■ 第9話「軍議」
朝の訓練が終わったとき、レナが走ってきた。
いつも通りのマイペースな足取りだったが、今日は少し速かった。
「カイン! よかった、まだいた!」
「どうした」
「抱きついていい?」
「よくない」
レナはそのまま抱きついてきた。
背が低いレナの顔が、俺の胸元に埋まった。ただ体型は均整が取れていて、抱きつかれた瞬間にそれがよくわかった。カインは少し困った。
「今日の訓練めちゃくちゃよかった! カインどんどん強くなってる! やっぱり強い人好きー!」
「離れてくれ」
「結婚しよー!」
「しない」
レナは笑いながら離れた。まったく悪気のない顔をしていた。
俺は苦笑いしながら、ふと横を見た。
シアがいた。
訓練場の端に立って、手元の術式書に目を落としていた。白い装束に真白の髪、いつもと変わらない姿だ。
ただ一つだけ違うことがあった。
装束の裾を、両手でぎゅっと握っていた。しかもかなり強く。指先が白くなるくらいに。
「シア」
声をかけると、シアは一拍遅れて顔を上げた。術式書から目を離して、俺を見た。
「なんだ」
「顔色悪くないか」
「悪くない」
「本当に?」
「本当だ」
俺はシアに近づいた。三歩分の距離まで。シアの顔をちゃんと見た。
いつもと同じ無表情だった。でも目元がわずかに険しい。それに、さっきから俺の胸元あたりを見ていて、目を合わせようとしない。
「さっきから様子がおかしいぞ」
「おかしくない」
「裾、ずっと握ってる」
シアは即座に手を離した。装束の裾がくしゃっとなっていた。
「……握っていない」
「今まで握ってたじゃないか」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない。俺ちゃんと見てたぞ」
シアは俺をちらっと見た。視線が一瞬だけ合って、すぐに逸れた。白い頬に、薄らと赤みが差していた。
「……何でもない。放っておけ」
「何でもないなら教えてくれ」
「だから何でもないと言っている」
「それ何でもない人の顔じゃないぞ」
シアは黙った。
俺も黙った。
沈黙が続いた。シアは俺から目を逸らしたまま、唇をわずかに結んでいた。何か言おうとして、言葉が出てこない、という感じだった。
レナが横から顔を出した。
「シアちゃん、さっき私がカインに抱きついたのが嫌だったんじゃない?」
シアの肩が、ぴくっと動いた。
「違う」
「本当に?」
「違うと言っている」
声がいつもより半音低かった。
レナはにやっとした。俺はレナを横目で見てから、もう一度シアを見た。
シアは完全に俺から顔を背けていた。耳まで赤かった。
「シア」
「……なんだ」
「レナが抱きついたのが嫌だったのか?」
長い沈黙。
「……別に」
「別にって、なんで裾握ってたんだ。レナと仲悪いのか?」
「仲悪くない」
「じゃあなんで」
シアは答えなかった。
耳まで赤くなっていた。
俺はしばらく待ったが、シアはどうしても答えなかった。
「……まあ、何かあったら言えよ」
俺はそれだけ言って、訓練を再開した。
レナが俺の隣に来て、小声で言った。
「カイン、鈍すぎ」
「何が」
「なんでもない」
レナは盛大にため息をついた。
―――――
昼過ぎ、グラザードに呼ばれた。
「今夜、軍議を開く。お前も出席しろ」
俺は少し驚いた。
「俺が?」
「奇跡の壁を作ったのはお前だ。今後の防衛戦略にはお前の術式が不可欠になる。出席する権利がある」
「権利、というか……他の人たちは納得するんですか。人間が混じることに」
グラザードは少し黙った。
「納得しない者もいるだろう。だが俺が連れていく。それで十分だ」
断る理由がなかった。
「わかりました。出ます」
―――――
夜、軍議の間に通された。
広い石造りの部屋だった。中央に大きな円卓があり、すでに十人ほどの魔族が座っていた。
全員、顔が整っていた。魔族というのは本当にそういう種族らしい。ただ今夜集まっている者たちは、整った顔に一様に鋭い目をしていた。歴戦の将たちだ。角も大きく、傷の痕がある者も多い。
俺が入った瞬間、室内の空気が変わった。
視線が集まった。値踏みするような目。敵意を隠していない目。訝しむような目。
グラザードが先に立って歩いていた。
「カイン・アーヴェルだ。奇跡の壁を作った術師で、予言の者でもある。以後、軍議への出席を認める」
沈黙。
一人が口を開いた。老齢の男だった。角が太く、白髪交じりの髭を蓄えている。
「グラザード将軍、確認させてほしい。この者は人間だ。軍議の場に人間を入れることの意味を、将軍は理解しておられるか」
「理解した上で連れてきた」
「万が一、情報が漏れた場合の責任は——」
「俺が取る」
グラザードは一言で切った。
