさん」
「……はい」
「死にかけた人間が一番強い。生きたいって気持ちを知ってるから」
メアが俺を見た。淡いピンクの瞳が揺れていた。
「俺も何度も死にかけた。その度に思った。まだ死ねない。やることがある。守りたいものがある。——その気持ちが、一番強い力だ」
「……」
「メアさんは三年間、死にたくないと思い続けた。お父さんを泣かせたくないと思い続けた。——それが、お前の強さだ」
メアの涙が止まらなかった。
「明日には歩ける。約束する」
「……約束」
「ああ。明日、一緒に果樹園を歩こう」
メアが——笑った。
弱々しかった。唇が少し動いただけ。でも笑っていた。
薄いピンクの頬に、ほんの少しだけ色が戻っていた。