老将は黙った。
他の者たちも何も言わなかった。グラザードへの信頼なのか、圧なのか。とにかく、それ以上の異論は出なかった。
グラザードが俺に目配せした。座れ、という意味だろう。
俺は円卓の端の椅子に座った。
―――――
軍議が始まった。
グラザードが地図を広げた。
「先日の北部侵攻で、人間側は奇跡の壁を突破できないことを確認した。今後、彼らは別のルートからの侵攻を試みるはずだ。東と南の境界線の防備を強化する必要がある」
将たちが地図を見ながら意見を出し合った。兵の配置、補給路、偵察の頻度。具体的で実戦的な話が続く。
俺はしばらく黙って聞いていた。
地図を見ながら、考えた。
「一つ聞いていいですか」
室内が静まった。視線が集まる。
「東と南にも壁を張れます。時間はかかりますが、今の北の壁と同じものを。そうすれば三方向からの侵攻を同時に防げる」
沈黙。
老将が口を開いた。
「それは……本当に可能なのか」
「北でやったことと同じです。息吹が定着すれば維持に魔力は要らない。一度張ってしまえばあとは勝手に立ってます」
将たちが顔を見合わせた。
グラザードが言った。
「カイン、期間は」
「北の壁一本で一日かかりました。休みながらやれば、東と南合わせて一週間もあれば」
また沈黙。
今度は違う種類の沈黙だった。
老将が、ゆっくりと息を吐いた。
「……百年間、夢にも思わなかった話だ」
その声は、さっきより柔らかかった。
―――――
軍議が終わったのは深夜だった。
将たちが退室していった。俺が立ち上がろうとしたとき、グラザードが言った。
「少し残れ」
二人きりになった。
グラザードは地図を見たまま、しばらく黙っていた。
「カイン、お前に一つだけ話しておきたいことがある」
「何ですか」
「先ほど、壁を三方向に張ると言っただろう。将たちが黙ったのは、喜んだからだけじゃない。怖かったからだ」
「怖い?」
「期待するのが怖いんだ」
グラザードは円卓に手を置いた。
「二十三年前、俺が総司令になったとき、東の砦にはまだ三百人いた。今は五十人だ。残りの二百五十人は死んだか、傷ついて戦えなくなったか、集落に戻った」
俺は何も言わなかった。
「俺が最初に出した撤退命令が、東の砦だった。百人で守っていた前線を下げろと命じた。あの日、殿を務めた三十人のうち、戻ってきたのは八人だった」
グラザードの声は平坦だった。いつもと同じ、感情を出さない声。でも、指先が白くなるほど円卓の縁を握っていた。
「以来、撤退命令を何度出したか。前線を下げるたびに殿が死ぬ。だが前線を維持すれば全滅する。どちらを選んでも部下が死ぬ。二十三年間、その判断を繰り返してきた」
俺は地図を見た。じわじわと後退していく魔族領の境界線。その一本一本の線の裏に、何人分の命があったのか。
「今夜、お前が壁を三方向に張ると言ったとき、あの老将が少し笑ったのが見えたか」
「見えました」
「あの男は、殿で生き残った八人のうちの一人だ」
俺は黙った。
「お前が来てから、初めて前線が後退していない。初めて壁の外を見張る必要がなくなった。初めて将たちが軍議で防衛以外の話をした」
グラザードは俺を見た。
「だから言っておく。期待している。お前が思っている以上に、この国の全員がお前に期待している。それが重荷になるかもしれん。だが知っておいてほしかった」
俺は少し考えた。
「重荷じゃないです」
「そうか」
「こっちこそ、話してくれてありがとうございます。……二十三年間、一人で背負ってたんですね」
グラザードは少し黙った。
それから、いつもの無表情のまま、小さく息を吐いた。
「一人じゃなくなった。最近はな」
それだけ言って、グラザードは先に部屋を出ていった。
―――――
廊下に出ると、シアが壁に背を預けて立っていた。
「待っていたのか」
「……通りかかっただけだ」
絶対嘘だった。軍議の間はここから遠い。通りかかる理由がない。
でも俺は何も言わなかった。
「軍議、どうだった」とシアが聞いた。
「東と南にも壁を張ることになった」
シアは少し目を細めた。
「……そうか」
「シア、手伝ってくれるか。術式の展開、お前がいると早い」
シアは一瞬だけ俺を見た。
「……当然だ」
それだけ言って、先に歩き出した。
俺はその背中を見ながら、今日初めてちゃんと息を吐いた。
偉い魔族たちに囲まれた軍議より、この廊下の方がずっと落ち着いた。
なんでかはわからないけど。
―――――
翌朝、レナが開口一番に言った。
「昨夜シアちゃん、軍議の間の前でずっと待ってたよ」
「知ってる」
「かわいいね」
「余計なこと言うな」
レナはけらけら笑った。
俺は苦笑いしながら、訓練を始めた。




